第5話
僕を呼び止める声、新村さんだった。
彼女は昨日とまるきり同じシチュエイションでこちらに手を差し延べてきた。あまりにもそっくりだから、僕はとっさに自分が今まさに夢でも見ているんじゃないか、あるいは昨日のあの出来事こそが夢だったんじゃないかと、おかしなくらい真剣に頭を捻っていた。もちろんそれは夢でも幻でも、ましてや僕の描いた絵空事などでもなく、まぎれもなく昨日とは違う今日の風景だった。
彼女のその手の中にあったのは僕が窓から投げ捨てたはずの、あのノートの切れ端だった。
「あのあと急いで拾いに行ったんだけど、どうかな。全部ある?」
手もとに舞いもどったその一枚一枚はシワをていねいに伸ばされ、なんとか元どおりにしようという奮闘の跡が見て取れた。
「なんで」
「なんで。悪いことしちゃったから。でもこれはちゃんと返さなくちゃって、そう思ったから」
「そんなに大したもんじゃないよ」
「そうなの?」
「うん。暇つぶしだから」
「私は結構好きだな。こういうの」
「こういうの?」
「なんていうのかな。妄想、みたいな」
そのころにはもう彼女になんと言われようと、お粗末な物語の出来栄えをうしろ手に隠そうともしなくなっていた。それは図らずも一度ならず二度までも、その内容をすでに彼女が目にしてしまっていたからだ。そしてこのお世辞にも健全とは言いがたい僕の秘めごとを知り得てなお、ごく当たり前に話しかけてきてくれたからだ。
「ああ。でも、変な意味じゃなくて、たまに考えちゃうよね。ドラマやマンガによくあるみたいに屋上で、その、青春ぽいことしたいなあ、とか」
「青春ぽいこと」
「うん。たとえば、とりとめのない話に花を咲かせてご飯を食べる、とか、わけもなくみんなで授業をサボってみたり、とか。あとは、夕日に向かって叫んでみるとか、なんかそんな取るに足らないやりとり、みたいなのにちょっと憧れちゃうかな」
新村さんの話し方は不慣れな話題に精いっぱい付き合うかのように、どこか舌足らずに聞こえた。彼女なりのフォローのつもりなんだろうか。
「だから、ほんとにそんなふうにできたらいいなって。知ってた? うちの学校、屋上は閉鎖されてて入れないんだよ」
「それでも絶対にありえないとは言い切れないよ」
売り言葉に買い言葉を返すみたいに、なんの根拠もないヘリクツが口を衝いて出た。知らず知らずのうち、くだらない自身の妄想によほど愛着が生まれていたのかもしれない。それともちっぽけなプライドが僕にもあった? 彼女は目を点にして、口を半開きにちょっと間の抜けた表情になった。
「うん。たしかに、そうだね。どうして今まで気がつかなかったんだろう」
かと思えば、今度は目からウロコが落ちましたと言わんばかりに大げさに納得してみせて、僕に同意を求めるまなざしを送ってきた。
「私と友だちになってください」
「なんでそんなこと。友だちならほかにいくらだっているだろう」
「じゃないとそのノートの存在をクラスのみんなにバラします」
悪びれもせずとんでもない極悪非道を振りかざす。
「っていうのは半分ウソだけど、どうかな」
残りの半分は?
そんな疑問が頭をもたげたけれど、新村さんはイタズラっぽいその口ぶりとは裏腹に大マジメな顔でそう尋ねてきたから、その交換条件がたぶんデタラメだとしても僕は無下にあしらうことができなかった。
「そうだ、屋上行ってみようよ」
ついさっき屋上には入れないと言ったばかりなのに、いったいなにを考えているんだろう。彼女は脇目も振らず勝手に進んでゆく。有無を言わさぬその押しの強さに僕は少しく面食らって、なにひとつ言い返せぬままついて行かざるをえなくなった。
使い慣れた中央階段ではなく、一年の教室の並ぶこの廊下のいちばん奥。西側に位置する階段からさらにひとつ上の階を目指す。屋上へと続いているらしいその階段を下から見上げると、踊り場の辺りには黄色と黒の互い違いに連なったチェーンが道幅いっぱいにかけられ、そこへ『立入禁止』と書かれたプレートがぶら下がっていた。その向こうには生徒用の机やらイスやらが積み上げられて、道を塞いでいるように見える。
「やっぱり入れないよ」
「ううん、行ってみないと分からないよ」
彼女は
「ねえ、やっぱり閉まってるんじゃない?」
人気のない校舎に聞き慣れない僕の声がこだまする。所在なげなその声は空中に、ふわり、ふわり、留まってから、パッと散り散りになった。「新村さん」そう名前を呼んでみても返事はない。
さんざん二の足を踏んだ挙句、仕方なく僕はあとを追って『立入禁止』のチェーンをおそるおそる潜った。本当に彼女はここを通り抜けていったんだろうか。
狭い通路のそこかしこには押し合いへし合い乱雑に物があふれ返り、彼女の体型が比較的細身だからといって、この隙間を縫って屋上へ向かったとはにわかに信じられなかった。僕はやっぱり尻込みする。ところがいつもなら真っ当な道に連れもどすはずの罪悪感は、よもや見捨てるつもりではあるまいなと予期せず彼女の側に付き、退路は断たれた。
足場の強度をつま先で確かめつつ、ダンボールと、ヒモで括られたいつかの教科書と、積み重なったイスの上をフラつきながら渡り歩く。ときおり赤いカラーコーンなんかに手を突いて、どうにかこうにか最上段まで上り詰めた。そこにあったのはいかにも頑丈そうなトビラがぽつんとひとつきり、そのトビラにはまった正方形の窓ガラスから薄暗い校舎内へほんのりと、光がこぼれていた。
ぺたん、ぺたん。足音を立てるたびホコリが舞い上がり、カビっぽい臭いが鼻につく。ふと僕は、この世界には存在しない新村さんのあとを追ってきたんじゃないか、そんな荒唐無稽のストーリイをひらめいた。なぜだかそれが、僕の置かれたこの奇妙な状況の説明としてひどくふさわしく思えた。
窓は白く曇っていて、目を凝らしてみても表のようすどころか自分の顔すらロクに映らない。僕は思い切ってドアノブに手をかけた。トビラは見た目に反していとも簡単に開いた。
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