外の人
夕方の空は、青色も朱色も黄色も、いろんな色が混じっていて、偶然の美しさがある。奈帆はこの自然の景色だけは好きで、よく空を見上げている。
川の涼しい空気に撫でられ、奈帆は上機嫌に歩いていた。
リリは東京へ行く。多分、きっと、絶対そう。
奈帆は、彼女の反応を見る限り、「この町から出る」のを確信していた。徐々に歩く速度が速くなり、ステップを踏むように弾む。走り出す。
町を出たら、どうしようか!
一人暮らしのための、部屋を借りないといけない。そのために、バイトしようか。何のバイトをしよう。コンビニ? 居酒屋? 服屋なんかもいい。クレープ屋さんなんかどうだろう。リリみたいに芸能界にスカウトされたりして。
飛び跳ねる思考に胸が躍る。堤防の斜面に植えられた芝生を伝い、河川敷に滑り降りる。広い雄大な川。夕日を跳ね返し、黄金色に輝く水面に、奈帆はたまらず大声を投げかけた。
小さくこだまが返ってきて、奈帆は長い息を吐いた。ようやく少し落ち着き、ふと、我に返った。
リリは、自分を連れて行ってくれると約束したわけではない。勝手に、連れて行ってくれるのではないか、と期待しているだけだ。
奈帆は、河原の砂利を蹴り、川へ飛ばした。
いっそ頼んで見ようか? リリに? それはなんか、負けた気がする。
いつ東京へ行くのか、それだけ聞いてみよう。その時、一緒に荷物を持って、自分も一緒に行こう。それだ。それがいい。
口角が自然と上がっていることに気づき、奈帆は頬を両手で覆った。
ふと橋の下へ目を向けると、二つ、小さな横並びの光が見えた。少し目を凝らしてみると、リリに懐いていた野良猫だとわかった。
「よー。猫ちゃん」
奈帆はそろそろと近づいてみた。普段、あまり動物には興味はないが、今日ばかりは、何者でもいいのでこの高揚した気持ちを共有したかった。
猫は逃げず、奈帆が近づくのを目で追っていた。随分人馴れした野良だ。
「君の飼い主は、いなくなっちゃうよ。新しいご主人を探した方がいいよ」
奈帆はしゃがみ、話しかける。手を差し出してみると、猫は手のひらに額を押しつけた。にゃあ、と小さく鳴いて甘えるような仕草をされてみると、可愛いと思う。
「ご飯でも食べる?」
奈帆はリュックサックから、この後の塾のために買っておいたツナサンドのパックを取り出した。
「魚だから、好きでしょ。ツナマヨだよ」
包装パックを開き、奈帆はツナサンドを割って猫の鼻先に差し出した。
ふんふんと興味深げに見つめ、猫は奈帆の手のひらから、その食料を食んだ。ざらりとした、濡れた温かい感触が手のひらを撫でる。少しくすぐったい。奈帆は笑い、猫を撫でた。
「気に入った? もっと食べる? 二つあるから、一個あげるよ」
ファイルからいらないプリントを取り出し、地面に敷いてサンドイッチを置いた。そのまま残りの一つをかじり、奈帆はスカートをはたいて立ち上がった。
「じゃあね。リリによろしく」
ご飯を夢中で食む猫に手を振り、奈帆は堤防を登る。
あたりは少しずつ暗くなり、濃紺の空に、星が見えてきた。塾の時間が近づいている。奈帆はまた、歩幅を広く弾むように走り出した。
塾の受講の終わり際は、すっかり奈帆も緩やかな疲労で眠気に包まれていた。電灯の白く眩しい光が、目を疲れさせている。
瞼を擦って帰る準備をしていると、あまり聞き覚えのない男の声がした。
「あれ、奈帆ちゃんじゃん」
声の方に目をやると、首が少し痛むほど上を向かなければならなかった。少し細めるとぼやけたピントが徐々に合ってくる。
「さとく……先輩」
近所の一つ上の、聡がいた。背が伸び、声変わりをしたらしい。以前会った際は、まだ同じくらいの背丈で、声も高かった。今でもバレーを続けていると、親づてで聞いた。
「別に先輩とかいいよ。なんか塾で一緒になるの珍しー」
聡は歯を見せて笑った。
「ねー……私は通いづめだけど、さとくんは?」
「バイト始めたら成績下がったからって、成績持ち直すまで塾行けってさ。部活もあんのに、多忙だよマジで」
頭の後ろに手を組み、ため息を盛大につく。
「バイト、何してるの?」
「んー普通に……レンタルビデオの店員」
奈帆は動画配信サービスを使用しているため、あまりレンタルビデオというものを借りたことがなかった。聡のバイト先を聞いても、ぼんやりとしたイメージしか湧かない。
「へー……高校楽しい?」
「ぼちぼち。まあ、バイトと買い食いできんのが一番楽しい」
聡と奈帆は、並んで歩き出し、話しながら教室を出る。
「いいなあ、なんか自由そう」
「奈帆ちゃんももうすぐじゃん。なんかやりたいことあるの。やっぱりバレー?」
「うん、そう……」
奈帆は曖昧に頷いた。親の付き合いが深いと、どれだけ親しくても本心を明かせない。子供からの情報は、親同士に全て伝わってしまうからだ。聡のことは、兄のように慕っているが、結局は他人だし、聡も親に聞かれたら、奈帆の情報を答えるだろう。奈帆もそうだ。自分のことを話さないで済むのであれば、喜んで他人の子の情報を親に話す。
建物の外へ出ると、道路にはやけに停車した車が多かった。
「なんか、迎え呼んでる人多いね」
奈帆はあたりを見回す。リュックサックから端末を取り出し、画面を見ると母親から迎えに行くと連絡があった。
「あー、なんか不審者が出てるとか言ってたな」
聡も端末をいじりながら呟いた。「不審者っつーか、余所モンじゃねって思うけど」
「え?」
「町の人間だったら大体顔見知りじゃん。最近越してきた人とか、UターンとかIターンの人がウロウロしてんのを通報されたんじゃない。かわいそーにねえ……」
UターンとかIターンって何、と奈帆は聞けずに、へえと頷いた。
「じゃあ俺は、この後バイトだから」
聡は右手を冗談ぽく上げ、去ってしまった。
「がんばって」
後ろ姿に声をかけ、奈帆は振り損ねた右手を下ろす。
バイトか、と思いを馳せる。職業体験はあったものの、実際に働くとなると、どういう感じがするのだろう。
そういえばリリは、もう働いているのだった。朝刊を配る仕事をしている。そうぼんやり思いながら、壁に背をもたれ、母親が来るのを待つ。
端末のメッセージアプリを開き母親に返事をし、ふと夜の降りた町に目を向ける。スーツを着た大人も、私服を着た大人も無言で歩いていく。時々複数で歩く大人だっている。酔って大声で話す大人もいる。塾の向かいにある商店街の裏には飲み屋が複数あるのだ。
——こんなとこにいて、つまんなくないのかな。
大人になると、何もなくて、いいようになるのかな。
さとくんは、そんなことなさそうだった。大人になるのが楽しそうだった。
奈帆が瞬きをするたび、思考が増えた。
聡は中学校でも男子バレー部でエースだった。聡を見ていると、この先も楽しいことが待っている。そんな気がする。
どっちを信じればいいんだろう。
奈帆は目を伏せた。視線の先にロービームの光が広がる。顔を上げると、奈帆の母親の車が見えた。
車の後部座席に乗り込み、奈帆は窓に目を向ける。走り出した景色に、一瞬だけ、路地裏にリリの姿が見えた気がした。リリと——知らない、男の人。どきりとして、咄嗟に目を逸らした。
——それは誰なの?
その人は、リリの「パパ」なの?
見間違いではないかと思い、奈帆はもう一度通り過ぎた路地裏の方向を見やる。そのままずっと、視線を送り続けていた。街灯と店舗の明かりが光るばかりで、何の姿も見えはしなかった。
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