5月 雨音さわぐ


 その日は朝から、どんよりと空が曇っていた。あんまり天気が悪いからベッドから出ることすら嫌になって、いつのまにか急がないと遅刻してしまう時間になってしまった。

 これは自転車のペダルを全力で回さないと……。

 自転車を慌てて押していると、傘を持った妹のセミ子が呆れた声を後ろからかけてきた。


「お姉ちゃん、今日は午後から雨が降るんだよ? それも大雨だって。傘持って、歩いていきなよ」

「そんなことしてたら遅刻しちゃう! セミも学校が私よりも近いからって、のんびりしてたら遅刻するんだからね! いってきまーす!」


 朝のくせに重苦しい空気の中、自転車を全力で学校へと転がしーー私はなんとか遅刻から逃れることができたのだった。

 汗だくになりながらも満足に自分の机に倒れ込んでいられたのは、ほんの三十分ほどだった。ザーザーと激しい雨の音に、朝は気にせずにいられた帰り道のことが憂鬱になってきたのだ。

 しかも、朝に慌てて家を出たせいで、家の机の上に宿題プリントを忘れてしまっていた……。

 おかげで、お昼休みに追加のプリントを職員室を取りに行くことになってしまった。しかも放課後までに再提出なんて嫌になっちゃうなぁ。




 お昼休みになって、私は一人とぼとぼ歩くことになる。

 良ちゃんとイトちゃんは、私が先生に呼び出されている間に食堂へ行ってしまっている。五階の廊下を歩きながら窓の外の雨を恨めしく眺める。

 ふとその時、屋上の端がちらりと目に写った。あれ、人の影が屋上に立っていたような……。こんな天気なのに、サルシス君がいるの? 立ち止まってよく見てみようとした時、ぽんと肩を叩かれた。

 振り返るとそこには、食堂の月替わりのテイクアウトメニュー、桜餅を手にした啓太先輩がいた。


「ボブ子さん、どうしたの?」

「屋上に誰かいるように見えて……」

「屋上に? 屋上は立ち入り禁止だし、鍵がかけられているはずだけど……」

「そ、それはそうなんですけど、ええっと」


 サルシス君が鍵を職員室から持ちだしてる、なんて言っていいものか。私が悩んでいると、啓太先輩はちらりと屋上に目を向けて、一瞬眉間にしわを寄せた。

 それから啓太先輩は、いつも見せてくれる笑顔を消して真剣な表情になった。


「ボブ子さん、屋上には近づかないでね。あそこは危ないから」

「危ない、ですか? 老朽化してしまったって先生も言ってましたけど」

「それだけじゃないんだよ。あそこでね、事故が起きたらしいんだ。実際に一名が被害に遭ってるらしいんだよ。あぶないでしょ? そんなところ、僕はボブ子さんに近づいてほしくないんだ。だから、ね? 近づかないでね」

「わ、わかりました」 


 私がうなずくと、啓太先輩は満足そうにうなずいて笑ってくれた。そもそも鍵がかかっているし、入れないとは思うけど。

 もう一度屋上を見てみたけど、あの影はすっかり見えなくなっていた。




 ーー




「今日も一日おつかれさまでした。明日から連休ですね。連休明けに元気な皆さんに会えるのを楽しみに待っています。それでは、さようなら」


 帰りのホームルームの時間、担任の伊藤先生がお別れの挨拶をした。いつもは一斉に勢いよく立ち上がる皆だけど、今日は雨のせいかのろのろと立ち上がっている。

 けれど、私はまだ立ち上がるわけにはいかない。なぜなら追加のプリントがまだ終わっていないから!


「じゃあね、ボブ子ちゃん! がんばってね~」

「え~、手伝ってよ良ちゃん!」

「だって私は宿題忘れてないもん。それじゃあ、またね」


 手を振って、良ちゃんはさっさと帰っていってしまった。

 私も早くプリントを終わらせて帰ろう。そうは思っても、ペンの先は全然進まないんだけど……。

 カリ、カリとなんとか問題を解いていると、プリントに影ができた。なんだろうと思いながらプリントに集中していたのだけれど、目の前の人はなかなか立ち去らない。

 私がこんなに頑張っているのが見えないのかしら? とちょっと面倒な気持ちになって顔をあげると、赤い瞳とばっちり目があって、手からペンが滑り落ちた。そのまま床に落ちてしまったそれを、練絹八十君は、白くて長い指でするりと拾い上げた。


「どうぞ、五津木さん」

「あ、ありがとう、練絹君。えっと、ごめん、無視しちゃったね」

「プリントが終わるまで待とうと思っていましたが。申し訳ありません、邪魔してしまって」

「ううん。練絹君が謝ることじゃないよ。それで、私に何か用事?」

「これを、読んだんです」


 練絹君が私に差し出したのは、一冊の本だった。タイトルにはよく見知っている、『人魚姫』と印字されていた。つるりとした革の表紙に金の刺繍文字で、いかにも高価そうだとわかる。


「以前に、物語の結末についてお話しました。その後、学校内の図書館などでも他の童話など読んでみました。他の物語も知ればあのすずの人形の結末も理解できると思ったからです。……五津木さんは、あの時のことを覚えていらっしゃいますか?」

「うん。覚えてるよ」


 あの部活見学の日の日暮れ時、練絹君とは『すずの兵隊』の結末について話したこと。まるで現実味の無い時間だったけど、やっぱりあの時間は幻じゃなかったんだなぁ。


「それで、この『人魚姫』は主人公が最後消えてしまう箇所が『すずの兵隊』ととても似通っていますので、参考になるかもしれないと持ってきました。お貸ししますので、ぜひ読んでください」

「ありがとう。えっと、この本は練絹君の?」

「はい。その物語は一度読んで特に気に入りましたので、自分の分を用意していただきました」


 『人魚姫』の本を受けとると、思ったよりも重みをもって手の中に収まった。それを傷つけないようにそっと自分の鞄の中にしまってから、この機会を逃すまいとちょっと身を乗り出した。そして解きかけのプリントをさっと、目の前に出す。


「練絹君、このプリントがわからないの。ちょっとだけでいいから、教えてもらえないかな?」

「わからない、ですか」


 練絹君は私の持っているプリントをまじまじと見つめた。そして不思議そうに首を傾ける。……あ、嫌な予感。

 そしてその予感は的中した。


「申し訳ありません。わからないとは、なにがでしょうか? わからない、の言葉が指すものを見つけられません」

「あー、うん」


 相手は、新入生の代表を務めた練絹君。しかも実力テストでも一位をとり、全教科満点なのではと噂される彼だ。嫌味じゃなくて、きっと本当にわからないんだろう。

 落ち込む。落ち込むわ……。

 がっくりとうなだれる私に、練絹君の平坦な声がかけられる。


「そのプリントの問題と同じような内容が教科書にもありました。ページはーー」

「あ、待って待って、教科書出すから!」


 教科書を取り出して練絹君の言うページを開くと、確かにそこには私が求めていた答えがあった。

 ありがとうありがとうと連呼していると、練絹君が納得したように頷いた。


「五津木さんは、答えがわからなかったんですか。そういうものなんですね」

「い、いやぁ、そういうものじゃない人もいっぱいいるよ。私が、わからない側の人間だっただけで」

「そうですか。勉強になります」


 べ、勉強されてしまった……。どうしよう、練絹君の中の他人の基準が私になっちゃったら。皆がこんなに頭悪いんだとか認識されても、私は責任とれないんだけど。

 礼をして去っていく練絹君を見送りながら、彼の中の他人の基準が私になりませんようにと祈った。


 その後、練絹君の助言のおかげでなんとかプリントを終わらせた。

 職員室に提出をしてさぁ帰ろうと玄関ホールに立った時、私は更に勢いを増した雨に足を止められた。風も強く吹いていて、横殴りの雨が外の景色をかすませている。

 この中を濡れて帰るのはーーまぁ、いいわ。こんな強風と豪雨のなか、他人の透けたシャツを気にする人なんていないし。家に帰るだけだから、すぐにお風呂に直行すればいい。

 でも問題は、練絹君についさっき借りたばかりの『人魚姫』の本だ。これだけは濡らすわけにはいかない。でも大型連休中ずっと教室に置いておくのも気が引ける。かくなる上は……。

 ブレザーを脱いで、『人魚姫』の本をぐるりと巻いて鞄の奥底に置く。この本は、この子だけは守りきってみせる!


「よし、行くわ!」

「いや待ちたまえ、行くな!」


 気合いをいれて外に飛び出そうとしたのに、出鼻を挫かれてしまった。恨めしい気持ちで、声をかけてきた下前君を見つめる。その腕にはいつもは無い、「生徒会」と印字された腕章がつけられている。


「どうしたの、下前君? 私に何か用事?」

「用事というか、ええっと、五津木さん、だよな? 君、傘を持っていないのか?」

「朝は急いでいたから、傘を忘れちゃったの。だから走って帰るしかなくって。でも、家は近いから大丈夫だよ。それじゃあ」

「そう急がないでくれたまえ! 学校には予備の傘がいくつか置いてあるんだ。それを持ってくるから、無謀なことはやめたまえ」


 今にも傘を持ってきそうな下前君に私は慌てて引き留める。無駄なことをさせてしまっては申し訳がない。


「私、自転車で帰るから。傘を片手に走らせたら危ないし、傘はいらないよ」

「自転車で帰ること自体が危ないだろう! 歩いて帰りたまえ!」

「大丈夫! 私、前の学校では鉄のハートのボブ子って呼ばれてたの! 雨にも風にも負けないわ!」

「宮沢賢治じゃないんだぞ! そもそも鉄は水で錆びるだろう!」


 宮沢賢治というと雨ニモマケズっていう詩が確かにあったよね。ということは、暗に私がデクノボーだって言われているのかしら。ただの棒だって地面に絵を描くぐらいには役立つのに。

 憮然とした表情のままの私に、下前君はながーいため息をついた。


「演劇部って変な奴しか入れないのか? ……わかった。ちょっと待っていてくれ。本当に、ちゃんと、ここで、待っていてくれたまえ」


 下前君は途中で振り返り、釘をさして、どこかへとドタバタ走っていった。

 彼が戻ってきたのは十分ほど後。ドタバタぜーはー言いながら戻ってきた。息を乱しながら私のところへ来た下前君は、大きめのビニール袋を差し出した。中には黄色いレインコート。


「そ、それを、着て、帰りたまえ。あと、もう一つ、水泳用の、ゴーグルも、入っているっ」

「水泳用のゴーグル?」

「そうだ」


 大きな息を吸って、どうにか落ち着きを取り戻した下前君は、ゴホンと咳払いをする。ついでにずれていた眼鏡の位置も左手で修正していた。


「豪雨の中だと視界が悪くて危ないだろう。見た目はよくないかもしれないが、自転車でどうしても帰りたいのなら着けたまえ」

「ありがとう。休み明けに下前君に返せばいい?」

「いや。それは長い間持ち主が現れなかった、誰かの忘れ物だ。先生からはどう使ってもいいと言われたし、適当に処分してくれて構わない」

「そっか。じゃあ、早速」


 黄色いレインコートを羽織って、水泳ゴーグルを装着。ついでに、渡されたビニール袋に私の鞄を詰め込む。これで本もより安心ね。

 それにしても下前君って、案外用意周到なんだなぁ。


「何からなにまでありがとう。下前君って、良い人なんだね」

「……どういたしまして。誉め言葉、なんだよな?」

「うん! じゃあ今度こそ、さようなら。下前君も気をつけて帰ってね」

「うん、さようなら」


 今度こそ振り返らずに、私は豪雨の中に飛び込んだ。

 ペダルを全力で踏んで爆走した結果、ほとんど濡れずに帰ることができた。本命の、練絹君から借りた本も無事だ。 

 今日は下前君に感謝を捧げておこう。



 後日。下前君とすれ違った時に、この時のことについてお礼をいった。

 おかげで練絹君から借りた本も無事だったと伝えた瞬間の彼の顔は、苦虫を噛み潰したような表情になっていた。

 

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