6月 屋上日和


 朝礼のチャイムが鳴って、しばらくがたった。

 いつもざわざわと騒がしいクラスだけれど、今日は少し違った意味で皆が落ち着かなかった。担任の伊藤先生が来ないからだ。いつもはチャイムとともににこにこ優しい笑顔で挨拶してくれるのに。

 皆がちょっと不安になったところで、ガラガラッと少し乱暴に扉が開いた。


「みなさん、遅れてしまってごめんなさい。すぐに朝礼を始めますね」


 少しぎこちない動きで教卓の前に立った伊藤先生の顔色は、真っ白な紙のように色が無かった。ちょっと力を込めたらくしゃくしゃになって潰れてしまいそうなほど。

 一生懸命先生が必要事項を伝えてくれるけど、先生の体調こそ心配になって頭に入ってこない。


「それではみなさん、今日も一日がんばりましょうね」


 ぎこちなく笑ったかと思うと、先生はそのままふらふらと教室を出て行ってしまった。体育祭の時の筋肉痛が、今になって出てきたのかもしれないなんてクラスでは話題になった。確かに教員リレーには伊藤先生も出場していたけど……。

 お昼休みに日直だった私がクラス全員分のワークノートを職員室まで届けに行った時も、まだ伊藤先生は元気がでないようだった。


「失礼します、伊藤先生いらっしゃいますか?」


 扉口から声をかければ、伊藤先生はすぐさまやって来てにこにこお地蔵様みたいな柔らかな笑顔を見せてくれるはずだった。けれど待っても待っても、先生はやってこない。

 仕方がなく近くにいた他の先生に声をかけると、そのご年配の先生は「あー……」と返事に困ったときに出す声を漏らしてちらりと窓際に視線を向ける。そこには机に突っ伏した頭が見える。

 あれ、もしかして伊藤先生かな? 腕で顔が隠れてしまっているせいでよくわからないけど、それにしたって珍しい。


「伊藤先生、この時期になると夜に眠れなくなるみたいなんだ。……疲れているんだよ。ノートは代わりに渡しておこう」

「ありがとうございます。先生、大丈夫なんですか?」

「大丈夫。この時期さえ過ぎればいつもの伊藤先生に戻ってくれるさ」


 とりあえずその先生が言うことを信じて、私は頷いた。

 授業が全て終わって帰りのホームルームの時間になっても、まだ伊藤先生は顔色が悪かった。むしろどんどん悪くなっている気がする。


「連絡事項は以上です。それではみなさん、また明日元気に会いましょうね。さようなら」


 ぺこりと頭を下げたかと思うと、伊藤先生はそのままそそくさと教室を出て行ってしまった。何人もの生徒がその後ろ姿を心配の目を向けて見送る。本当は声をかけたかったけど、誰も声をかけられなかった。あまりにも先生の様子がいつもと違ったし、先生自体が話しかけてほしくなさそうだったからだ。

 でも、気持ちを切り替えて今日の部活に行かないと……。練習も本格化してるし。

 荷物を持って廊下に出たところで、ちょうど長い金髪と学ランの背中が見えた。声をかけようとしたところで、なぜかサルシス君が本校舎の階段を上に登って行ってしまった。練習場所の第三体育館へ行くには当然階段を下りなければならない。

 なんとなく嫌な予感がして、こっそりと私も後をついていく。彼はどんどん階段を駆け上がっていき、そしてとうとう屋上へと続く扉を開けてしまった。また適当なことを言って、職員室から鍵を持ち出したのかな? あんまりこういうのって良くないよね。部活の時間も迫ってるし、サルシス君を連れ戻してこよう。

 私も階段を上って屋上の扉に手をかけた時だった。


「なにをしているんだい!」


 怒鳴り声が響いた。私に言われてしまったのかと思ったけど違う。声は、屋上から聞こえてきている。

 あれ? しかもこの声、もしかして伊藤先生……? 

 音をたてないようにちょっとだけ扉を開いて覗き見ると、そこにはやっぱりサルシス君と伊藤先生が向かい合っていた。


「屋上は立ち入り禁止のはずだよ! どうして君がここにいるの!」

「申し訳ありません、先生。けれどボクはこうやって屋上に来るととても落ち着くんです」

「べつに学校じゃなくてもいいだろう? なにも意地悪で立ち入り禁止にしているわけじゃないんだ! フェンスも老朽化しているし危ないから、禁止にしているんだよ! ……今日は僕が来ていたから鍵が開いていたけど、そもそも本田君はどうやって屋上に入ろうとしていたの?」

「鍵を持っていっていいかと聞いたら、好きにしろと言われたので」

「…………どうしてそんなこと。どうして」


 震えた声を絞り出した伊藤先生は手で顔を覆った。

 泣いているのかもしれない、そう心配になったところで伊藤先生は顔を上げた。泣いてはいなかったけれど、とても悲しそうな顔をしていた。先生は心底悲しんでいた。


「怒鳴ってごめん、本田君。屋上に来たことはいけないことだったけれど、こうやって一方的に責めるべきじゃなかったね。……今日は戻ってください。君が持ってきた鍵は預かります。今後屋上には来てはいけませんよ」

「はい。申し訳ありませんでした」


 サルシス君が頭を下げたところで、私は慌てて扉から顔を離した。

 どうしよう。二人がこのままこっちに戻ってきちゃう。まったく悪気は無かったけど、覗き見していたとバレるのは良くないわ。特に伊藤先生に私が居ることを知られちゃったら、今よりもすごく悲しませてしまいそうな気がする。

 私が慌てている間にいつのまにか扉が開いて、サルシス君と目が合ってしまった。しかしその背後に伊藤先生の姿は無い。サルシス君はにっこりと笑って扉を閉めると、無言で私を連れて階段を下りて行った。

 もう屋上に声が届かないだろう所で私はサルシス君に声をかけた。


「えっと、サルシス君? 怒られてたね?」

「ああ、怒られてしまったね。先生を悲しませることになってしまって申し訳なかったよ。五津木くんは、どうしてあそこに?」

「サルシス君が屋上へ上がっていくのが見えたから、連れ戻そうと思ってついて行っちゃったの。ごめんね盗み見しちゃって……」

「ボクを心配してくれたのに、謝ることなんてないさ」

「うん。……それにしても、伊藤先生どうしたんだろう?」


 あんな風に怒鳴るなんて、想像すらできなかった。

 もちろん屋上は立ち入り禁止だから入ってはいけない。けれど、伊藤先生は校則違反にそれほど厳しくないのだ。こっそりお菓子を食べても、ゲームで遊んでも、居眠りをしても。注意はするけど、怒鳴ったりしたことは一度だってなかった。いつも穏やかな口調でどうしてダメなのかを私達に伝えようとする。

 そんなに屋上に入ってほしくなかったのかな。


「屋上、事故があったっていう噂だもんね。伊藤先生は心配してくれてるんだよね」

「そういえば伊藤先生、た――」

「"た"?」

「……ううん。なんでもないさ! 遅刻してはいけないからね! はやく体育館へ向かおう!」

「……そうね! 早く行こう!」


 大きな手の平に背中を押されながら、私はサルシス君と体育館へと向かった。

 いつものように更衣室で体操服に着替えている途中で、私は大変なことに気が付いてしまった。慌てて制服スカートのポケットを探ってみるけどやっぱり無い。


「照明のパターンを書いた紙が無い……」


 今回の『シンデレラ』の舞台で、私は舞台照明の係を任命されてしまったのだ。照明といってもただスイッチを入れて切るだけじゃない。複数の色の照明を組み合わせたり、タイミングを計ったり、スポットライトで役者を追ったりと大変なのだ。まだまだ新人の私は、あの紙が無いとやっていけない。

 ……落としたとするとたぶん屋上から体育館までの道のりだ。だって教室を出る前には、ちゃんとスカートのポケットに入っていることを確認したもの。ああ、ちゃんと鞄に入れておけばよかった。

 慌てて元来た道を戻ろうとしていると、既に着替えていたサルシス君に声をかけられた。


「紙が無いのかい? 一緒に探そうか?」

「ううん。大丈夫」


 心配そうなサルシス君に、私は首を横に振る。

 また屋上付近でサルシス君がうろうろしているのを見かけたら、伊藤先生もとうとう本気で怒ってしまうかもしれないし。それに不注意で落としてしまったのは私だから。

 先輩に一声かけて、私は紙を探しに向かった。――そしてあっさりと見つかった。屋上への扉のちょうどその前に、四つ折りにした紙がひっそりと落ちていた。さっさと拾って戻ろう。伊藤先生に見つかっても嫌だし。


 けれど、紙を拾う瞬間に気づいた些細なことがなぜかどうしても気になってしまった。


 うっすらと屋上の扉が開いていたのだ。つまり鍵がかかっていない。

 そして不用意にも扉に手をかけて開いてしまった私は、その向こうで黒い瞳と視線を衝突させた。まるで野生の獣のようにちくりとした警戒を滲ませているのに、手を伸ばしてしまいたくなるほど引き込まれる。

 不意に目を細めたその人物が、戯れのように手をひらりとこちらに向けた。その招きに抵抗することはできず、私は一歩屋上に入り込んでしまった。


「よう、後輩。お前はどうしてここにいる?」

「わたし、私は忘れ物を取りに来ました。……先輩、ですよね? 先輩はどうしてここに?」

「なぜ俺がお前に馬鹿正直に答えると思う? そしてお前はなぜ馬鹿正直に答えた? あわれな後輩め」


 初対面の人間から向けられる突然の罵倒。邪悪な笑みを浮かべる自称先輩は、屋上のフェンスに寄りかかりながら傲慢にこちらを見下してくる。

 けれどそれが、悔しいほどに似合っていた。美しい人はやっぱり得だ。癖のある黒髪を耳にかけるしなやかな指をつい目で追ってしまう。獲物を見定めるように首を傾げながらこちらを射抜く目に映りたくなる。親しみの欠片もない笑みを見ても目を奪われるばかり。練絹君の人形のような繊細な綺麗さではなくて、美しい獣を見つめるような気持ちになる。不安になるけれど、つい見てしまう。

 ふと美しく邪悪な先輩は欠伸をした。そしてそのままアスファルトの地面に座って空を仰ぐ。もう私には飽きたと言わんばかりに。


「最悪なほどに天気が良いな、今日は。最悪だ」

「ええっと、先輩?」

「しかも騒がしい。これも晴れだからか? ああ、太陽よ呪われろ。呪われちまえ」

「先輩? 聞こえてますか、先輩?」


 目の前の先輩はぶつぶつ悪態をつくけれど、独り言。私の事は完全にないものとして扱っている。そんな態度にむきになって、つい何度もしつこく呼び掛けてしまう。

 やっとこちらを見たかと思うと、顔をしかめて面倒くさいと言外に伝えられてしまう。


「聞こえているから最悪だと言ったんだけどな。察しの悪い後輩め。指示しないと口を閉じることもできないのか、ひよっこ後輩」

「ひよっこ、ですか」

「自分の欲しいエサを与えられるまでぴいぴいうるさくさえずる姿が雛鳥そっくりだ」

「ひよっこじゃ無いです! じゃ、じゃあ、先輩は、そう、蛇ですね!」

「なんで?」

「……悪そうだからです」

「安直すぎて笑える」


 そう言いながら、目の前の先輩はぴくりとも口元を歪めない。むしろつまらなそうに口を尖らせている。どうして、そんな顔さえも魅力的に見えてしまうのか。

 そんな理不尽さにだんだん腹が立ってきた。


「先輩はなんのひねりもなく意地悪ですね」

「なんだ、ひよっこ後輩は俺に優しくされたかったのか?」

「先輩にじゃなくても、人は人から優しくされたいものじゃないんですか! あとひよっこじゃないです! 五津木です、五津木歩子ほすこ!」

「ふーん……。じゃあ、ヒヨリ先輩ってかわいく呼べたら、俺もお前の名前を呼んでやるよ」

「ヒヨリ、先輩?」


 自分の方がよっぽどひよっこみたいな名前じゃないですか。という言葉は呑み込んだ。あぐらをかいた膝に肘をついて、にやにやとヒヨリ先輩はこちらの様子を楽しそうに見ていた。さっきから気まぐれな猫みたいな人だ。


「さっき馬鹿正直だと言ったばかりなのに、また馬鹿正直になりやがって。ある意味可愛い気があるな、ひよっこ後輩」

「あ、ヒヨリ先輩って呼んだのに!」

「優しくしてほしいと素直に言ったからって、優しくしてもらえると思うなよ。一つ学べて良かったな、後輩」

「もういいです! 部活もあるし、私は失礼します! ヒヨリ先輩は、勝手に屋上に入ったことを伊藤先生に怒られちゃえばいいんですーー」


 そうして伺い見た顔に、ぞっとした。

 ついこの間の体育祭、あの時に真顔の美形は怖いと思った。けれど今のヒヨリ先輩は、ごっそりと表情がこそげおとされてしまっている。無惨に抉り出された感情の先には、底無し沼みたいな恐ろしさしかなかった。


「そうか。まぁ、そうだな。……なぁ」

「な、なに、なんですか?」

「なら、お前もおいで。一緒に怒られようか」


 甘い誘惑のような微笑みだった。すべてを忘れてしまうようなやさしい眼差しだった。

 けれど足が動かなかった。


「い、嫌です! 先輩の意地悪さはさっき体験したばっかりですから! やっぱり私は戻ります!」

「……そうか、やっと学習したのか。つまらない。帰れ帰れ」


 するとまたつまらなそうな顔をして、私を視界から外してしまった。そしてわざとらしく先輩は自分の指の爪を眺めはじめる。

 あまりにもくるくると態度が変わってしまうから、目が回ってしまいそうだ。


「言われなくてももう行きます! さようなら!」

「ああ、さようなら。ーーまたおいで」


 屋上の扉を閉めて、そのままの勢いで滑り落ちるように階段を下りていった。

 意地悪な先輩。不思議な先輩。少し恐い先輩。

 最後にかけられた言葉だって、からかっただけのはずなのに。走らないとどこまでもあの言葉がまとわりついてくる気がする。

 もし次に会うのなら、ヒヨリ先輩は笑うのだろうか。

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