見える景色は

 どう、歩いたのか思い出せない。それでも、奈帆は、帰路についていた。


 家に帰ると、リビングから父親が顔を出した。いつもよりも、険しい顔をしている。

 奈帆は顔を逸らし、急ぎ足で階段を登ろうとした。


「奈帆」

 低い声色で、呼び止められた。奈帆は顔をしかめ、渋々向き直る。

「資料が、来ているぞ」


 リビングへ視線が向けられ、奈帆はハッとする。急いでリビングに駆け込み、テーブルに置かれた、包装ビニールが破かれた冊子の表紙を見る。奈帆が第一志望としている、県外の高校だった。


「県外に行きたいのか」

 後ろから、そう聞こえた。


 奈帆は、答えないでいた。重い沈黙が、耳鳴りとなって広がる。


「わざわざ県外に出なくても、バレーは出来るだろう」


 違う。


「それとも、本気でバレーの選手になりたいのか?」


 違う。

 違う、違う、違う。違う。


 奈帆は唇をきつく噛んだ。


 父親の、呆れたようなため息が聞こえる。奈帆はきつく、手のひらを握る。細かい、ひりついた痛みがした。


「何にしても、話してくれないとわからないぞ」

「話すことなんてない! どうせ、何言っても進学校に行けってしか、言わないんでしょ!」


 振り向いた奈帆に、父親が眉をひそめる。口を開きかける父親をよそに、奈帆は資料を抱え、顔を伏せて、部屋を出る。


「絶対、この学校行くから。絶対口出しさせないから」


 そう口にして、二階へと駆け上がった。


 自室に戻ると、部屋には朝の日差しが満ちている。心の中は嵐が通った後のように、ぐちゃぐちゃのままなのに。


 また涙が出そうになり、奈帆がベッドに資料を投げつけ、自分もベッドに突っ伏した。


 知らない。

 もう何も、知らない。


 リリも、猫も、父親も。知らない。私は何も悪くない。

 奈帆はうずくまり、喉の奥から勝手に絞り出る声を押し殺す。

 悪い、のは、じゃあ、誰。何。


 身体が重い。静寂に押し潰されそうになる。誰かが自分の首を、締めているように苦しかった。


「……ごめん」

 奈帆は呟いた。目を閉じると、溢れる。熱を持った涙が頬を伝う。心の中で、繰り返す。


 リリの制服姿の背中が浮かぶ。

 その背中に、何度も、ごめん、と呼びかけた。


  

 目が覚めたのは、夕方だった。

 珍しく寝坊をしたと思い、起こしに来た母親には、具合が悪いと言い、奈帆はあれから部屋に籠った。

 何度も何度も、目を閉じて呻いているうちに、本当に眠りに落ちていたらしかった。


 気だるい身体を起こす。あれは全部、悪い夢だったのではないか。そう思いたかったが、床に落ちた資料が、現実なのだと理解させた。


 リリに謝ろう。

 ——どう言うべきか、償うべきかもわからない。もう話も聞いてもらえないかもしれない。

 それでも、謝ることしか、できない。


 彼女の家に行こう。そう思い立ち、奈帆は端末を持って、階段を降りた。父親は仕事で出ているし、母親も、買い物に行っているらしく、台所にも居間にもいなかった。


 家を抜け、奈帆は果樹農家のある方へ向かった。

 リリの家は、一見ぼろぼろの小屋だ。いつも彼女の父親のいびきか、何らかの大声が聞こえている。小学生たちは魔物の家だと言って、肝試しのようにリリの家に近づいては逃げていた。


 木々と土のにおいがする。奈帆は、駆け足に果樹の木々が立ち並ぶ道を通り抜ける。山道になるにつれ狭くなる道の途中で、不似合いな、黒い車が停まっていた。足取りを緩め、奈帆は珍しげにその車を眺める。車の種類など全くわからないが、それでも、高そうな車だということだけは、見てとれた。


 通り抜ける際、中に人が乗っているのが見えた。スーツを着ている男だ。奈帆は驚いて視線を外し、そそくさと車の横を通り抜けた。

 上り坂を抜けた先に、リリの家を見つけた。入り口には空の缶や酒瓶やら、黒いポリ袋がいくつか並び、締められていない玄関の鍵は錆びていて外れそうだ。古い木のにおいとかびと、酒のにおいがする。父親が酒を飲んだ後と似た、むっとしたにおいだ。


 奈帆は顔をしかめながら、胸を上下させ、息を整える。

 煤けた戸の前に立ち、奈帆は、「すみません」と呼びかけた。


「ごめんください。リリさん、いますか」


 返答はなかった。ごめんください、と繰り返すが、まるで人の気配がない。

 戸を開くと、酒のにおいはさらに強まった。人が住んでいるにおい——というよりも、汗と、体育館のトイレを煮詰めたようなにおいがする。


 リリはそんなにおいは全然しなかった。本当に、リリはこんなところに住んでいるのか、疑ってしまう。


「誰もいないよ」


 遠くから、声をかけられた。男の声だった。

 驚いて振り向くと、黒いスーツの男が立っていた。顔だちは少し眉の濃い優男だが、ぴっしりとしたオールバックが、都会の雰囲気を思わせる。


「そこには、誰もいないよ」

 呆然としていると、スーツの男はもう一度そう言った。

「……でも、確かに、ここは」


 奈帆は困惑し、交互に視線をリリの家と男の間に彷徨わせる。


「高校生?」

「いえ、中三……です」

 そう答えてから、知らない人間にどこまで答えていいものか、と思い、言葉を濁した。


「ここの人、知り合い?」

「知り合いっていうか……」

「回覧板なら、もう、ここには回さなくていいよ」

「あの……えっと、あなたは、誰、なんですか」


 奈帆は少し、弱い声で尋ねた。男は顎を撫で、一瞬、余所を見て、人の良さそうな作り笑顔をして見せた。


「ここの人の友達でね。ここに住んでたおじさんは、この町からいなくなるんだ。その引っ越しのお手伝いをしに来たんだよ」

「そう、なんですか」


 家の戸を閉めた。男の視線は、家の奥に向いているように思えて、なんだか、閉めなければならないような気がした。


「あの、リリ……この家、女の子も、いるはずなんですけれど」

「お友達?」

「……あの、もしかして、リリをスカウトに来た人ですか」

「スカウト?」


 スーツの男は、目を丸くした。ネクタイピンを指でいじり、小さく吹き出した。


「君、アイドル志望かい?」

「あ、いえ、別に……」


 奈帆は急に顔が熱くなるのを感じ、顔を下げて肩を縮めた。笑われた、という恥ずかしさと、男が急に素を見せた気がして、ほっとした。調子の外れた軽口が飛び出してくる。


「リリ、東京に行くんですか。芸能界とか、デビューしたりして……」


 奈帆の早口に、男はますます声をあげて笑った。奈帆はうなじに汗をかくほど、熱を持ってしまった。


 しかし、彼は本当に、町の外から来たのだ。いざ目の前にすると、連れて行って、と喉まで詰まった言葉を、なかなか発することは出来ずまごついた。

 意を決して高揚した顔をあげ、奈帆が口を開きかけると、男の言葉が遮った。


「東京に行ったことは、ある?」

「旅行で、何回か……」


 家族旅行で行ったことは、数回ある。奈帆がそう答えると、男はそうかい、と頷いた。

「いつか自分で来てみるといい」


 出鼻を挫かれた奈帆は、首を傾げた。

 スーツの男は奈帆に近づきもせず、少しずつ背を向ける。


「誰かに連れ出してもらって見える景色は、そいつが見ている景色しかないんだ」


 奈帆は、何も言えなかった。去っていく男に声をかけようとしたが、男は、すでに誰かと連絡を取っているらしく、端末を耳に当てて話しているようだった。

 リリは、どこにいるのだろう。

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