私のせい


 リリが、来なかった。


 いつも通り新聞を郵便受けから引き抜き、玄関の扉を開いた。今日は挨拶をしてもいいかな、と奈帆は顔を出した。

 そこで見た後ろ姿は、リリではなかった。妙齢の女性だ。たまに、朝練の時に見ていた朝刊配りの人だった。


 奈帆は玄関の外へ飛び出して、思わず、彼女の後ろ姿に声をかけた。


「あの」


 裏返りかけた奈帆の声に、女性は反応して振り向く。あらおはよう早いわね、と、驚きながらも笑顔で返してくれた。


「リリは」

「今日はお休みするって」

「風邪とかですか」

「さあ、そこまでは……」

 女性は頬に手を当てて首を曖昧に傾げた。ごめんなさいね、と謝り、彼女は立ち去っていく。


 奈帆は部屋に戻り、端末の画面を見た。連絡はなく、朋花やグループの連絡しか来ていない。グループを開き、参加者のアイコンを押してみるが、そこにリリはいない。そういえばリリはグループにすら参加していなかった。奈帆の連絡先を渡したが、リリの連絡先は知らない。


 奈帆は、慌てて机の引き出しから、大昔のプリントを引っ張り出す。知っているのは連絡網に書かれた自宅の電話番号くらいだ。


 制服に着替え、リュックサックを引っ掴み外へ出た。

 もしかしたら、もう、リリは出発してしまったのかもしれない。昨日「パパ」と会っていたのは、もう外へ出る準備をしていたのではないか。そう思うと、気が気じゃない。


 自宅——正直あの、リリの父親が出るかもと思うと、かけたくはなかったが、ここしか手段がない。走りながら、意を決してリリの自宅の番号を入力し、通話ボタンを押した。

 無味な通話待機の音がする。奈帆は堤防を走る。どこへ向かうべきかわからないまま、電話がつながるのを待った。


 このまま、駅の方に行くべきだと奈帆は思った。奈帆は、それしか、町の外へ出る方法が思いつかなかった。

 電話は長い間、繋がらない。奈帆は、諦めて電話を切って立ち止まった。息切れをするほどではないが、部活を毎日していた頃に比べると、やはり体力は落ちた。


 奈帆は少し歩みを進め、橋の上で立ち止まる。町が長く、広く、続いている。閑静な住宅街の屋根。見慣れたスーパーの看板。電飾に囲まれたパチンコの看板。いつの間にか、知らない建物がいくつかある。知らないマンション。知らない店。朝日に霞む景色は、見慣れているはずなのに、どうしてか、初めて見るものが多い。


 額に浮いた汗を指の背で拭い、奈帆は長くため息をついた。橋の柵に手をかけ、河川敷に視線を落とす。風が汗に濡れた髪の根本を吹き抜けていく。車も通らないしん、とした空気の中に、砂利の擦れる音が、橋の下から聞こえた。

 奈帆は、堤防に戻り、ゆっくりと河川敷へ降りる。橋の下へ顔を覗かせると、亜麻色の髪と、小さな背が見えた。


「リリ」

 奈帆はホッとして声をかけ、近づいた。彼女は、振り返る。

 ——紫陽花。

 奈帆は彼女の顔を見て、怯むと同時にそう思った。


 リリの真っ白な肌に——桜色の唇の横に、赤い痣が出来ていた。それだけではない。制服からのぞく細い腕にも赤と青の混じる傷がある。

「何それ、どうしたの」


 リリは答えず、視線を下へ落とした。つられて奈帆も目を向けると、いつもの甘える猫の姿ではなく、ぐったりと横たわる猫の鼻先が見えた。呼吸が浅いのが、遠目に見てもわかる。 


「……猫が、具合悪くなっちゃったの」

 リリはぽつりと、口にした。

「え……いつ」

「昨日、夜、見にきたら」

「ずっとここにいたの」

「そんなわけないよ」

 リリは、少しだけ、無理をして明るい声を出した。

「動物病院に連れて行きたかったから。家に一度、連れて帰ったの。そしたらお父さんに、すごく怒られたの」


 ——それで、そんなことになったの?

 奈帆は、声が出なかった。親に、殴られたの。どうして、親が、そんなことをするの。


 黙っていると、リリは続けた。


「私、どうしてもこの子を助けたかったから」

「行こう、よ、病院」

 どう、言ったらいいのか、わからない。奈帆は声を絞り出し、そう口にした。病院。猫を。リリを? わからない。けれどリリは、多分、病院には行っていない。そう思った。


「もう、行ったの」

 リリは猫を抱えた。持ち上げられた猫は、ぐるぐると小さい唸り声を発した。


「なんか、食べちゃダメなもの、食べたんだって。マヨネーズとか、玉ねぎとか」

 リリは目を伏せる。

「野良だから、何でも食べちゃうし、しょうがないよね」

 そう零すリリのそばに、奈帆はつい、近づいた。ふと、端に、くしゃくしゃに縮み、汚れた紙を見つけた。


 ——プリント。

 そうだ。猫に、餌をあげた、あの時下に敷いていたプリントだ。

 そのプリントの上には、乾いた吐瀉物がついている——ように、見えた。


「あ……」


 マヨネーズ。玉ねぎ。

 あの日、私は、何を、あげたっけ。

 サンドイッチ。

 ツナの。

 いつも食べている。私が好きな。


 足元がふらついた。奈帆は、急に頭から血が引いていくのを、感じていた。

 リリがこちらを向いた。何かを言っている。何を言っているのか、遠くて、聞き取れない。


 西洋人形のような瞳が、奈帆の青白い顔を捉える。猫が少し目を開いた。奈帆を見て、少しだけ小さく鳴いた。



 気がつくと、奈帆は、また堤防を走っていた。ばくばくと鳴り響く鼓動。血の味がする乾いた口の中。ぐらぐらと揺れる視界。三半規管が抉れる。喉元に迫り上がる吐き気に、奈帆は立ち止まり、地面に手をついた。


 乾いた喉に息を押しつけると、一気に嘔吐感が込み上げる。けれど、透明な涎だけが落ちる。ひどい吐き気は治らない。

 耳鳴りがひどい。視界が歪んだ。目の下を、雫が伝い、地面にぱたぱたと落ちていく。


 私だ。

 私だ。私だ。私だ!


 呼吸が荒くなる。奈帆は真っ白な頭に、先程のリリの言葉が聞こえる。

 自分が、猫を、殺しかけた。


 リリはそれを知っている。知っているから、私に話したんだ。怒っている。恨んでいる。さっきもきっと、私に対する罵倒を言ったに違いない。


 細かい砂利が手のひらに、膝に突き刺さる。


 もうリリとは、友達になれないのだ。

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