第3話

 その夜、机に向かいながらちっとも捗らない勉強に僕は手をこまねいていた。理由はハッキリしている。今日のあの出来事。放課後の教室でひとり、彼女に出会ったこと。

 どうして彼女はあんなことを口にしたのか。「ごめんね」その言葉はけして上辺だけではなかったように思える。だとしてもすべてがすべて善意からだったと都合よく割り切ることが、僕にはできなかった。そして彼女に対する僕の態度は、ああ、なんて子供じみたモノだったろう。

 リュックから見慣れたノートを取り出す。茶色い表紙の表にも裏にもなにも書かれてはいない、まったくの無地だ。落とし主を探すため、彼女はこのノートを開いたに違いない。そこには無残に引きちぎられたページの残滓ざんしがイビツな波を立てていた。ザラつくその手触りに僕ははたと思い立って、家を抜け出した。


 三〇分ほど自転車を走らせ学校にたどり着くと、校舎にはところどころまだ明かりが灯っている。一年五組の教室は、真っ暗だった。

 手はじめに、教室の真下にある植込みをしらみつぶしに探ってみた。が、どこにも見当たらない。それから同心円状に少しずつ、捜索範囲を広げていった。

 しばらくして、にわかに車のエンジン音が近づいてきた。慌てて植込みと校舎との隙間に身を潜める。向かって右手奥の建物の陰からヘッドライトの光が手前にまっすぐ伸びて、黒っぽい車体が顔を出し、目と鼻の先を右から左へ通り過ぎて、そして正門の方へ遠ざかってゆく。その行く手を遮るように道の真ん中には、僕の乗り捨てた自転車がわが物顔で幅を利かせていた。

 僕はなんだか急にあがないがたい悪事に手を染めている気になって、逃亡中の容疑者みたいにじっと息を押し殺していた。自慢じゃないけれどこれまでの短い人生で、僕はその大小に関わらず人の道を外れた行いとはまるで無縁だった。若気の至りだからと目をつむってもらったこともなければ、面と向かってこっぴどく叱りつけられた試しもなかった。だからあくまでこれは僕の想像だ。

 けれどおもむろに車を降りたその人物は自転車を脇にどけると、ふたたび運転席のドアを開け、何事もなく走り去ってしまった。とたんに全身の力が抜ける。

 そのときになってようやく僕は自分が半そでの部屋着のまま、着の身着のまま外へ飛び出していたことに気がついた。夜風に晒された僕の体は次第に熱を奪われ、それとともに、さっきまであれほどこだわっていたノートの切れ端がなんの変哲もない紙クズ同然に思えてきた。

 結局、失くしたページはただの一枚も見つからなかった。たぶん風に飛ばされ、どこかよそへ行ってしまったのだろう。それならそれで構わない。ここを遠く遠く離れれば、僕を知る者もきっとだれもいなくなる。

 格別に明るい今晩の月の下、僕はあっけなく帰路に就いた。

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