7月 この先の君の縁


 キーンコーンカーンコーン


 チャイムと共に先生が手を止めるように指示を出す。私は投げ出すようにペンから手を放して、ぐったりと椅子の背もたれに身を預けた。

 やっと全部終わった……。やっと帰れる。

 解答用紙を回収し終わった監督の先生が出ていくのと同時に、クラスでは安堵と悲嘆の声が飛び交った。あそこの答え何にした? なんていうやり取りは私はやりたくない。もう、テストの事はちょっとだって考えたくない。


 疲れ切った脳みそを持て余していると、からからと扉が開いて伊藤先生が教室に入ってきた。けれどすぐに教卓には向かわず、そわそわと何度も廊下の方を心配そうに振り返っている。ちょっと困ったように眉尻を下げながら皆の前に立った伊藤先生は、クラス全員の顔を確認するように見回した。


「皆さん、お疲れさまでした。頭を使うと糖分が足りなくなっちゃいますから、なにかお菓子を持っている人は今食べてもいいですよ。僕は怒らないので、今は遠慮なく食べちゃいましょう。疲れているのに無理をするのは良くないからね。お菓子食べながらホームルームを聞いてくださいね」


 いつも以上に心配症な伊藤先生は、私達に堂々と校則違反をしてもいいという許可を出した。

 なんでも、テストが終わったのと同時に椅子から転げ落ちて保健室に運ばれてしまった人がいたらしい。それも隣のクラスに。それというのも、下前君なんだけど。

 それがわかったのは、帰るときのこと。下駄箱のところでサルシス君の背におぶさっている下前君を発見した時のことだった。手にも足にも首にさえ力が無く、脱力している下前君は砂漠で干からびたミイラのようだった。対照的に、生命力に満ちて今日も輝いているサルシス君は何事かを半ば魂の抜けかけている下前君に話しかけている。


「学くん、今回もがんばったんだねぇ。何かに心を打ち込むこと良いことだよね!」

「……」

「学くんは打ち込み過ぎて、心をどこかへ飛ばしてしまうことがあるからね!」

「…………」

「でもそれだけ熱を込められることは学くんの美点だよねぇ。ボクは友人としてとても誇らしいよ!」

「…………しずかに」

「ああ、うるさかったかい? すまないね。けれど、学くんは立派だなぁと感心していたんだよ。努力できる人は、それだけでも素晴らしいからね」


 一方的なようではあったけれど、サルシス君は楽しそうに肩を揺らして話し続けている。背中に乗せられた下前君はその動きに揺らされるままで、ちょっと落ちてしまいそうに見える。

 心配になって、思わず声をかけてしまった。


「サルシス君! ……その、下前君って」

「やぁ、五津木くん! 学くんのことかい? 名誉の負傷をしてしまったんだ。テスト終了と同時に椅子から転んでしまってね!」

「あんまり揺らさないであげない方がいいと思うよ。……体調悪いの? 大丈夫?」

「頑張りすぎて、ちょっと眠るのを忘れてしまったみたいだね」

「がんばりすぎて……」


 ぐったりとしている下前君の顔を伏せられているからよくわからないけど、手首が以前よりも細くなっているように見える。ごはんもあんまり食べられなかったのかもしれない。

 ふと入学式直後の実力テストの結果を見て、顔を真っ青にしていた男の子の顔を思い出していた。あれは、下前君だった。


「じゃあ、ボク達はこれで失礼するよ。学くんを家まで送り届けなくっちゃ!」

「え、サルシス君一人で? 車を持っている先生に送ってもらえばいいんじゃない? 私、職員室に行って頼んでこようか」

「ああ、いいんだ! うちのハイヤーを既に呼んでいるから!」


 にっこりと何でもないように笑うサルシス君。「うちのハイヤー」って、つまりサルシス君の家のところの専用タクシー、みたいなこと? 聞きなれないハイヤーという言葉に混乱しながらも、改めてまじまじとサルシス君を眺める。

 あいかわらずきらきらしている。このキラキラはイケメンというだけではなくて、高貴なもの特有のオーラだった?


「サルシス君って、お金持ちだったんだ」

「……ああ、うん。うちの父親って、お金だけは持っているらしいんだ。おかげでボクは自由にさせてもらってるんだけどね! さて、それじゃあ行くね! また今度会おう、五津木くん!」

「…………」


 ひらひらと手を振って下前君を背負いながら去っていくサルシス君。その背中で、下前君がかすかに腕を上げてくれた。私もひらひらと手を振って、二人を見送る。

 下前君、大丈夫かな? テスト結果、どうなっちゃうんだろう?



 

 

 数日後。自分の教室に着いた途端、既に職員室廊下に貼り出されていたテスト結果について良ちゃんから知らされた。


「ボブ子ちゃん! また今回のテスト、練絹君は一位みたいだよ! すごいよね!」

「そうなんだ。すごい、よね」

「あれ? あんまり驚かないね。まぁ、当然って感じするもんね」


 良ちゃんの言葉になんと返していいかわからず、曖昧に笑っておいた。サルシス君に背負われている力尽きた下前君の姿を見たばかりで、あまり素直にすごいねと言えなかった。

 複雑な気持ちを抱えていると、私の教室の入り口に青白い幽霊のような人影が目に入って思わず息を呑んだ。下前君が真っ青な顔で、けれど睨むような目つきで教室を見渡していた。

 まさか、練絹君のところに来たのかな?

 ちょっと嫌な予感がした私は、下前君に話しかけに行った。


「し、下前君、おはよう。もう体調は大丈夫なの?」

「……おはよう。ちょうどよかった、五津木さんに聞きたいことがあるんだが」

「聞きたいこと?」


 夏の暑い日だというのに、背中に冷たい汗が流れたような気がした。思わずちらりと窓際にある練絹君の席を見てしまう。彼はいつも通りの美しい仮面のような顔を窓の外の景色へと向けていた。

 下前君の方に顔を戻すと、さっきまでの私と同じように練絹君の席の方を見ていた。敵対心のような負の感情があるのかと思えばそうじゃなかった。今にも奈落の底に落ちていく人のような、か細い糸一本で保っているような危うい無表情を浮かべていた。


「ここで話すのは、邪魔になるな。ちょっとついてきてくれないか?」

「う、うん。それはいいけど」


 あっさりと背中を向けて廊下を歩いていく下前君の後ろを歩きながら、もう一度教室の練絹君の方を振り返った。彼はやっぱりいつものように一人で窓の外を見ていて、こちらには気づいてもいないようだった。

 下前君は人通りの少ない、職員室前に繋がる階段横で立ち止まった。そして大きく口を開いて、一度ため息をついてから、言葉を吐き出した。


「練絹は、どうだった?」

「どうだった、って?」

「どういう風に勉強していた? どんな勉強法だった? 君が見ている限り、どれだけあいつは力を入れているようだった?」

「え、ええ……」


 下前君に問われてテスト前の練絹君の姿を思い出す。けれど思い出して、下前君に言ってもいいものかとためらってしまった。

 たぶん、なんだけど。下前君が努力を惜しまない秀才なのだとすれば、練絹君はなんでもできてしまう天才だ。テスト前に必死になっている様子を、練絹君は一度も見せたことはない。練絹君の姿を確認したときはいつだって、窓の外を眺めているか童話を読んでいるかだった。教科書や参考書を開いている姿なんて、授業中以外見たことがない。もしかしたら家で猛勉強しているかもしれないけど……。


「えっと」

「――なるほど。勉強をしているところを、見たことないのか」

「あ、うん。自分のことで精いっぱいで、あんまり練絹君の様子を見てなかったの。だから」

「何もしないでもできるタイプか。あいつも、天才か。ああ、知っている。嫌っていうほど知っている。僕がどれだけ努力しても、涼しい顔でできるやつがいることぐらい知っているさ!」


 下前君は無造作に両手で前髪をぐしゃぐしゃとかきまぜた。そのあまりの乱暴さに、彼がかけていたフレームの大きいメガネが音を立ててリノリウムの床に落ちてしまう。

 拾おうかと私が腰を曲げかけたとき、下前君は勢いよくその場にしゃがみこんだ。目元を押さえたままで眼鏡を拾う様子は無い。そのまま下前君は、蝋人形になってしまったように固まってしまった。

 ……私、どうすればいいんだろう?

 声をかけることも手を伸ばすこともできずに困っていると、後ろから救世主の声が聞こえてきた。


「ああ、こんなところにいたんだ!」

「サルシス君、あの、下前君が……」

「うん、おはよう五津木くん」

「え、おはよう、サルシス君」


 窓の外の夏の太陽にも負けないぐらい輝くサルシス君の笑顔は、うずくまったままの下前君を見ても陰らなかった。いつもの調子で私に挨拶をしたかと思うと、鼻歌でも唄うような軽やかさで下前君の前にしゃがみこんだ。


「やぁ、学くん。急に教室からいなくなったからどこに行ったのかと思ったよ! やりたかったことはできたかい?」

「…………」

「気になることはわかったかい。わかったのなら、どうしようか。次は何をしようか。ボクも一緒にできることなら、学校が終わった後に一緒にやろう。今日は幸いなことに午前で帰れるからね!」

「……本田」

「なんだい、学くん!」

「あっちいけ」


 ぽそりと下前君から出てきた言葉はサルシス君を追い払う言葉だった。膝に顔を埋めたまま、下前君は拒絶する姿勢をやめない。

 それでも、サルシス君の笑顔は少しだって歪まなかった。晴れやかな青い瞳を細めて、夢見るように宙を見る。


「あっちってどこだろうねぇ。学くんが「あっち」に行きたいのなら、「あっち」がどこなのか探さないとね。「あっち」にはなにがあるんだろうね」

「……本当に、どこかに行ってくれ。八つ当たりしそうなんだ」

「八はいい数字だよねぇ。数字記号を横に倒すと、無限を表すね! 漢字で書くと末広がりで縁起がいいよね!」

「ばかじゃないのか」


 やっと顔を上げた下前君は、やっぱり今にも倒れそうなほど青白かった。でも表情はさっきまでよりもずっと良い。

 手探りで床に落ちた眼鏡を拾うと、下前君はゆっくりと立ち上がった。


「すまない、ちょっと取り乱した。……五津木さんには、特に迷惑をかけてしまったな。ごめん」

「ううん。下前君が元気になってよかった」

「うん、ありがとう」


 微かにだけれど下前君は口を横に引き伸ばして笑ってくれた。

 それにホッと安心した時に予鈴が鳴った。慌ただしく二人と別れて、自分の教室に戻る。自分の席に座ってから、また練絹君の方へと目を向けた。やっぱり窓の外を眺めていた――けど途中で彼は首をちょっと回してこちらを見た。目がくらみそうな赤い瞳と自分の目が合わさって、弾かれたように私は顔を伏せてしまった。




――




「皆さん、一学期が終了しましたね。明日からの夏休みをどうかめいっぱい楽しんでください。ただ、夏の日差しには気をつけて下さい。宿題も忘れないようにね。それじゃあ二学期にまた元気でお会いしましょう」


 伊藤先生が頭を下げると、首元の柔らかなサーモンピンクのネクタイがぺらりと揺れて教卓の上に擦れた。皆も夏休みという単語によって高められたハイテンションのままに「さようなら」といつもより勢いよく挨拶をする。

 そのまま盛り上がったクラスの皆で、駅前のカラオケに行こうという話になった。あそこのカラオケはパーティルームがあって、ぎりぎり皆入れそうなのだ。

 ぞろぞろと皆でカラオケに行く途中で、クラスの中心グループの女の子が「八十やそ君は?」と声を上げた。そういえば誰も練絹君に誘いをかけていなかった気がする。

 あれ? あの子、練絹君のこと下の名前で呼んでるの?

 もやもやしていると、その女の子と周りの子がきゃっきゃっと盛り上がり始めた。


「今から戻って、声をかけてくれば?」

「え~。なんか緊張しちゃう」

「皆で誘いに行っちゃおうよ!」


 楽しそうに盛り上がって廊下の途中で立ち止まってしまう。こういう風に本人がいないところでは盛り上がれるけど、彼を実際に前にするとなかなか近寄ることすらできないんだよね。……でも、今日は終業式でテンションが上がってるから声もかけやすいかも。

 いまだにどうするかで盛り上がる女の子達の横を抜けて、先にカラオケに行ってしまおうとしたときだった。後ろから腕を掴まれ、引き留められてしまった。


「ボブ子ちゃん自転車で来てるよね? 自転車ならあとで追い付きやすいし、ボブ子ちゃんが練絹君に声をかけに行けばいいんじゃない」

「え、良ちゃん?」


 私を引き留めた良ちゃんが、いかにも親切ですという態度でグループの女の子達にそう言った。

 いやいや。でも練絹君は自転車で来ていないのだから、一緒にカラオケに行くとしたら歩いていかなくちゃいけない。だから追いつきやすくなるとかそんなことはまったく無いんじゃないかな。え、それとも練絹君が自転車の横を並走するの?

 そんなこと当然分かっているはずの良ちゃんはウィンクして、とんと私の背中を押した。


「あ、行ってくれる? ありがとう、ボブ子ちゃん! じゃあ私達は先にカラオケに行こっか!」


 良ちゃんの勢いに呑まれるように、女の子達は納得いかない顔をしながらも先に行ってしまう。廊下に残されたのは、私一人だけ。


「え、本当に私が行くの?」


 ほとんど何にも入っていない自分の軽い鞄をぎゅっと握った。

 とりあえず、声をかけにいかないと。

 教室へと逆戻りして、まだ練絹君がいるかどうか確認する。

 一番初め、眩しすぎて練絹君がどこにいるのかわからなかった。肌も髪も白い彼は、夏服になった途端に光に紛れてしまうことが多くなった。赤い瞳を見つけてからようやく練絹君がそこにいるとわかることが多い。

 だから彼の背中が窓際にあるとわかって、慌てて私は教室に飛び込んだ。なぜなら彼は教室の窓からほとんど体を投げ出していたからだ。


「あ、危ないよ!」

「こんにちは、五津木さん」

「こんにちは! 挨拶してる場合じゃないから、窓から身を乗り出すのをやめて!」

「それは、申し訳ありません」


 彼のシャツの腰元を無理やりぐいぐいと引っ張って、窓から身を乗り出して腕を伸ばしていた練絹君はゆっくりと体を元に戻してくれた。いつものように平坦な調子の彼の声に、思わず私の声が非難めいたものになってしまう。


「どうしてこんなことしたの! 危ないでしょ!」

「はい。一般的に危ないことでしたね。窓から転落しようという意図は無かったのですが、五津木さんに心配をおかけ、してしまったんですよね?」

「そうだよ! 心配をかけられました! もうこんなことしないでね!」

「はい。ありがとうございます」


 どこまでいっても乱れない、定規で綺麗に引いた直線のような声。そんな彼の声を聞いているとだんだんと落ち着いてきて、自分が高揚した声を出していることが恥ずかしくなってきた。

 練絹君だって子供じゃないんだから、こんなに心配しなくてもよかったかも。危ないのは危ないんだけどね。


「その、叱ってごめんなさい」

「いいえ、けっして褒められることはしていませんでした。私しか教室にいないからと、自制のできていない行動をしてしまいました」

「自分しか教室にいないから、ああいうことしちゃったの?」

「はい。蝉の抜け殻を、見つけたんです」


 彼はずっと握っていた右手をゆっくりと開いて、黄金色の蝉の抜け殻を目の前に差し出した。太陽の光に透かされたその抜け殻は、蜂蜜で固めて作られたみたいに綺麗だった。そっと崩れないように、セミの抜け殻を自分の机の上に置く練絹君の仕草にふと笑いが込み上げてきた。


「ふ、ふふふ。そっか。蝉の抜け殻を取るために、あんな風に身を乗り出していたんだ」

「はい。……五津木さんが笑っているのは、私が一般的な高校生男子の行動にふさわしくないからでしょうか」

「えー、ふふっ。そうだな、なんだか嬉しかったからかな」


 いまだに練絹君はクラスの中で一人だけぽつんと存在している。誰もが、彼は自分とは異なる世界の人間だと思ってしまうからだ。私だって、今もそう思う。彼は冷たい穴の底に一人ぼっちだと思ってしまう。だけど時々、彼はこちら側の境界線に興味深く触れてくる時がある。それが嬉しかった。

 やっと笑いが収まったところで、しんと教室に沈黙が流れた。そういえば私は練絹君をカラオケに誘わなくちゃいけないんだった。どうやって切り出そう。


「ええっと、練絹君、あのね」


 意識するといつも目が合わせられなくなる。机の上に置かれた蝉の抜け殻に視線を向けつつなんとか話そうとして、机の上に無造作に置かれている白い紙に気づいた。

 それは帰りのホームルームで伊藤先生から渡された成績表だった。テストの点数が全て「100」という数で表されている。う、噂されていたことはあったけど、練絹君って本当に全科目満点だったんだ。

 うずくまる下前君の姿を脳裏に浮かんでしまって、胸が重くなる。


「いかがしましたか、五津木さん」

「あ、うん。練絹君って、百点ばっかりなんだなぁって。すごいね」

「百ばかり、ですか」


 首をかしげる練絹君の様子は、不思議そうだった。彼にとって、全てが百であることは当たり前なのかもしれない。下前君いわく、天才だから。


「百ばかり、ではありません」

「え? でも、全部満点みたいだよ」

「ここは、百ではありません」


 そう言って、練絹君は自分の名前が印字されている欄を白い指で示した。彼の名前は「八十」だから、確かに百ではない。とんちみたい。

 ふふっと笑ってから、自分に対して出てきたため息を殺した。

 私は、練絹君を遠ざける。さっきみたいに勝手に近くに感じては、何度も遠い存在だと背を向けてしまう。彼のいる穴に何度も土をかぶせてしまう。だからせめて何かと、明るくなるような言葉を探した。


「その、練絹君の、八十っていう名前でね」

「はい」

「八って末広がりだから縁起が良いって、友達が言っていたの思い出したの。だから八十君の名前って、良い名前だなと、思いました……」


 最後は早口になってしまった。急に意味不明な言葉をかけてしまった。急に良い言葉なんて見つかるわけが無い。恥ずかしくって頬を熱くしていると、するりと目の前のしなやかな手が練絹君の口元を覆った。

 え、気分悪い? 私の言葉が意味不明すぎて吐きそうなの? 私の言葉は劇薬だった?

 パニックを起こしてあわあわしていると、口元から手を離した練絹君が赤い目でまっすぐにこちらを見つめた。


「少し驚きました。そんな風に考えたことがありませんでした。五津木さんは、すごいですね」

「え、え、え? いや、でも、さっきの言葉はほとんど友達からの受け売りっていうか。私はなんにも考えてないっていうか」

「いえ。その、おそらく私は嬉しいと感じています。私の名前は、ただ識別するだけのものでしたから。五津木さんが初めてです、意味を与えたのは」

「えっと、そうなのかな。練絹君が喜んでくれるのは嬉しいけど」


 たぶん、八十っていう名前を付けた練絹君のご両親とかがいろいろ考えてくれたんだと思うけど。でもそれをわざわざ教えるにはあまりにも目の前の瞳が輝いていた。小学生の頃に小さなプラントで大切に育てた、夏休みのプチトマトみたいに思える。

 不意に、廊下で練絹君の下の名前を呼んでいた女の子の顔を思い出した。でも、あの子だって、練絹君の前ではけっして呼ぶことができない。


「その、八十君って呼んでもいい、かな?」

「はい。構いません」


 ちょっとした対抗心で彼の名前を呼んだ。それになんてことないと八十君が頷く。その時にちょっとだけ彼の赤い瞳が笑うように細まった気がした。いつもの無表情には違いなかったけれど、私がそう思えただけで十分だった。

 八十君がその名前のように、縁を広げられたいいのに。一人ぼっちの穴の底から引き上げたいと思った。

 だから続く言葉はするりと出てきた。


「あのね、クラス皆でカラオケに行こうっていう話がでたの。八十君も、一緒に行かない?」

「この後、ですか。申し訳ありません。うちの者の許可が出ないと、外出はできないんです」

「あー、そっか。急だったもんね。……また、誘ってもいいかな?」


 勇気を出した誘いはすぐに断られてしまったけど。でも諦められなくて、またいつかを聞いてみたけれど首を傾げられてしまった。

 もしかして、余計なお世話だったかな。いや、きっと大きなお世話なんだろうけど。だって私は、八十君のことをなんにもわかっていないから。ちょっと調子を乗ってしまった……。


「カラオケは歌を歌いに行く場所だと聞いています。私は歌うよりも聞くほうがいいのですが、それでもよろしいのでしょうか?」

「それでいいんだよ! じゃあ、一緒に盛り上げ役をしよう! タンバリンとか置いてあるから、皆が歌っているときにシャンシャン鳴らそう!」

「はい。それではいつかその時がきたら、お願いします」


 前向きな八十君の言葉に、思わず大きい声を出して大袈裟に言ってしまった。それでも頷いてくれた八十君が余計にうれしくて、教室を出る時はスキップすらしていたかもしれない。

 我に返ったのは自転車に乗って駅前のカラオケに向かう途中だった。いまだににやけている顔を隠すために、足に思いっきり力を入れて全速力で風を切る。

 また良ちゃんにからかわれたら、どうしよう。

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