6月 そうそうに逃走


 それは昨日のことだ。

 いつものように良ちゃんとイトちゃんとお昼を食べていた時に話題になったのだ。駅前にあるパン屋さんで売っている幻のクリームパンのことを。開店すぐに売り切れてしまうおいしいクリームパン。

 開店は7時で、その30分前からすでに行列ができているらしい。


「ということで、ボブ子ちゃん買ってきて~」

「えー……。私、早起きあんまり得意じゃないし……」

「でも、この近くに住んでるから、私達よりはゆっくり眠れるでしょう? もちろんボブ子ちゃんの分は奢るし、今度おいしいクレープご馳走するから~!」


 という二人の押しに負けて私は朝から駅前のパン屋さんに向かっている。朝6時に起きて、そのまま御飯も食べずに家を出た。学校に早めに着くので、パン屋さんのパンを学校で朝食に食べようと思っているからだ。

 ……でもお腹を空かせながら自転車に乗るとふらふらするわ。ゼリーでも食べてから家を出てくればよかった。

 片手でお腹を擦りながら自転車を走らせたせいで、少し手元が狂ってしまう。歩道を歩いている女の子に追突しかけてしまった。


「え、うわわっ……!」

「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」


 慌てて自転車を止めて、地面にへたりこんでしまった女の子に駆け寄る。目に見えるところに怪我は無いみたいだけど……。

 女の子は仕立ての良さそうな若草色のワンピースを着ている。目を凝らすと白い糸で細かな刺繍がされていて、ずいぶんと丁寧に作られているように思う。これ、高いんじゃないかな? 服が破れてたりしたら、弁償かな。お小遣い足りればいいけど……。

 そんな余計なことを考えてしまってから、なかなか立てない様子の女の子に手を差し出した。


「立てますか?」

「だ、大丈夫です……」


 緊張したようにしゃがれた声で返事をした女の子は大きな瞳を潤ませてこちらを見上げて、そしてなぜか驚いたように目を見開いた。……あれ、知り合い?

 薔薇色の頬、ぱっちりお目めに長いまつげ。腰までありそうなさらさらの長い髪を赤いリボンでまとめていて、それがとても似合っている。上品なワンピースのすそを白い手袋をした手で押さえる姿は、童話の中から飛び出したよう。左目の下の黒子が印象的な、そんな女の子の知り合いってーー

 私がじぃっと女の子を凝視していると、その子はパッと急に立ち上がった。そしてしとやかな動作でワンピースを整えたかと思うと、ぺこんと無言で頭を下げてすぐさま背を向けて立ち去ってしまった。

 あまりにも急なことで呆然としてしまう。ほ、本当に大丈夫だったのかな。曲がり角を曲がるとき、つまずきかけていたみたいだけど……。

 女の子のことが心のどこかで引っ掛かりながらも、私はパン屋さんで幻のクリームパンを手に入れることに成功した。




 ーー




 ところで今日からテスト一週間前になる。部活動はすべて休止となって、皆が勉強する雰囲気になっている。


「もうすぐテストですね。頑張るのは良いことですが集中力というのは意外と続かないものです。こまめに休憩をいれて下さいね。それではまた明日元気に会いましょう。さようなら」


 6月の初めの体調の悪さからすっかり回復したらしい伊藤先生が、にこにこ笑って別れの挨拶をする。

 いつもは教室に残っておしゃべりをする子達も慌ただしく荷物をまとめている子が多い。教室に残っている子もノートを開いて勉強するようだ。……テスト前の独特の緊張感って、私は苦手だわ。なんか追い詰められるような息苦しさがあるよね。


「私、図書館でテスト勉強するつもりなんだ。一緒に行かない?」

「良ちゃん……。ううん、図書館で勉強するのって緊張するから苦手なんだ。家に帰って勉強するよ」

「わかった、それじゃあまた明日ね! 今日はクリームパン買ってきてくれてありがとう~」


 最近伸ばし始めてやっと結べるようになった髪をちょこんと揺らして、良ちゃんは教室を出ていった。テニス部のマネージャーをやっている先輩に憧れて、同じ髪型をやりたいらしい。

 さて、私も帰ろう。でも帰ったら勉強しないといけないと思うと憂鬱になってきた……。


「あ」

「あ?」


 私が廊下に出た瞬間に誰かが声を漏らした。そちらに視線を向けると、こちらを見て硬直している下前君。どうしたんだろう? あれ、そういえばなんだかーー


「こんにちは、五津木さん。そしてさようならっ!」

「え、さようなら……」


 早口で挨拶らしきものをまくしたてたかと思うと、すぐさま背を向けて早歩きでせかせかと行ってしまった。……早歩きが、生まれたてのシマウマみたい。

 あまりに不自然なその背中を凝視していると、視界を遮るようにきらきらの輝きが現れた。


「やぁ、五津木くん! 今日は部活が無くて実に残念だよねぇ。補修にならないように、しっかり勉強しないとね!」

「こんにちは。さっき、下前君が……」

「学くん、もう行っちゃったのかい? 今度こそ一位をとるんだって張り切っていたからね! 早く帰って勉強に集中したいみたいだよ」

「そう、なんだ……?」


 早く帰りたかったから、下前君はあんなにおかしな挙動をしていたんだね……? そうなのかな?

 にこにこ輝くようなサルシス君に見つめられて、思わず私も笑い返してしまう。まぁ、サルシス君が言うのならそうなのかな。下前君ってちょっと変わってるし。

 半分ぐらい納得していると、サルシス君が自慢の金髪のキューティクルを光らせながら首を傾げた。


「もしかして何か学くんに用事があったかい? 何か伝言があったのなら、ボクから伝えておくよ」

「ううん。ちょっと違和感があったようななかったような……勘違いみたいだったから」

「それならよかった! お互いに勉強がんばろうね! じゃあ!」


 ひらひらと手を振ったかと思うとダンスのようなステップでサルシス君も帰ってしまった。

 そっか……。サルシス君も下前君もテストに気合を入れてるんだなぁ。私もやる気ができないとか言ってられない。がんばらないと!

 テストに向けて気合を入れ直した私は、帰りに本屋さんに寄ることした。授業中に先生がおススメしていた参考書でも買ってみよう!

 学校から駅へと向かう途中に、学生向けのお店がいくつか並んでいる。私はそこの本屋さんに行くことにした。


 本屋さんには、同じ学校の制服を着ている人が何人か居た。その他にも、近くの中学校の制服の子たちも来ている。中学生も同じようにテスト期間なのかな。中学生といえば……。


「あ」

「あ?」


 学校の廊下と同じ展開を繰り返す。けれどこちらを見つめてくる表情は異なっていて、喜びに満ちた溢れて輝いていた。中学の制服を着た男の子。公園でライブをしていた男の子、そう、確か――翔君だ。

 戸惑っている私に近づいて、翔君は嬉しそうに話しかけてくる。


「こんにちは、お姉さん! 前に公園で俺のライブを聞いてくれた人だよね!」

「そうだね、こんにちは。……えっと、君もテスト前に参考書を買いに来たのかな?」

「てすと?」


 急に話しかけられた私は当り障りの無い話題を出してみたけれど、翔君はあまりにも無垢な声で聞き返す。彼が腕に抱えている本をちらりと見てみると、まったく勉強する気は無いようだった。音楽雑誌ーー今、流行のミュージシャンを特集しているものだった。それと漫画。


「俺は音楽の雑誌を買いに来たんだ。この人のリリックってすごい考えられててすごいんだぜ! お姉さん、知ってる? 俺、この人みたいな言葉を作ってみたいんだ!」

「この人の音楽好きなんだ?」


 なんだかちょっと意外に感じた。童謡を嬉しそうにライブしていた彼は、こういう流行の歌のようなものを作って歌いたがっているようには見えなかったからだ。……子供向けの歌しか歌わないのかと思っていた。


「音楽なら基本的になんでも好きだけど、今はこういう曲調のやつにハマってるかなぁ。こういう歌をいっぱい考えてるんだ」

「そうなんだ。公園では歌ってなかったけど」

「ああ! 公園はさ、おじいちゃんとかおばあちゃんとかそれから小っちゃい子とかが多いから! その場でみんなが楽しめる歌って思ったら、公園ではバナナの歌とかがいいなって思ったんだ! 学校の文化祭とかだと自分の作曲した歌を歌ってるよ!」


 今は文化祭に向けて色々考えてて! と翔君は楽しそうに自分の考えている音楽について語り始める。だんだん楽しくなってきたのか声が大きくなっていく彼に、他のお客さんがいるからねと一応控えめに注意をしておく。

 でも、そっか。この子は本当に音楽が好きで、人にも音楽を楽しんでほしい子なんだね。……公園でライブをしていた時も、心底楽しそうだったし。ライブとリブを間違えてたけど。

 あの時の彼を思い出して笑っていると、翔君も訳が分からないなりににこにこと笑ってくれた。


「どうしたのお姉さん、楽しそうだね。なんか俺も楽しくなってきた!」

「ちょっと思い出し笑い。そういえば、あれから英語はちゃんと勉強してる?」

「うぇ。お姉さんまで、先生みたいなこと言うなよ……。既に学校でさんざん言われてるのにさ」


 無邪気な子供のような目の前の翔君に、ついついお姉さんぶりたくなって勉強の話をすると顔をしかめられてしまった。まぁ、なんとなく彼が学校で先生の手を焼かせている姿は想像できるんだけどね。

 と穏やかな気持ちで話を聞いていたら、突然彼が爆弾発言をした。


「確かに今年が高校受験だし、勉強しなくちゃいけないのはわかるんだけどさぁ……」

「いまなんて?」

「え。今年が高校受験だから、勉強を――」

「高校受験? 受験?」


 確かに中学一年生にしては体格が良いから、一年生では無いのかなとは思っていた。でもまさかそんな、中学三年生だとは思っていなかった。自信満々に「リブ」を叫ぶ受験生……私が言うのもなんだけど、大丈夫なのかしら?


「ど、どうしたの、お姉さん? お腹痛い? うちの先生、俺と話しているとよくお腹痛くなるんだ。もしかしたらお腹痛くなる菌が流行っているのかも……」

「いいえ、お腹は痛くないわ。……私が言うのもなんだけど、頑張ってね」

「おう! ばっちり音楽を極めるぜ! 文化祭では最高の音楽を披露するつもりだから、お姉さんもぜひ来てくれよな!」

「うん……」


 そうじゃない、とは彼の笑顔の前では言えなかった。とりあえず参考書のコーナーにもインスピレーションの源はあるかもよ、とだけは言っておいた。

 私、勉強がんばろう。

 さっきまで以上に気持ちの切り替わった私は、参考書を買ってテスト勉強にいそしんだ。


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