7月 手を合わせてください
夏休みになった。
私が休みに入ったということは、妹のセミも当然夏休み。今、妹は小学生向けの親子サマーキャンプに参加している。通知表で「優」ばかりだったご褒美だ。
おかげで私は自宅で一人、悠々自適に過ごさせてもらっている。二泊三日のサマーキャンプの間は自由だ。お母さんには出掛ける前にさんざん心配されたけれど、気楽なものだわ。お父さんも単身赴任中でいないし。
昨日は良ちゃんやイトちゃんとプールへ行って、そのまま門限を気にせずに夜遅くまでファミレスでお喋りすることができた。うちは勉強に関してはほとんど何も言われないけど、門限が厳しい。
「あ、もうこんな時間」
ソファに寝転びながら漫画を読むのを一度やめて、私は出掛ける準備をした。お腹も空いてきたし晩御飯を食べに行こう。冷凍食品で済ましてもいいけど、食事代としてお小遣いも貰っていることだし外で食べたい。
なんとなく歩いて行きたい気分になって、サンダルをつっかけてそのまま駅近くまで行くことにした。
駅までやって来ると、仕事帰りらしき人々の波がちょうど流れてきていた。昼には閉まっている居酒屋さんは賑わいを見せて、うっすらと暗くなった空に外灯が灯り始める。
さて。どこでご飯を食べようかな。友達と来るときはいつもファミレスかカフェだし、家族であんまり地元のお店に入った事はない。一人で新規開拓、となるとなかなか足が進まなくなる。
……小動物とかが安全地帯まで餌を運んでご飯を食べる気持ちがわかる気がする。私もいつもの落ち着く巣穴、ファミレスにしちゃおうかな。
ほとんどハムスターの気分になっていた私は、後ろから肩を叩かれて思わず飛び上がるほどびっくりした。
「うわっ! え、え、あれ、啓太先輩?」
「こんばんは。ごめんね、驚かせちゃって」
制服じゃなかったから、一瞬だけ誰だかわからなかった。シンプルなポロシャツとちょっと丈が短いズボン。ついさっき家から出てきたというような出で立ちで啓太先輩は立っていた。
啓太先輩も、確かこの近くに住んでいるんだよね。
「こ、こんばんは。久しぶり、な気がしますね」
「そうだね。すごく久しぶりって感じるね。テスト期間前から勉強で忙しくて会えなかったものね」
「そうでしたね」
最後に会ったのは、確かにテスト勉強が本格化する前だったから三週間ぶりかな。約一ヶ月ほど会わない間に啓太先輩の髪は少し伸びていた。襟足はシャツにかかるぐらいで、前髪は目元にかかって目線が合わせにくくなっている。
「今日ここでボブ子さんと会えてよかった。夏休みはなかなか会う機会が無いから。……ところで、ボブ子さんはどうしてここに?」
「今日は家に一人なんです。料理あんまり得意じゃないんで、晩ご飯はファミレスですませようかなぁと思って」
「え。ボブ子さん、一人なんだ」
啓太先輩は長くなった前髪を指先で耳にかけながら、何かを考えるように宙に目線を浮かせた。そして、もし良かったら……とちょっと躊躇いがちに言葉を続ける。
「僕がいつも利用しているお店があるから、一緒に行かない? 近所の人ばかり使う食堂なんだけど」
「えっと、啓太先輩のおすすめならぜひ」
「ほんと? よかった。じゃあ、こっち」
啓太先輩が誘ってくれたのは人の多い大通りから逸れた、住宅街に馴染むようにある「オイシ食堂」という古びた暖簾がかかった所だった。ガラス引き戸をカラカラと開けると、なぜか懐かしい匂いが鼻に届いた。
「いらっしゃい! こんばんは、啓太ちゃん……と、あらあらかわいいお連れさんね。さぁ好きなところに座ってちょうだい。すぐにお茶を持ってきますからね」
三角巾に白い割烹着。赤いほっぺたにこんもりと丘をつくって満面の笑顔で歓迎するおばあさんが、まるっこい指で空いている机を指示してくれた。啓太先輩は慣れたように会釈して、年季のいった椅子に座った。
「ボブ子さん、何が食べたい?」
「ええっと、思ったよりいっぱいメニューがありますね」
啓太先輩の向かいに座った私はぐるりと店内を見回す。壁のいたるところに手書きのメニューが貼られていて、どれを選べばいいのかわからない。
「啓太先輩のおすすめってありますか?」
「そうだなぁ。僕はいつも同じメニューを頼んじゃうけど、ここに来る他のお客さんはコロッケ定食とかよく食べてるね」
「じゃあそれにします」
「うん。……おばあさん、いつものとコロッケ定食をお願いします」
ちょうどテーブルにお茶を運んできてくれたおばあさんに、啓太先輩は親しげに呼び掛けて注文をする。おばあさんはハイハイと返事をして、メモも取らずに奥の厨房へ引っ込んでしまった。
机の上に置かれたお茶の湯飲みはほかほかと湯気を立てていて、まだ外の熱気を引きずっている身体には受け入れがたい。両手で湯飲みを揺らしながら、啓太先輩に気になっていたことを尋ねてみる。
「啓太先輩ってよくここに来るんですか?」
「そうだね。最初は自炊してたんだけど自分一人だとやる気が出なくって。ここのおばあさんのご厚意で、よくお世話になるようになったんだ」
「一人暮らししてるんでしたっけ」
「そうだね。一応父親はまだ生きてるけど、まぁいろいろあって」
まだ熱い湯気を立ち上らせているお茶を一口飲んで、啓太先輩は一息ついた。言っている内容はなかなかに重い背景を感じさせるけど、本人はいたって落ち着いている。……逆に私が落ち着かないわ。頭が痛い。
「ふふ、ボブ子さん、気にしてる?」
「な、何をですか?」
「僕の家について、だよ」
「そ、それは、あの、その……」
「それでいいんだよ。そのために言ったんだから」
おどけるように肩をすくめたその動作で、耳にかけていた啓太先輩の前髪がぱらりと滑り落ちた。長い前髪の隙間から、啓太先輩がやんわりと目を細める。
「僕のことを考えていてくれてうれしい。君の頭が僕で埋まるのなら、可哀想な子でいてよかったんだ」
「私は別に、かわいそうとか思ってない、つもりですけど」
「うん。なんだっていいよ。……忘れないでいてくれるなら」
いたい。耳のすぐ上あたりの側頭部が無理矢理引っ張られたように痛い。思わずぎゅっと目を閉じていると、机の上に放り出していた手がそっと包まれた。薄目で確認すると、啓太先輩が心配そうな顔をしていた。
「ああ、ごめんね。大丈夫?」
「ーーだいじょうぶ。大丈夫です」
大丈夫という言葉が、意識もせずに口から飛び出した。あまりにも勢いが良すぎたせいで舌足らずになってもう一度繰り返す。
私は平気なんだと、この人に伝えなければいけなかったから。安心した顔の目の前の人に私もホッとして、痛みがだんだんと遠のいた。
……この人がちょっとおかしいことには気づいている。セミにも一度注意された気がする。でも名前を呼ばれるといつも、しっくりくる。私の名前が呼ばれたがっているみたいに。
どうして、啓太先輩と私はこうやって一緒にいることになってしまうのかな。それともそう錯覚しているのか。錯覚させられているのか。
「よかった。顔色、良くなったね」
「はい」
ふわりと良い匂いとともにお盆二つを器用に運んできたおばあさんが、いまだに机の上で重なったままの私達の手を見てにこにこ笑った。
「あらあら仲良しさんね。邪魔しちゃうけど、お盆を置かせて貰えるかしら」
慌てて手を引っ込めたテーブルに、ポンと注文の品が並べられる。私の目の前には、ソースがたっぷりとかかったコロッケ定食。そして啓太先輩の目の前には、油ののった焼き魚の定食。
「おまちどうさま。お嬢さんにはコロッケ定食、啓太ちゃんにはいつもの気まぐれ定食ね。どうぞめしあがれ」
「それじゃあ食べようか」
「そうですね」
テーブルに備え付けられた箱から箸を二膳取り出して、両手をぱちんと合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
ーー
オイシ食堂を出て帰り道につく際には、すっかり空に月が上っていた。空気は生ぬるくて、草陰からジージーと虫の鳴き声が響いてくる。
お腹が満足すると足どりだってゆったりする。住宅街に続く人通りの少ない道を、私は啓太先輩と歩いていた。
「おいしかったですね。連れていってくれてありがとうございました」
「うん。ボブ子さんが受け入れてくれてよかった」
ああいう食堂にはなかなか一人では入れないからよかった。それに一人で夕食を食べずに済んだこともよかった。……朝ごはんと昼ごはんは一人で食べたんだけど、全然お腹が膨れなかったから。やっぱり誰かと食べるご飯が一番好きだな。
「今日は、啓太先輩と一緒にご飯を食べられて良かったです」
「一人ぼっちで食べるご飯はつまらないからね」
「あ、啓太先輩もそう思いますか! 私もそう思います!」
「ふふ。うん、一緒だよ」
啓太先輩はとても機嫌良さそうに声を出して笑った。夜の暗がりの道でも、その横顔がうっすらと上気しているのがわかる。……そんなに笑うことだっけ? それとも暑いのかな? 夏だし、吹く風も生ぬるい。
橋ところまでやって来て、足を止めた。
「啓太先輩、ここまででいいですよ」
「え、どうして。もう暗いし、今日はお家に誰もいないんでしょう。家の前までちゃんと送るよ」
「そう、ですか? 先輩に迷惑でなければいいんですけど」
啓太先輩と橋を渡るとちょっと変な気分。いつもはここで別れているから。
ちょっとどぎまぎする気持ちを振り切るために、慌てて話題を捻り出した。
「そういえば啓太先輩って夏休みになにか予定はあるんですか?」
「特にないかな。涼しいし静かだから、学校の図書館に行くぐらいだよ。夏休みの宿題とかやってるよ」
「ええ、啓太先輩は真面目ですね……」
「まぁ、一応奨学生だから。勉強は一通りやってるよ」
なんとなく頭が良いだろうな思っていたけど、啓太先輩は予想以上に優秀だった……。なんだか私の周りの人って頭の良い人ばかりな気がする。
連鎖的に思い出した顔を頭の中に浮かべていると、不意に啓太先輩がぽつりと「練絹」と言った。あまりにもタイミングが良すぎて肩を揺らすと、私の目を見ながら啓太先輩はにっこり笑った。
「練絹君、だっけ。新入生代表をしていた白髪の、ボブ子さんのクラスメイト」
「そ、そう、です、けど」
「うん。その練絹君、よく夏休みの図書館で見かけるよ。不思議な子だね」
思わず止まりそうになる足を、私はぎこちなく動かし続けた。急に名前を聞いたせいで、胸がバクバクと音を鳴らしている。びっくり、しすぎたみたい。
「ーーボブ子さん、仲良かったっけ?」
「え。そんな、そんなことはないと思います!」
勢いこんで首を横に振る。
ついこの間、思わず彼の名前を呼んでしまった。でも次会ったときもそうやって呼べばいいのか、どうやって呼べばいいのかわからない。こんな状態は、きっと仲が良いなんて言えないだろう。
「そうなんだ」
「そうなんです!」
「なら、いいのかな。……ボブ子さん、ちゃんと見ていてね」
「はい! ……はい?」
隣の啓太先輩がが足を止めた。気づくといつの間にか私の家の前だ。明かりを点けずに出ていったから、暗くて寂しい。
私は頭を下げて、家の前の門扉に手をかける。
「本当にありがとうございました。また、夏休み明け、ですかね」
「できればそうでなければいいけどね。じゃあおやすみ」
「おやすみなさい」
鍵を開けて家の扉を開くとぼんやりと暗い廊下が出迎えた。とりあえずパチリと廊下の電気を点けて、ほっと一息。
やっぱり、啓太先輩の申し出通りに家まで送ってもらって良かったかも。一人で帰っていたらもっと寂しかったかもしれない。
ふと閉じかけた扉の隙間から向こうを見ると、啓太先輩がまだ手を振ってくれていた。
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