ばいばい

 下り坂を歩く。スーツの男の車は、あの後すぐに退いたのか、帰り道にはなかった。


 家にもう帰らないのなら、リリは、すでに町にいないのだろうか。


 すっかり、暗がりになった山道は、明かりがほとんどなく、暗い。商店街付近の、パチンコの電飾が遠くから強く光っている。少し曲がり道に入るとすぐ、頼りの灯りも消えてしまう。

 端末のライトを点け、足元を照らした。しばらく歩いていると、その端末が震えた。長い震えだった。

 驚いて取り落としそうになりながら、奈帆は画面を見た。見知らぬ番号からの電話が、かかっていた。


 少し不安になったが、奈帆は、気がつくと通話ボタンを押していた。無言で耳に押し当てると、相手の方も、無言だった。

 相手の息遣いが聞こえる。奈帆はゆっくり、歩みを進めた。


「……リリ」


 相手は、答えなかった。それでも、奈帆は続けた。


「あのね、リリ。ごめんね。……猫のこと、本当にごめん。わざとじゃないの。何を、食べさせていいとか、知らなかったの」

 奈帆は、言葉にしながら、視界が滲んでいくのがわかった。

「ごめんなさい」


 それ以上に、どう言葉にしたらいいかわからなかった。電話越しに、人の喧騒が聞こえる。


「今、どこにいるの。家に、行ったんだけど、誰もいなくて」

 返事はなかった。奈帆は少しずつ、足を速める。とにかく、賑やかな場所にいる。信号機のある場所まで出た。赤信号の光が身体を染め、青信号に変わるのを待つ。

「鈴木さんは、悪くないよ」

 ——声が返ってきた。

 その声は、やはり、リリのものだ。


「猫って案外、強いみたい。もうケロッとしてきたよ」

 少し明るい声で、リリはそう言った。奈帆は、とにかく商店街の方へ走った。店舗の明かりが眩しい。目を瞬かせると、閃光が瞼の裏に映る。ふと足を緩め、言葉を紡ぐ。


「ねえ、町を出るって、本当なの」

「……うん、出るよ」

 リリは穏やかに、そう答えた。

「もう行っちゃうの」

「行くよ」


 まだ夜の初めだというのに、人通りは少ない。酒屋の明かりが奈帆を照らす。商店街の賑わいが近づいてくると、人通りも増えた。帰り際の学生の姿が見え始める。リリの電話の向こうから、歩行信号の音が聞こえた。奈帆はあたりを見回す。


「今、どこなの」

 奈帆は商店街の中へ入り、再び足を速める。

 喧騒の向こうで、リリが息を吸い込む音が聞こえた。

「私、決めていたの。ううん、多分、全部、決まっていたの。選ぶことは、出来なかった」

「どういうこと?」

「私の、家ってさ、本当にひどいの。だから、よくない人に頼らないとさ、生きていけないんの」

 よくない人って? 奈帆は自然と、あの黒い車の、スーツの男を思い浮かべていた。


 信号のある歩道へ出て、視線でリリを探す。奈帆は少し、呆然とし始めていた。どうして自分に話すのか、それは聞いてもいい話なのか。……どうして、家には誰もいないのか。


 お父さんと、一緒にいるの?

 そう口にする前に、リリは明るい声で沈黙を破る。


「だから鈴木さんが、話しかけてくれた時、嬉しかった。びっくりしたの」


 奈帆は立ち止まった。視界の端に映る、見覚えのある、精緻な陶器の人形のような、少女の姿。顔を上げると道路を挟んだ先に、小さな動物病院が構えられている。その蛍光灯に照らされたリリと、抱えられた猫の姿が目に映る。

 その近くに、山道で見た、黒い車も停車していた。


 奈帆は、声も出せずに、リリの姿を見つめた。まるでそこだけが夢のような、同い年の女の子が、奈帆を見つめている。


 リリは、微笑んでいた。それは、皮肉でも、疑心でもなく。リリの表情は、誰も恨んではいなかった。

 ——違う。

 視界が滲む。奈帆は、無意識に首を横に振る。

 私は、そんな言葉を、もらう人間じゃない。


「あの時、話しかけてくれて、それだけで結構助かったんだ」

 道路越しに立つ、リリの口元が動く。


 どうしてか、涙が出てきた。

 それほど親しかったわけではない。ほんの数日、話をしただけ。いつも遠巻きに、見つめていただけ。


 あなたを救おうなんて、思っていなかった。


「奈帆ちゃん。クラス対抗で、バレー出てたでしょ。本当にかっこいいと思った。私はあんな風に、飛べないから」

「私は……」


 奈帆は詰まる言葉を押し出す。瞼から涙が溢れる。逆光であまり表情が見えないが、リリはずっと優しい顔で微笑んでいる気がした。


「推薦で県外、行くんでしょ。全国とか、行ってね。新聞とかで見るかも。そしたら、奈帆ちゃんはヒーローだ」

「私は……!」

「友達になってくれて、ありがとう」


 にゃあ、とリリが、抱えた猫が鳴いた声が、電話越しに届く。

 道路を横切ろうとセーフフェンスを乗り越えようとすると、クラクションの音が聞こえる。すぐ側にトラックの姿が見えた。奈帆は身を引き、トラックが通り過ぎるのを、呆然と見た。ハッとして、少し先の横断歩道の方へ回り込む。ちょうど青信号に切り替わり、奈帆は急いで渡ろうとする。

 リリは、道路脇に止まっていた車にちょうど乗り込むところだった。


「リリ」

 奈帆は叫んだ。リリは振り向き、少し、目を丸くした。

 何を言えばいいのか、わからなかった。奈帆は唇を薄く開き、肩で息を繰り返す。リリは、少し目尻を下げて、再び耳元に端末を当てた。つられるように、奈帆も端末を耳に当てた。


 しょうがないの。

 風の切る音に紛れ、そう、聞こえた。

 ぷつり、と端末の音が切れた。リリを見ると、少しだけ、ほんの少しだけ、苦しそうに唇を開く。


 ばいばい。


 そう言って、笑った。電光に照らされた頬に一筋、濡れた跡が光っていた。

 奈帆は、立ち尽くすことしかできなかった。クラクションが鳴り、自分が横断歩道の真ん中に立ち止まっていることに気がついた。それでも、動くことができない。


 リリは車に姿を消してしまった。それから、すぐに車は発車した。

 車を見送りながら、奈帆は、再び身体がぐらりと揺れた。頭が真っ白になっていく。


「奈帆ちゃん!」

 遠くなる耳に、声が届いた。聡の声だ。

 聡に肩を支えられ、奈帆は歩道に引き戻された。聡は、黒いポロシャツを着ており、スタッフと名前が書かれた名札をつけていた。

 視界の黒い靄が消えてくると、聡の心配そうな顔と、レンタルビデオの建物が映る。どうやら、聡のバイト先がこのレンタルビデオ店だったようだ。


「何があったんだよ……」

 聡は奈帆を、自販機近くの段差に座らせた。

「リリが」

 言葉にしようとすると、また涙が溢れてくる。「いなくなっちゃった」

 膝を抱え、奈帆は突っ伏した。ええ、とかすかに狼狽する、聡の声が聞こえる。

「リリ……ああ、白山さん、ね」

 聡は少し、視線を彷徨わせる。

「あのさ、友達だったの」

 尋ねられ、奈帆は少し顔を上げる。


 わからない。私たちは、友達、だったのだろうか。

 考え込んでいると、聡は顔をしかめて、ためらうように口を開いた。


「その、気を悪くしたら、あれなんだけど。忘れた方がいいと思う」

「……え?」


 奈帆は聡の顔を見た。彼は複雑そうな顔で、バイトの先輩が、と口を濁した。


「俺もさ、噂半分だからわかんないけど。不審者情報って、あの黒い車の車種に当てはまるんだよ」

 リリが去った方向を見やり、聡はやはり、歯切れが悪いままだった。奈帆が聡を見つめていると、聡は観念したように言葉を続ける。


「さっきちょっとだけ、中のやつ見えたけど」

 俺も、知ってるわけじゃないけどさ、先輩がさ、とやはりまだ、歯切れが悪い。奈帆はじっと、言葉を待った。


 歩道信号が信号の点滅を告げ、歩行者は急いで足を進めていた。

 聡は、声をひそめた。


「あれはどう見ても、ヤクザだって」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る