リリ

 早朝、リリは朝刊を配るバイトをしている。町の大人はそれを周知していたし、大人づてで子供たちも知っていた。でも、「朝刊を配っている」と、知っているだけだった。


 午前四時五分。まだ青暗い膜が世界を包む中、奈帆はパジャマ姿のまま玄関に降りる。


 カタン、と郵便受けが開く音がして、新聞が差し込まれた。少し経ってから、奈帆は玄関の扉に身体をもたれ、薄く扉を押し開いた。

 臙脂色の体操服に身を包み、亜麻色の長い髪を一つに縛ったリリが自転車に乗り込む姿が見えた。朝靄の中に消えていく様子を、奈帆はただ見つめる。声をかけることはしない。特別、仲良くなりたいと思うわけでもない。だから、ただ見る。


 郵便受けから新聞を抜き取り、居間に置く。奈帆は自室に戻りパジャマを脱いだ。体操服に手を伸ばしかけ、制服に手を移して、着替える。

 バレー部も引退したのだから、もう朝練の必要はないのだが、つい癖で、早く起きてしまう。


 ベッドに腰を下ろし、ゆっくりと仰向けに倒れ込んだ。手のひらから、かすかにと新聞紙のインクの匂いがした。

 カーテンの向こうから、日の光が広がり始める。一階から重い足音が聞こえる。父親が起きてきたのだろう。いつもこの時間ごろに起きて、新聞を読むのが習慣らしい。

 さっさと家を出るべきだった。奈帆は眉をしかめ、身をよじり、身体を起こした。



 奈帆は無言で野菜ジュースを飲みながら、ソファーで朝のニュース番組をぼんやりと眺めていた。


「奈帆、ちゃんと朝ごはん食べなさい」


 母親が弁当を詰めながら、台所から声をかける。奈帆は生返事で返し、ちらりと朝食に目を向けた。バターロールとウインナーと、プチトマトとレタスのサラダが置かれている。


「今日は集まりがあるから、遅くなる」

 父親が、母親に向かっていったのだろう。母親はカレンダーに目を移し、「そうだったわ、みなさんによろしくね」といい、詰め終わった弁当の蓋を閉める。

 奈帆の父は、町長だ。なんだかいつも忙しそうだという様子をしているが、何をしているかは、奈帆は知らない。知らないし、興味もなかった。町長、とかいう名前だけでなんだか偉そうだ。


 町で——主に中心地で、奈帆を知らない人はいない。奈帆は町では「鈴木さん家の娘さん」だ。父親のオマケかよ、という気がして、嫌だった。


 父親も嫌いだった。人の進路に口出しをしてくるし、人付き合いまで難癖をつけてくる。「くれぐれも、あの家の人間とは付き合うな」と、それでも町長かよ、と思ってしまうようなことを平気でいうのだ。


 父親のいう「あの家」がどの家がすぐにわかる。リリのことだ。別に付き合う気はない。全然仲良くしようという気もないが、あのむっすりした顎に皺が寄ったおっさんに言われると本当に腹が立つ。


 朝食は家族みんなで食べるのが習慣だ。だから、奈帆はじっとソファーでテレビを見つめることしかできなかった。

 奈帆は野菜ジュースを飲みきり、ソファーから立ち上がりグラスをテーブルに置いて、ウインナーをひとつ口に放り込む。


「ごちそうさま」

 バターロールを掴み、反対の手でリュックサックを器用に背負う。

「あ、こら、行儀悪いわよ」

「いってきまーす」

 奈帆は母親の声を遮って、玄関へ向かった。



 外はすでに太陽が登りきっていて、アスファルトに反射する光が眩しい。

 道を歩く学生は少ない。それも当然で、登校するにしても時間は早い。

 それでも、親と顔を合わせているよりはマシだ。バターロールをひと口齧り、奈帆は歩き出した。


 堤防を歩いていると、川のおかげで水気のある涼しい風が通り抜ける。奈帆は川に目をやる。広い川の流れる音が、柔らかなノイズのようだ。

 奈帆は、この川は好きだった。一人で、じっと川の流れを見つめていると、嫌なことが全部、一緒に流される。身を任せて、どこまでも流れていきたい。町の外まで連れて行って欲しい。そんなふうに、子供じみた空想をしてしまう。


 早く学校へ行き、勉強でもしようか。そう思ったが、奈帆は別に進学校へ行こうと考えてはいない。バレーの強豪校への推薦をとるつもりだし、それなりの高校へ行ければよかった。

 図書館も多分開いてはいない。ここで時間を潰そう。端末を取りだし、画面をスワイプしながら、堤防を下り河川敷へ足を運んだ。

 日差しが強く、端末の画面がよく見えない。日を避けるため、橋の下へと向かう。足先に日陰の境目がくっきりと見える。奈帆は日陰へ飛び込み、ふうと息をついて顔を上げる。それから、先客がいることに驚き、端末を取り落としそうになった。


「リ——し、ろやまさん」


 目線の先には、制服姿でしゃがんだリリの姿があった。先程の結んでいた髪は解かれ、頬にほつれた髪がかかっていた。彼女の指の先には、じゃれつく小さな毛玉のようなものが見える。少し毛色がくすんでいる、猫だ。

 リリも奈帆の姿を見て、やや驚いたらしく、目を見開いて固まっていた。


「……猫、好きなの」

 奈帆は、何か言わないわけにもいかず、そう声をかけた。

「好き」

 リリはそう返した。「鈴木さん、猫飼わない?」

「うちは、ペット禁止。世話とか誰もできないよ」

 白山さんは、と口にする前に、やめた。

 リリは、ふーんとだけいい、また手へじゃれる猫へ視線を向けた。

「この子、野良だと思うから。早く誰か飼ってあげないと、保健所とか行っちゃうかも」

 長いまつ毛を伏せたリリの艶々とした唇が小さくそう呟いた。


「誰かに飼われていいの?」

 奈帆は、なんともないように声をかけた。声が少し裏返りそうで、小さく咳払いをする。「あなたが可愛がってるんでしょ」

「いいよ」

 奈帆に視線を向けるリリの瞳は、果実の表皮のような艶があった。

「誰かが可愛がってくれるなら、私じゃなくてもいいの」

「ふうん」


 今度は、奈帆が鼻で唸る番だった。奈帆はあたりをそわそわと見回す。同じ学校の人が近くを通らないか、気になってしまう。これ以上話も広がりそうもない。気まずさが重なり、奈帆の口は重くなった。


 リリはしばらく沈黙した後立ち上がる。猫は、リリの足に擦り寄って、小さく鳴いていた。橋の上を車が通る音がして、風が吹き抜ける。リリの長い髪も、奈帆の伸びかけの黒髪も、揺れる。


「ねえ、鈴木さん。この子と会ったらごはんでもあげてよ」

 そう告げて、リリは初めて小さく微笑んだ。

 奈帆は、正直驚いた。リリが笑ったところなど、初めて見たのだ。


「……いいけど。何か持ってたらね」

 別に、断る理由もない。猫は奈帆のもとへ足音もなく軽やかに忍び寄り、つま先に鼻を近づけ、ふんふんと動かしている。奈帆は立ちすくんだまま身動きが取れなかった。どう扱ったらいいのかわからないし、小さな猫と言っても、噛まれたり、引っ掻かれたらどうしよう、と困惑してしまった。


「ありがとう」

 リリの声に、奈帆ははっと顔を上げる。リリは鞄を手に持ち、もう立ち去るところだ。

「一緒に行く?」

 そう言われ、奈帆は逡巡する。

「……いい」

「そう。じゃあ」

 リリはくるりと背を向けて、さっさと歩き出してしまった。日の光にあたり、彼女の髪が、絹のように輝いた。

 奈帆はその後ろ姿を、日陰から見送る。いつの間にか猫が、足元からいなくなっていた。

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