第2話 三人称視点と神の視点の違い

三人称視点と神の視点の違い


 さっそくご質問をいただきましたので、順番にお答えしてまいります。


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雨 杜和orアメたぬき様


私の一番の疑問は、三人称視点と、神視点の違いです。
ときどき、混同します。
この違いが知りたいって思っております。

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 小説を書き慣れていない方は、もれなく「神の視点」になってしまいます。


 しかし小説界隈では「神の視点」の評価がきわめて低いのです。

 書きやすいのにまったく評価されない。


 なぜでしょうか。


 詳しく説明すると「面白さの謎」にも迫るお話になります。


 まず例文を「神の視点」で書いてみます。

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 帝国軍と対峙していたミゲル将軍はその布陣を見て、これはチャンスだと思った。

 ハワード大将が先鋒となり、中央から突破口をこじ開けんとする紡錘陣形だったからだ。まさかわが中隊がそれを予想してハワード大将の先鋒を半包囲し、殲滅しようとしているとは思わないだろう。

 ハワード大将は号令の準備をしていた。自慢の紡錘陣形で中央突破して王国軍を分断。統制を失った敵を掃滅していく戦術でここまで勝ち残ってきたのだ。そんな最強の戦術で負けるなどありえない。

「帝国軍、中央突破だ! 進撃せよ!」

 彼はこれ以上の戦術など存在しないと思っていた。

 それが今、破られようとしている。

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 最近「神の視点」で書かないので、例文に苦労しました。


 えっ? これが「神の視点」? 普通に「三人称視点」じゃない?

 そう思ってしまうかもしれません。

 ですが、これが「神の視点」です。


 「神の視点」の定義をしてみましょう。

(1) 複数の人物の心の中が覗けてしまう。

(2) こちらにあった視点が、なんの合図もなくあちらへ移ってしまう。

(3) こちらで話していたことが、なぜかあちらに筒抜けになっている。


 大きく分けるとこの三点。


 例文でこの三点を検討していきます。

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 帝国軍と対峙していたミゲル将軍はその布陣を見て、これはチャンスだと思った(1)。

 ハワード大将が先鋒となり、中央から突破口をこじ開けんとする紡錘陣形だったからだ。まさかわが中隊がそれを予想してハワード大将の先鋒を半包囲し、殲滅しようとしているとは思わないだろう。

 (2)ハワード大将は号令の準備をしていた。自慢の紡錘陣形で中央突破して王国軍を分断。統制を失った敵を掃滅していく戦術でここまで勝ち残ってきたのだ。そんな最強の戦術で負けるなどありえない。(1)

「帝国軍、中央突破だ! 進撃せよ!」(3)

 彼はこれ以上の戦術など存在しないと思っていた(1)。

 (2)それが今、破られようとしている。

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 (1)「複数の心が覗ける」から見ていくと「これはチャンスだと思った。」「そんな最強の戦術で負けるなどありえない。」「彼はこれ以上の戦術など存在しないと思っていた。」

 と、ミゲルとハワードふたりの心の中が読めてしまっています。


 このように複数の心の中が読めてしまうと、読み手は興醒めしていまいます。

 例文だと、「ハワード大将は中央突破で負けるとは微塵も思っていない。しかしミゲル将軍はそれを撃滅するための戦術を用意しているという。」

 この前提が示されていて、果たして「これから繰り広げられる戦はどちらが勝つのだろうか」と手に汗握れるものでしょうか。

 だって前提で示されているのは「ハワード大将の得意な戦術を逆手にとってミゲル将軍が勝つ」こと。

 それがわかりきっているのですから、「この先どうなるのだろう」とは思えませんよね。


 そうなのです。

 「神の視点」だと、「この先どうなるのだろう」という「謎」とそれに伴う「ワクワク・ハラハラ・ドキドキ」がありません。

 結末のわかっているドラマはあまり楽しめないのです。


 もちろん筆力があれば「神の視点」で書いても、巧みに「この先どうなるのだろう」と不安や期待を煽ることもできなくはない。

 ですが、それはプロになってから考えればよい話であって、アマチュアのうちは絶対にオススメ致しません。



 次に(2)「視点の唐突な移動」ですが、これより前は王国軍に視点があったのに、ここから先は帝国軍に視点が移っています。

 しかもなんの合図もなく、いきなり切り替わっています。

 多くの読み手はここで脱落します。

 だって、今どちらに視点があるのか、わからなくなってしまいますからね。

 視点は可能なかぎり固定する。視点を移すときには合図を出して「ここから視点が切り替わりますよ」と読み手に知らせてあげるのが、読み手本位の書き方なのです。

 読み手を考えていない書き方は「神の視点」もうひとつの欠点です。



 (3)「相手に筒抜け」は、書き手の手間を省くためにマンガやアニメでは多用されますが、小説でやると間抜けなだけです。




 では例文を「三人称視点」に改めてみます。

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 帝国軍と対峙していたミゲル将軍はその布陣を見て、ニヤリと笑った。

 ハワード大将が先鋒となり、中央から突破口をこじ開けんとする紡錘陣形だったからだ。

 すると帝国軍から進撃を知らせる銅鑼が盛大に打ち鳴らされた。

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 見てすぐわかるのは、視点が王国軍側で固定されています。

 これは(2)「視点の唐突な移動」を起こさないためです。

 視点を切り替えるタイミングは、今の視点を語り尽くしたのち。

 今の視点で語り足りないのに視点を切り替えると、消化不良に陥りますし、いまいちノリが悪くなります。頻繁に視点をスイッチする原因にもなります。

 (3)「相手に筒抜け」も帝国軍側を書いていないので、自然と解消できています。


 そして(2)を封印したことにより、(1)「複数の心が覗ける」を自然に解消できています。

 例文では「ニヤリと笑った」という動作しか書いていません。つまり主人公でも心の中が読めないのです。

 主人公の心の中も読めないのですから、独白(独り言・モノローグ)も使えません。



 このように、本来「三人称視点」とは「誰の心も覗けない」ものなのです。

 これをしたにもかかわらず中には王国軍側の「複数の心を覗ける」状態になってしまう方もいらっしゃいます。


 「三人称視点」を選ぶなら「誰の心も覗けない」のが最低条件です。

 ですが、そうするとダイナミズムに欠ける展開になりかねません。よほど状況や展開が面白くないと、まず読んでいて楽しくないのです。



 そこで主人公を決めたら、心を覗けるのは主人公ただひとり。

 そう決めておけば「三人称視点」でも臨場感やワクワク・ハラハラ・ドキドキが楽しめる作品になります。

 こういう書き方を「三人称一元視点」と言います。


 たとえ主人公でも心の中を覗けない。ただ表面に現れた動作をつぶさに書くことしかできないのが、厳密な意味での「三人称視点」です。


 「三人称視点」での群像劇を書きたい場合は、すべてのキャラクターの心が覗けてはならないのです。

 あくまでもその場にカメラが配置されていて、役者の演技と物語の構成だけで心情を表現していきましょう。

 誰にも肩入れをしないから、キャラクターを平等に描けて群像劇として成立するのです。

 誰かに肩入れをするのであれば、それは「三人称一元視点」として書くべきであって、「複数の心が覗ける」ような「神の視点」ではダメなのです。



 たとえば陳寿氏『三国志』は曹操、孫権、劉備の三人が主役の群像劇として読める史書です。

 それぞれ魏・呉・蜀の場面では彼らのうちひとりが主人公であり、「三人称一元視点」で書くことは可能です。

 しかし『三国志』では物語として各主人公の心の中はいっさい覗けません。純粋な「三人称視点」で描かれています。史書であり、歴史的事実を書き留めるのが目的だからです。

 羅漢中氏『三国志演義』は蜀の劉備が主人公で、彼の死後、諸葛亮が主役を引き継ぎますが、物語は劉備が主役であり、その間は諸葛亮の心の中は覗けません。主役を引き継いでも諸葛亮の心の中はあまり覗けない仕組みにしてあります。『三国志演義』においては劉備こそが主人公であり、彼の死後はあくまでも後日談でしかなかった証左です。



(1) 神の視点は「誰の心も覗ける」が、三人称視点は「誰の心も覗けない」。

(2) 神の視点は「いつでも視点を切り替えられる」が、三人称視点は「ブロックとしてまとまっている範囲内では視点を切り替えられない」。

(3) 神の視点は「どこからでも情報を取り放題」ですが、三人称視点は「視点のある側へ情報が届くまでは誰も知らない」。


 という違いがあります。


 正直(1)を徹底できる書き手がなかなかいません。三人称視点に見えて、読み進めると誰かの心が覗けてしまう。一度破綻すると歯止めが効かなくなって、その後誰の心も覗き放題になってしまうのです。

 この「誰の心も覗けない」を徹底するのが、とにかく難しい。

 エンターテインメント性を高めようとすれば、誰かの心を書いてみたくなるからです。


 実は『三国志』は本家中国ではもともと人気がありませんでした。

 しかし日本では吉川英治氏が羅漢中氏『三国志演義』を元に彼オリジナルの逸話も含めてエンターテインメントに特化した『三国志』を生み出し、新聞連載で大ヒットを収めます。

 そしてシミュレーションゲームとして光栄(現コーエーテクモゲームス)が『三国志』シリーズを発表して成功。アジア圏で販売していくうちに、本家中国が「わが国にはこんなにも面白い作品があったではないか」と見直されるきっかけとなりました。

 同じようなものに『西遊記』があります。こちらも日本で夏目雅子氏が三蔵法師、堺正章氏が孫悟空を演じたドラマ版『西遊記』が大ヒットし、中国での放送も大ヒット。こちらも中国で見直される事態に発展しています。


 『三国志』『西遊記』ともに原典は三人称視点で書かれており、日本ではそれを一人称視点に切り替えることで物語のエンターテインメント性を高めて大成功しました。


 このように三人称視点は一般的に評価されづらいのです。それはいっさいキャラクターの心を覗けないから。

 物語は、主人公に感情移入することで楽しむ芸術ですから、それを誘う「主人公の心が覗ける」演出が使えないと、エンターテインメントとして成立しないのです。


 だから「神の視点」を避けて「三人称視点」で書こうとすると、たいていの方が失敗します。

 場面場面で主人公を決めて、そのキャラクターの心が覗ける「三人称一元視点」で書くからこそ、エンターテインメント性のある「三人称視点」が書けるのです。



 それでも「三人称視点」に挑みたい方は、「神の視点」の三要素を徹底的に排除しましょう。


 「神の視点」の三要素。それは、

(1)「複数の心が覗ける」

(2)「視点の唐突な移動」

(3)「相手に筒抜け」

 でしたね。


 これが混じったら、その段階で「三人称視点」は駄作と認定される「神の視点」に変貌してしまいます。

 それではあまりにももったいなさすぎるのです。


 徹底的にリアリストになって、見たものをそのまま書くだけ。

 心の中を書こうとしないで、動作や見え方の違いで読み手にそれとなく伝えていく技術を身につけること。

 「三人称視点」はプロでも難しいといわれるのはそのためでもあります。


 まぁさらに使い手の少ない「二人称視点」というものも存在するんですけどね。

 サー・アーサー・コナン・ドイル氏『シャーロック・ホームズの冒険』はそんな「二人称視点」で書かれた傑作です。

 また二人称視点で芥川龍之介賞を獲った藤野可織氏『爪と目』という作品もありますので、挑みたければ必ず読みましょう。







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前回と同じ告知です。


 本コラムでは、皆様からさまざまなご質問をお待ちしております。

 私ひとりで思いつくネタの数なんてたかが知れていますからね。

 小説を書くうえで疑問に思ったこと、不安に思ったこと、迷っていること。

 そんなことがございましたら、ぜひコメントを残していただけたらと存じます。

 私が「小説の書き方」コラムで蓄積した知識を、より実践的にお示しできたら、きっと皆様のお役に立てるでしょう。

 皆様のご質問を心よりお待ちしております。


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