図書室
教室から廊下へ出ると、密閉された空間よりは幾分か涼しい風が流れ込んだ。奈帆は額を指の背で擦り、小さくため息をついた。
進路相談室なんて名前ばかりの、互いに義務でしかないような対面がひどく煩わしい。
耳をつまみ、先程の担任の言葉を思い出す。
「鈴木の成績と部活の功績なら問題なく、推薦は通ると思うけれどなあ」
もう何人も面談をしているであろう彼は、年齢相応の疲れた掠れたため息を漏らしながら言う。
「三者面談の時にまた聞くけど、親御さんはOKしたのか?」
奈帆は唇を歪め、少し目を伏せて俯いた。担任はむっつり押し黙る奈帆に、困ったように眉根を寄せた。
「大事な娘さんを県外に一人で出すんだから、許可がないと……」
廊下を少し歩き、奈帆は窓を開けた。風に乗って、緑の葉の匂いがする。
奈帆は、進路相談のプリントを見つめる。推薦を志望する高校は、県外にある。寮があるため、一人暮らしをすると言っても、それほど不便はない。
だが、母親にも父親にも、まだ言っていない。言えば反対されることは目に見えている。どうせ金銭面を盾に、なんだかんだと言われてしまう。それに、対抗できるほど自分はそこまでバレーをやりたいわけではない。
ただ、町の外へ出たいのだ。
町の外へ出たい。それだけなのに、なぜ、理由をつけなければいけないのだろう。バレーの強豪校に行きたい。だから推薦が取りたい。卒業先の進路もいい大学や就職先が多いから。
そんなのは全部、嘘。みんな、きっと他に理由がある。
ぼんやりしていると、朋花が後ろから軽くぶつかるように、抱きついてきた。
「奈帆、進路面談どうだった?」
「別に、ふつうー」
「松セン、ほんとに歯切れわるー。全部親と話さないとーってばっか言うし。うちらの話はどうなんの? って感じじゃない?」
「それね」
朋花の話に合わせるように、奈帆は気のない返事をして笑った。朋花は私立狙いだし、親も寛容だ。少なくとも、彼女の進路は望み通りになるだろう。
少し遠くで、戸を開く音がした。視線を向けると、リリが、進路相談室から出てくる姿が見えた。
リリは、奈帆に気づいて視線を向けた。奈帆は口を開きかけたが、何も言うことはないと気づき、そのまま固まった。リリも何も言わず、すぐよそを向いて、奈帆たちの方とは逆に、歩き出した。
「わ、リリだ」朋花は奈帆に囁いた。好奇心で満ちた声をしていた。
「リリって、卒業したらどうすんのかな」
「さあね……」
奈帆は、曲がり角に消えるリリの姿を見届けた。なぜか、彼女が見えなくなっても、目を離す気になれなかった。
「あ、リリって、パパいるって本当かな」
朋花が奈帆の腕を引っ張り、視界には朋花の三日月に細められた笑顔が映った。
「パパって……だって、いるでしょ? 死んだの?」
「そうじゃないよ、パパ活の、パパ。お金くれる人。パトロンって言うんだって」
両手で口元を覆い、朋花は弾んだ調子が隠れたくぐもった声で囁いた。
「ばからし」
奈帆は、くっついてくる朋花を払い、自分の教室の方へ歩き出した。朋花は慌てて後ろをついてくる。
「だってさあ、ありえない話じゃないじゃん。リリって、見た目だけはいいから。パパがいない方がおかしいっていうか。スーツの男の人と一緒にいるの、見た事ある子いるんだって。噂じゃスカウトにきた人なんじゃないかって」
後ろから、妙に上擦る声で延々と続く朋花の話に、奈帆はうんざりした。大股に進めていた足を止めて、振り返る。
「そんな話さあ、私たちに関係ある? 噂でしょ。朋花が実際に見たの。見てないのに、人のことそんな風に言ったらよくないんじゃないの」
急に立ち止まられ、朋花は小さく身を震わせ、目を見開いた。
そうだけどお、と肩を落とし、朋花は、口を尖らせ、毛先を指でいじる。少し声のトーンが下がった。
「奈帆ってたまに真面目すぎー。つまんない、さっすが、町長さんちの娘さんだわ」
そう言う朋花を一瞥し、奈帆はまた背を向けて歩き出した。ああいえば、奈帆が怒ることを朋花は知っている。だから、構うと余計に面倒だし、鬱陶しい。
意味わかんない。
奈帆は小さく口の中で反芻した。後ろで、朋花が呼びかける声がする。振り返らず、奈帆は早足で歩き続けた。廊下の角を曲がり、教室の前に着いたが、戸の向こうの、自習独特の気が抜けた雰囲気に開く手が止まった。朋花が追いつく気配がして、奈帆は教室に入るのをやめ、少し駆け足で図書室の方角へ向かった。
図書室は、自習中の三年生はよく使う。今日も同じクラスや他のクラスの進学校狙いの人間が、黙々と課題をこなしている。奈帆のように読書をしにきたり、時間を潰すために来ている者も少なくはない。
自分の時間のためにあるような、ひっそりとした穏やかな雰囲気に満ちている。沈殿する穏やかさを壊さないよう、奈帆は本棚と本棚の間を歩き、奥へと進む。一番奥は、この町の風土史や学校の歴史、辞典などの分厚い書籍が並ぶ。用がある人間は、学生にはあまりいない。だから、奈帆はそのスペースが好きだった。
近くに置いてあった丸椅子を引っ張り、奈帆は奥のスペースを覗き込む。普段見ないはずのしゃがんだ人影が見え、目を小さく開いた。
「……よく会うね」
亜麻色の髪に隠れた顔が、こちらを向いた。大きな丸い瞳が奈帆を捉える。リリは手元に分厚い、古い本を抱えていた。
「何、してんの」
奈帆はぎこちなく、椅子を壁際に置き、腰掛けた。
「本を読んでいたの。そういうところでしょ」
しゃがんだまま、リリは本を開く。文字が細かくて、奈帆の位置からは何が書かれているのかわからない。
「それ、何の本?」
「わかんない」
リリは本に目を落としたまま答えた。
「わかんないの?」
「風土史だけど、昔すぎるから読んでもふーんってしか、思えない」
そう答えるリリに、奈帆は眉をしかめ、大きく首を傾げた。
「何でそんなの読んでるわけ」
尋ねられ、リリはなんで、と小さく呟き、ちらと奈帆を見る。ほとんど無表情に見えるが、少し憂いを帯びていて、西洋の人形のようだった。
「なんか……読まないといけない気がしたの」
しばらく口を重くつぐんでいたが、やがてそう答えた。
「ずっと住んでいるけれど、町のこと、何も知らないから」
「ええ? どういうこと」
奈帆は失笑した。
リリは言葉を続ける。
「私の住んでるところは、いいところなのか、わるいところなのか、私じゃわからないから」
細い指がページをめくり、舞った塵が日に照らされる。リリの言葉の意味は、奈帆にはよくわからなかった。でも、何も言えず、少しモヤモヤとした気持ちで開きかけた唇を閉じた。
「鈴木さんは、どう思う」
そう問いかけられ、奈帆ははっとしてリリを見た。リリの琥珀のような瞳が、奈帆の狼狽える表情を映す。
リリは、小さな桜色の唇を開き、静かに尋ねた。
「この町は、好き?」
綺麗なその目が、真っ直ぐ奈帆を見据える。朋花や他の、町の人ですら感じる濁りを、不思議なことに、リリには全く感じない。奈帆は視線を彷徨わせ、諦めたように肩を落とした。なぜだか、今まで身体は強張っていたらしかった。
「……あんまり」
あんまり、好きじゃない。
続けてそう答えた。
奈帆は窓に目を向ける。古い紙と、埃の乾いたにおいが鼻を掠めた。リリの返事はなく、静寂だけが満ちた。
窓から降り注ぐ白い光に、奈帆は目を細める。リリがまだ、奈帆の言葉を待っているような気がして、つい喉元に止まっていた言葉を溢してしまった。
「きらい」
一瞬、鼓動が切り取られたような沈黙。はっとして、リリの方へ振り向いた。誰にも言ったことがないのに。よりにもよって、リリに。
聞かれてしまった。
妙に鼓動が早まる。奈帆は、じっとリリを見つめた。リリは目を見開いていたが、それほど意外、という顔はしていなかった。共感、もしていない。
「そうなんだ」
リリは顔を背け、本にまた、目を落とした。
奈帆は、喉で声を押し殺す。全身が脈を打ち、落ち着かない。大会前の妙な不安と、少し似ていた。リリの小さな背を、息を詰めて見つめていた。
——リリは?
リリは、この町が好き?
好きなわけ、ないよね。
じゃあ、一緒、だよね。
瞬きのうちに、奈帆はそう、心で問いかけた。
「進路、ってどうする?」
奈帆は立ち上がり、リリの隣にしゃがみ、顔を覗き込む。リリは少し虚を突かれたように、唇を少しつんとすぼめていた。
「んー……」
リリは本に顔を伏せるように近づける。髪に隠れ、表情はよく見えない。あまりしたくない話、だと、雰囲気でわかる。それでも奈帆は、めげずに続けた。
「スカウトされたってほんと?」
リリは返事をしないが、本を開く手がぴくりと反応した。
やっぱりそうなんだ。
奈帆の鼓動は早まった。
「白山さん、東京とか行くの?」
自然と声が弾み、思わず声量が上がってしまう。少し周りをうかがって、奈帆はすぐ声をひそめた。
「私も将来は、東京行って、一人暮らししたいんだ。ていうか、今すぐしたいレベル」
奈帆は極めて親しい笑顔を見せる。胸ポケットを漁り、生徒手帳とボールペンを取り出して、ちまちまと字を書いた。不思議そうに見つめるリリに、完成したメモを渡す。
「私の連絡先。なんか困ったことがあったら、お互い協力しようよ」
奈帆の目は期待に満ちていた。リリは、友達がいないから。私が初めての友達になる。そうしたら、自分も連れて行ってもらえるかもしれない。
これからもっとリリに優しくしよう。奈帆は、極めて善良な笑顔をしていたと思う。
リリは呆気に取られたのか、無表情のまま、奈帆の差し出した紙切れを受け取った。
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