第12話 三人称一元視点って人気があるの?
三人称一元視点って人気があるの?
今回のご質問です。
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五郎猫さち様
質問ですが、三人称一元視点というものを何回か前に説明してもらったと思うのですが、三人称と一人称を切り替えるという感じでしょうか。理解できていないので再度確認したいです。
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「三人称一元視点」は簡単で効果的な表現に見えて制約が多いので、群像劇のように主人公が複数いるような場合でなければあまり使われていません。
群像劇は多くの主人公が登場して展開される歴史を読ませるジャンルのため、どうしても「三人称視点」では概略しか示せず共感を呼べません。しかし「一人称視点」ではひとりの主人公しか描けない。
この双方のいいとこ取りをするために生まれたのが「三人称一元視点」なのです。
三人称視点で書くと
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劉備は関羽と張飛を伴い、天才の誉れ高い諸葛亮の住む庵を訪れた。
「家の者、ここに諸葛先生はいらっしゃるか?」
庵の奥から童がひとり出てきた。
「先生は出かけております。本日は帰られないかと存じます」
張飛が口を挟む。
「今日もかよ。本当は居留守を使っているだけじゃねえのか?」
「よさないか張飛。失礼だが、君は諸葛先生のなにかね?」
関羽の問いに童は、
「小姓でございます」
と答えた。劉備はそれを聞き、
「さようですか。では荊州の劉備が参ったと先生にお伝えください」
と言伝てした。
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のような形になります。
誰の心の中も覗けない。傍から見ていたカメラの視点です。
一人称視点で書くと
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私は関羽と張飛を伴い、天才の誉れ高い諸葛先生のおられる庵を訪れた。
「家の者、ここに諸葛先生はいらっしゃるか?」
庵の奥から小綺麗な装束をまとった童がひとり出てきた。
「先生は出かけております。本日は帰られないかと存じます」
今日もダメだったか。なんと折り合いの悪いことか。私は諸葛先生を迎えるに値する器ではないのだろうか。
「今日もかよ。本当は居留守を使っているだけじゃねえのか?」
張飛の言うように、居留守でも使っているのかもしれない。しかし、天才と呼ばれるほどの男が居留守を使わなければならないほど、私には将才がないのかもしれない。
「よさないか張飛。失礼だが、君は諸葛先生のなにかね?」
関羽が童へ丁寧な口調で尋ねた。
「小姓でございます」
ということはここに住んでいるわけか。それならば。
「さようですか。では荊州の劉備が参ったと先生にお伝えください」
これで少なくとも諸葛先生に私の存在は認識してもらえるだろうか。
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劉備の中に入り、劉備の視点、考え、判断などを書き込んでいます。他の誰かのものは入っていません。
三人称一元視点で書くと
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劉備は関羽と張飛を伴い、天才の誉れ高い諸葛先生の住む庵を訪れた。
「家の者、ここに諸葛先生はいらっしゃるか?」
庵の奥から小綺麗な装束をまとった童がひとり出てきた。
「先生は出かけております。本日は帰られないかと存じます」
今日もダメだったか。なんと折り合いの悪いことか。
「今日もかよ。本当は居留守を使っているだけじゃねえのか?」
張飛の言うように、居留守でも使っているのかもしれない。しかし、天才と呼ばれるほどの男が居留守を使わなければならないほど、私には将才がないのかもしれない。
「よさないか張飛。失礼だが、君は諸葛先生のなにかね?」
関羽が童へ丁寧な口調で尋ねた。
「小姓でございます」
と答えた。劉備はそれを聞き、
「さようですか。では荊州の劉備が参ったと先生にお伝えください」
と言伝てした。
これで少なくとも諸葛先生に私の存在は認識してもらえるだろうか。
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「三人称視点」に「一人称視点」が混じっているように見えませんか。
厳密に言えば「三人称視点」にひとり(ここでは劉備)の心の中が書かれています。
人称を確認すると「劉備」であったり「私」であったりします。これも「三人称視点」に「一人称視点」が混ざっている証拠です。
この「三人称一元視点」の利点は、主人公と適度に距離ができることです。
そのため、別のシーンで「諸葛亮の三人称一元視点」を書くこともできます。
それは便利だ。よし、私も「三人称一元視点」とやらで小説を書いてやろう。
この考えはたいへん危険なのです。
そんなに簡単にいかないのが「三人称一元視点」の難しいところです。
三人称一元視点が破綻してしまうと
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劉備は関羽と張飛を伴い、天才の誉れ高い諸葛先生の住む庵を訪れた。
「家の者、ここに諸葛亮先生はいらっしゃるか?」
庵の奥から小綺麗な装束をまとった童がひとり出てきた。
「先生は出かけております。本日は帰られないかと存じます」
今日もダメだったか。なんと折り合いの悪いことか。
張飛が落ち込む私を見て、童の言葉を疑って口を挟む。
「今日もかよ。本当は居留守を使っているだけじゃねえのか?」
張飛の言うように、居留守でも使っているのかもしれない。しかし、天才と呼ばれるほどの男が居留守を使わなければならないほど、私には将才がないのかもしれない。
「よさないか張飛。失礼だが、君は諸葛先生のなにかね?」
関羽は、表情を変えなかったように感じた童へ丁寧な口調で尋ねた。
「小姓でございます」
と答えた。劉備はそれを聞き、
「さようですか。では荊州の劉備が参ったと先生にお伝えください」
と言伝てした。
これで少なくとも諸葛先生に私の存在は認識してもらえるだろうか。
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「張飛が落ち込む私を見て、童の言葉を疑って口を挟む。」は張飛の心の中が読めてしまっています。「疑って」は心の動きですからね。また「張飛が落ち込む私を見て」は張飛から見ているのでこちらも視点が移動してしまっています。
「関羽は、表情を変えなかったように感じた童へ丁寧な口調で尋ねた。」も「表情を変えなかったように感じた」は関羽の心の動きです。
このように、主人公ひとりの心の中だけが読める仕組みを逸脱すると「神の視点」といって「誰の心の中も読み放題」という「最悪の視点」になってしまいます。
つまり便利さと凶悪さが薄皮一枚であることこそが「三人称一元視点」の特徴なのです。
簡単に扱えるように見えて、本当に主人公ひとりの心の中だけを書くのはとても難しい。
「三人称一元視点」が失敗すると、些末な「小説賞・新人賞」でも初見で落とされる「神の視点」に陥ってしまうのです。
ですが、群像劇では、基本「三人称視点」でありながら、そのシーンの主人公の心情を描ける「三人称一元視点」は必須の文体ではあります。
特定の主人公の一代記なら「一人称視点」で描いたほうがよいのです。
しかし数世代にもわたる長大な物語を描くのに、「一人称視点」では限界があります。
シーンごとに主人公を決め、描いていく「三人称一元視点」だからこそ、仮にひとりの主人公が死んでも、新たな主人公を据えて歴史を前へ進ませられます。
主人公の活躍を描くだけなら「一人称視点」が最適です。
歴史を描きたいのなら「三人称視点」が有利です。
しかし「三人称視点」では今ひとつ読み手を主役に惹き込めない、魅力に乏しい作品となります。
そこで用いられたのが「三人称一元視点」なのです。
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本コラムでは、皆様からさまざまなご質問をお待ちしております。
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