奈帆
リリは、町からいなくなった。
住宅街は、商店街とは一転して静かだった。時折家の中から、テレビの音が漏れていたり、子供達のはしゃぐ声が聞こえる。街灯には小さな蛾が一匹、近づいたり、離れたりを繰り返して、光の周りを待っていた。
聡は送ると行ったが、奈帆はそれを断り、一人で歩いていた。
もう一度、リリのかけてきた番号に折り返してみたが、何度かけても、繋がらない。長いコールが夜道に響くだけだ。
自分はどうすればよかったのだろう。
奈帆は立ち止まり、端末を耳から離す。風が頬を撫でる。とても、静かに吹き抜けていく。
——しょうがないの。
リリの言葉が、頭から離れない。
最初から、間違えていた。
リリとなんか、関わらなければよかった。リリは、町でいちばん嫌われている。
でも、私は。
嫌いなんかじゃなかった。
奈帆は顔を上げる。半月が透明な空気を纏い、輝いている。はずなのに、奈帆の視界には滲んだ姿しか映らない。
だって、みんな、嫌っていた。私が嫌わないと、おかしかった。
私は、町長の、娘だから?
目が熱くなる。腹の底から、むかついた。奈帆は気づいてしまった。あれほど、嫌だと思っていた立場に囚われているのは、自分自身じゃないか。
恥ずかしくて、悔しくて、たまらない。私は、結局町の一部だ。
ぐるぐると渦巻く感情に支配から逃れるように、奈帆は、うつむいたまま早足に道を抜けた。先なんて見なくても、自分の家路は嫌なほど身に染み付いていて、わかってしまう。
アスファルトが自宅の敷地に変わる。ほらね、と奈帆は、呆れて笑う。あとは扉を開ければ——そう思い、ふと、目を止めた。
見慣れない段ボールの箱が、扉の前に置かれている。
奈帆は屈み、訝しみながら、その箱をそっと開く。
にゃあ、と、猫が顔を出し、奈帆の手のひらに、額を押しつける。箱の中には、一緒に動物病院で出された薬が入っていた。薬の袋を見ると、数字が書かれている。羅列を見るに、電話番号だ。
リリだ。
リリの猫だ。
猫の柔らかな熱が、手のひらの中に収まる。涙が、また溢れ出す。
奈帆は両手を差し出し、リリがそうしていたように、猫を抱き上げた。
——最初から、間違えていた。
私が誰だとか、立場とか、関係ない。ただ。
「……わからなかったの」
どう、関わっていいか、わからなかっただけだ。
猫はぎこちない抱き方にも関わらず、決して嫌がらず、おとなしく奈帆の胸に収まった。まるで気を使うかのように、猫は小さく喉で鳴いた。
*
白山リリは、町からいなくなった。
父親と夜逃げをした、という噂が、いちばん有力らしい。リリの家は、もぬけの殻になっていた。一部では、リリが父親を殺して駆け落ちをしただの、学生たちの間では、そもそもリリはいなかった、など、妙にオカルトじみた話にまで発展している。
リリがいた席は、空席のままだ。奈帆は、その席をじっと見つめていた。悪趣味に置かれた花の生けられた花瓶を見て、わざとらしいドラマみたいだ、と少し笑い、手元の高校の資料に目を落とした。
「ねえ、奈帆。本当に県外行っちゃうの」
ソワソワとしていた朋花が、解いていた塾の課題から目を離して奈帆に尋ねた。
「うん、行くよー」
「奈帆んち、よく許可してくれたよね」
「粘り勝ちよ、こんなん」
奈帆は端末の画面を見る。ロック画面に設定した、猫と撮った写真が映る。
あれから、家に猫を連れ帰り、家族会議は連日開かれた。猫を飼う、飼わない。進路は県外の高校の推薦で行く、行かない。並行して行ううちに、母親は奈帆の味方をするようになり、父親は押し負けた。父親は、案外口論に弱いことがわかって得意になっていたが、母親に、父親がどういう仕事をしているのかを丁寧に説明され、あまり理解は出来なかったが、少し反省した。父親のことは、好きにはなれないが、知らなければならない。
「いいなー、一人暮らし。私もそっちにしようかな」
朋花は頬をついて、ため息をついた。奈帆は小さく笑った。
「ほら、プリント進めなよ」
はあい、と朋花はプリントに目を向け、書き進める。奈帆は端末に視線を落とし、机の上に置く。
——困った時は、協力しよう。
奈帆は、図書室での会話を思い出す。リリは、驚いた顔をしていた。まだ、有効の約束だろうか。
小さな町の景色に目を向け、奈帆は思う。
将来は有名人になろう。テレビに出て、リリを探そう。そして、リリを助けるのだ。そんな空想をしては、恥ずかしくなる。
真っ白な昼の光が、奈帆の身体を包んでいく。うっすらと白い月が、青空に登っている。小さな骨のような月。リリは、同じ月を見ているだろうか。
大人になるのを待ち侘びる。
——私はこの町を出る。
そして、私が大人になったら。
リリから電話が、来る気がしている。
リリの電話 塩野秋 @shio_no_book
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