第6話

 外はあいにくの空模様で、間近に迫る夜の気色が、頭上にひしめき合う気味の悪い雲をよりいっそう際立たせていた。四方を高いフェンスに囲まれた小ぢんまりとした空間は僕が思い描いていた景色とはあまりにもかけ離れていて、サビついたなにかの配管も、ヒビ割れ、変色したコンクリートの地面も、なにもかもがモノクロにじっとりと湿っぽくて、それは、監獄さながらだった。

 はたして彼女はそこにいた。新村さんはフェンスに指をかけ、その横顔は物憂げにどこか僕の知らない場所をじいっと見つめていた。


 バタン。


 開け放ったトビラが折からの風のあおりを受け、大きな音を立てながら閉まった。と同時に彼女の顔色がいっぺんに変わった。


「大野くん、キャッチボールしよう」


「キャッチボール?」


「うん。人類滅亡の話、最後ふたりは屋上でキャッチボールするでしょ」


「うん」


「だからそれ、やってみようよ」


「なんで」


「いいから、いいから」


 人目がないとはいえ、それはためらわれた。自分で書いた話の筋を実際になぞるなんて、いくらなんでもバカバカし過ぎる。


「どっかにボール落ちてないかなあ」


 彼女は目を皿にして辺りを隈なく探し始めた。


「そんなに都合よくボールなんて落ちてないよ」


「あった」


 まさか。


「いくよ」


 そう言うが早いか、振り向きざまに彼女は大きく振りかぶってこっちへ向かってボールを放ってきた。彼女の手を離れたであろうボールの軌道を頭に描いてとっさに落下地点へ入ろうと試みてはみたものの、僕の視界は空を覆いつくす分厚い雲しか捉え切れなかった。いや、そもそもどれだけ待っても一向に落ちてくる気配がない。きっと彼女の投げたボールはとんでもないあさっての方向へ飛んでいってしまったんだろう。


「そこだよ」


 彼女はくうを指した。だけどどこをどう見たって、そこにはボールの『ボ』の字も見当たらない。


「どこ」


「ほら、今ちょうど大野くんの手の中に入った」


 ああ。どうやら僕はまんまと一杯食わされたらしい。


「じゃあ次、こっちに投げて」


 そう思ったのも束の間、彼女はけして僕をおちょくっていたわけではなくて、この世の道理をねじ曲げてでもあのシーンを再現するつもりらしかった。


「へーい」


 やけにおどけて彼女は両手を掲げてみせた。僕は、恥を承知でボールを投げ返すフリをした。

 「ねえ」新村さんがまた、こちらへボールを投げる。

 「うん」僕がそれを受け取り、もう一度投げ返す。


「なんだって?」


「なにが」


「ラジオ」


 彼女は僕の綴ったセリフそのままを口にしていた。


「ラ、ジ、オ、だって」


 普段の彼女からはおよそ想像できないくらいの大声が響き渡る。


「……人類はさ」


「なに、聞こえなーい」


「人類はさあ」


「うん」


「実は滅亡しないんだって」


「そうなの」


「さあ」


「どっちなの」


「さあ」


「……」


「怖気づいた?」


「べつに」


「だろうね」


「死なずに済むならそれはそれで嬉しいけどね」


「まあな」


「どうせ私たちにどうこうできる問題じゃないじゃん」


「そうだな」


「でもなるだけ痛くなくしてほしいかな」


「同感」


「ねえ」


「うん」


「なんでみんな死んじゃうんだっけ」


「地球の引力がなくなるからだろ」


「地球の引力がなくなるとさあ、どうなるの」


「空に飛んでいくらしいぞ」


「へえ」


「なんだよ」


「なんかロマンチックじゃない?」


「どこが」


「空飛べる辺り」


「飛べるっていうか飛ばされてるって感じだけどな」


「大して変わんないよ」


「まあ、たしかにどっちも似たようなもんだな」


「人と人のあいだにもさあ」


「うん」


「引力はあるのかな」


「は」


「ちょっと気になっただけ」


「まあ、多少はあるだろ」


「じゃあ地球の引力から解放されたら、私たちはどうなっちゃうんだろ」


「……」


「やっぱり質量の関係で私が引き寄せられちゃう?」


「かもな」


しゃくだ」


「なんでだよ」


「なんか宇宙にも男のほうが優位だって認められたみたいじゃん」


「宇宙にそんな意思はないだろ」


「どうかな」


「……」


「ねえ」


「うん」


「晴れてたら、もっとよかったのにね」


「うん」


「楽しいね」


「そうかな」


「なんか生まれ変わった気分」


 新村さんは満面の笑みを浮かべ、変なことを言った。


「ねえ」


「うん」


「なんであれが僕のノートだって分かったの?」


 僕は今さらとぼけた質問をぶつけてみた。


「前に私が学校を休んだとき、あとからノートを写させてくれたことがあったでしょ?」


「ああ、そういえば」


「そのときにね、この人はなんてキレイな字を書くんだろうって、そう思ったんだ。字は心の鏡、みたいに言ったりするでしょ。だからよく憶えてたんだ」


「そう、なんだ」


「大野くん」


「うん」


「友だちになったよしみでもうひとつ、お願い聞いてもらいたいんだけど」


 ここに来てさらにどんな無理難題をふっかけられるのかと、僕は戦々恐々としていた。


「あのノート、もう一回見せてもらえないかな」


「え」


「全部読んでみたいんだ」


「ここは俺が食い止める。お前は先に行け」

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