4月 あの日の話


 ペダルに力を込めると、風が頬を強く撫でるように流れていった。桜の無数の花びらの群れとすれ違って、坂を登る。

 自転車通学にしたのはいいものの、坂を登るのはけっこうきつい。やっと坂を登りきって校門をくぐり、地に足を下ろしてからふと気がついた。

 自転車置場確認してなかった。えっと、校門横に他の人の自転車が停めてあるから、あそこに置けばいいのかな。

 そっちに自転車を持っていこうとしたところで、声に引き留められた。


「ねぇ、君、一年生だよね。自転車置場はそこじゃないよ。一年生はあっち」

「え、ごめんなさい」


 声をかけてくれたのは、童顔の男の子だった。ぱっちりとした瞳がとても印象的で、水面の揺らめきのようにいたずらっぽく光っているその目が彼の雰囲気を幼くしている。けれど口元にかすかに浮かんでいる笑顔は積もった雪みたいに静かで、顔の幼さとアンバランスにも思える。

 なんか、見たことのある、人だっけ?

 クラスメート? いやでも、口振りからして先輩っぽいよね?


「えっと、先輩ですよね?」

「うん、2年の桂木かつらぎ啓太けいたです。よろしくね」


 あ、やっぱり先輩だったのか。じゃあ、見たことがあるような感覚は気のせいよね。

 にこにこと笑顔を向けてくる先輩の顔を見返して、昨日の練絹君とのやり取りを思い出した。


「あ、私は五津木歩子です。ボブ子って皆には呼ばれます」

「ボブ子さん、ね。入学おめでとう。今日は新入生向けの部活動見学があるでしょ? よければぜひ、うちの茶道部にも見学に来てね。それじゃあ」


 当たり前のように私の名前を呼んだかと思うと、桂木先輩は機嫌が良さそうに部活勧誘をして行ってしまった。

 言葉だけ聞けば強引なようにも思えるけど、あまりにもその声が柔らかで自然だったからそうは感じなかった。場所を教えてくれたお礼、言うの忘れちゃったなぁ。

 とりあえず教えてもらった所に自転車を置いて、急いで教室に向かうことにした。今日は実力テストだし、ちょっとだけでも予習しないと。昨日、すぐ寝ちゃったし。




 ーー




 チャイムが鳴って、解答用紙が回収された。

 全部のテストが終わって、朝から続いていた緊張が教室から抜けていく。2日目からテストってきついなぁ。春休みの間にけっこう勉強を忘れてたし。

 試験監督の先生と入れ替わりのように担任の伊藤先生が教室に入ってきて、そのままホームルームになった。


「みなさん、テストおつかれさまでした。テストの結果の発表は一週間後になります。……さて、今日一番の難所であるテストが終わったということで、このあとは新入生向けの部活動見学があります。クラスとしてはここで解散です。それではまた明日元気にお会いしましょう。さようなら」


 テスト終わりで疲れきった生徒達のためか簡潔にホームルームを終わらせた伊藤先生は、にこにこ笑って終わりの挨拶をした。それを聞いた途端、皆待っていましたとばかりに立ち上がる。

 私は、どうしようかな。まだ具体的にどこの部活動にしようか決めていないけど……。

 ぼんやりと考え込んでいると、良ちゃんが私の席までやって来た。


「ボブ子ちゃん、どこの部活にするかもう決めた?」

「まだ悩み中。でも、文化系にしようかと思ってるんだ」

「そっかぁ。私は、お世話になってる先輩がいるテニス部に行くつもりなんだ。ボブ子ちゃんもよければ一緒にと思ってたんだけど、文化部がいいならやめておくね。じゃあまた明日」

「うん、また明日ね」


 手を振って教室を出ていった良ちゃんを見送って、私も自分の席から立ち上がる。

 とりあえず文化部の部室がある棟に行ってみようかな。そこでいろいろ見て回ろう。

 廊下に出ようとしたところで、目の前を目立つ二人組が通りすぎていった。一人は眼鏡をかけたいかにも真面目そうな男の子。そしてもう一人は、肩よりも長いくらいの金髪をなびかせている、碧眼の男の子だった。


「しかし、学くん! 目の下の隈がとても目立っているよ! 隈は美しくないよ! 美しくないことは悲しいことだね!」

「本田、悪いが声の声量を落とせ。頭に響く」

「おっと、それはすまないね」


 金髪の子が親しげに話しかけているのを、眼鏡の子が疲れたように対応している。

 それにしても、後ろから見ても彼らはちぐはぐしているように見える。異国の血が混じっているのか金髪の子は他よりも頭一つ分高いのに対して、眼鏡の子は男子にしては小柄に見える。肩よりも長いくらいの金髪に、墨を丁寧に磨ったような黒髪。一人が大袈裟な身ぶりで語りかけては、もう一人が必要最低限の仕草で応えている。


「学くんは勉強熱心だよねぇ。熱心なのはいいことだよ。キミが熱を燃やし続けるのなら、ボクはそれを手助けするよ」

「入試では、隣のクラスの練絹という奴に負けてしまったからな。今回のテストは、勝てれば、いいんだが……」

「切磋琢磨も青春だね! 青春は美しいよね! じゃあ、次は部活にも熱を注がなくてはね! さぁ、次なる青春へ向かおう!」

「お、おい、本田! 待て、はしゃぎすぎだ! 少しは落ち着きたまえ!」


 ステップを踏むように楽しげに進んでいく金髪の子に、腕を引かれた眼鏡の子は引きずられるように連れていかれてしまう。

 でこぼこな二人組の姿を最後まで見送ってしまってから、私はハッとした。私も部活見学に行かなくちゃ。ついつい目で追ってしまっていたわ。

 部室棟は、一年生の教室がある本校舎二階からも渡り廊下で繋がっている。

 渡り廊下を過ぎると、見学の新入生でいっぱいになっていた。どうしよう。とりあえず一階から順に見て回ろうかな。

 階段を下りて行く途中の踊り場で、階下から上がってきた人と真正面で鉢合わせしてしまった。慌てて足元の段差に向けていた顔を上げると、そこには知っている顔が微笑んでいた。


「こんにちは、ボブ子さん。部活見学に来てくれたの?」

「え、えっと、桂木先輩?」


 目の前にいたのは、今朝自転車置場で少しだけ話をした桂木先輩だった。

 おそるおそる名前を呼ぶと、まるい瞳がなぜか伏せられてしまう。眉尻も下げられてしまって、いかにも悲しそうな様子だ。あ、あれ、もしかして、名前間違えたかな。


「ボブ子さん」

「は、はい」

「そんなに他人行儀にならなくてもいいのに。ボブ子さんには、啓太って呼んでほしいな」

「えっと、でも、先輩ですし」

「あれ、そんなこと気にしてたの? 別にいいのに。だって僕が呼んで欲しいだけなんだから、ね」

「あの、はい、啓太先輩」


 私が言われた通りに呼ぶと、桂木ーー啓太先輩は心底嬉しそうに顔を緩ませた。それに、なぜか抱えることになった罪悪感から解放されて私もほっと一安心する。と同時に、内心首をかしげた。どうして、こんなことになったんだっけ。

 でも、私の顔を覗きこむようにして笑う啓太先輩に疑問はしゅるしゅると萎んでしまう。なぜか目を離せない。離してしまっては、いけないような……。


「あれ、桂木? そんなところで何してるんだ?」


 急に後ろから声をかけられて、思わず振り返った。


 そこには、クマがいた。


 ちょっと雑な造りの着ぐるみのクマだった。手作りの看板を抱えたクマは、縫い付けられたプラスチックの目をキラリと光らせる。


「新入生? ってことは、部活勧誘か? 桂木がそんなことするなんて珍しいな。こういう時はいつも適当に手抜きするだろ。もしかして、一年生を見て、先輩風吹かせたくなったのか。やっぱ、先輩になると張り切っちゃうよな!」


 啓太先輩に親しげに話しかけるクマは、私たちが立っているのと同じ踊り場の所まで下りてきた。そしてずっと腕に抱えていた、演劇部と書かれた看板をずいっと目の前に出してくる。


「桂木のところの茶道部もいいけど、うちの演劇部も負けてないぜ! 和気藹々としていて、皆仲良しだぞ! それに一つの作品を皆で作っていくからチームワークも抜群だ! そりゃ、基礎練習として走り込みや腹筋とかがあるのは大変だけど、たぶんダイエットにもなるから女子にはいいと思うぞ! それに何より、演劇部のマスコット! この俺、エンクマ君が君を待っている!」

「は、はぁ」


 流石の演劇部と、褒めるべきなのか。クマはどんどん勧誘の言葉をこちらに投げ掛けてくる。でも残念なことに、突然のクマの登場に頭が追いつかない今の私には言葉が耳をすり抜けていってしまう。ど、どうして、クマが放し飼いにされているの?

 反応の良くない私に、クマは一拍置いてから不思議そうな身振りをして両腕を組んだ。


「なんか、俺、引かれてる? グイグイ行き過ぎた? どう思う、桂木?」


 クマに声を掛けられた啓太先輩の顔には、先ほど見たような笑顔は無い。いや、笑ってはいるんだけど、愛想笑いみたいな。とりあえず浮かべてみました、みたいな笑顔。


「どちら様かな?」

「えっ。森野だよ! 去年から同じクラスの! 俺が演劇部だって知ってるだろ?」

「森野? ……へぇ、そんな名前だっけ」

「うそだろ。名前呼んでくれないなぁと思ったら、覚えてくれてなかったという事実!」

「元気でよかったね。……ほらボブ子さん、もう行こう。あんまりここにいると、クマがついてきちゃう。なつかれちゃっても困るからね」

「え、不審者扱い……?」


 手をとられたかと思ったら、啓太先輩が私の手を引いて一階へと足を向け始める。落ち込んだように壁に手をつくクマを置いてけぼりにする啓太先輩についていきながら、一応声をかける。


「えっと、いいんですか?」

「うん、どうかした? あ、茶道部は一階の隅の作法室で活動してるんだ。新入生歓迎のためにちょっと良い和菓子を用意してるから、楽しみにしててね」

「ク、クマは……」

「あはは。この学校っておかしいよね、クマが出没するんだから。でも、一応人馴れしてるみたいだから安心して」

「そう、なんですね?」


 啓太先輩の返答に苦笑いを浮かべていると、他の教室と一目で違う雰囲気の部屋の前に来た。

 木製の格子の引き戸。その格子戸の隙間からは靴を脱いで上がる床の間が見える。ここが、茶道部の活動場所である作法室なんだろう。


「さぁ、入って」


 階段からずっと繋がれたままの私の手を、啓太先輩が室内へ導こうとする。カラリと戸が開かれると、奥にある畳の独特の匂いがこちらまで届いてきて、久しぶりのそれに懐かしい気分になって、頭が、痛くなった。

 足を止めた私に、手を繋いでいる啓太先輩も自然と引き留められる。


「ボブ子さん? どうしたの?」

「あ、ごめんなさい。急に頭が痛くなって」

「頭? ……そう」


 どうしてだろう。急に頭が痛くなるなんて。

 長い間畳に縁なんて無かったから気づかなかったけど、私って畳にアレルギーでもあるのかな。そこまで、すごく痛いわけじゃないんだけど。

 私が目を閉じて痛みを和らげようとしていると、啓太先輩が静かに声をかけてきた。


「もしかして、痛いのってここかな?」


 そっと耳のすぐ上辺りを撫でられて、首を絞められたように息が詰まった。

 パシッと啓太先輩の手を叩き落としてから、少し遅れて自分がしてしまったことに驚いた。


「あ、啓太先輩、ごめんなさい……」

「ううん。これは僕が悪かったことだから。大丈夫かな? ゆっくり深呼吸してごらん」 

「はい……」


 肩で息をしていた私を落ち着かせるように、啓太先輩が一緒に深呼吸をしてくれる。目が合うと、安心させるように柔らかに目を細めて笑ってくれた。

 少し呼吸が落ち着いたところで、啓太先輩は私を作法室から少し離れた壁際に立たせ、ちょっと待っているようにと言葉を残して作法室の中へ入っていってしまった。

 どうしたんだろう、私。記憶している中では、いままでこんなこと無かったはずなのに。


「お待たせ。ごめんね、待たせちゃって」


 すぐに戻ってきた啓太先輩は、和紙に包まれた何かを両手で私に差し出した。


「これ、新入生歓迎用の和菓子なんだ。今日は茶道部の見学は無理そうだし、お菓子だけでも持って帰って」

「え、いいんですか?」

「うん。その代わりといってはなんだけど、気が向いたら茶道部にも遊びに来てね。無理はしなくていいから」

「……はい。頭が痛くないときはきっと」


 今はすっかり頭も痛くないし、さっきだってそこまで痛くなかった。久しぶりに懐かしい畳の匂いを嗅いで、過敏に反応しちゃっただけかも。

 校門まで送って行こうかと提案する啓太先輩に、流石に申し訳ないと断って別れた。

 あれだけ心配されちゃったし、今日はもう帰ろうかな。新入生向けの部活紹介が今日ってだけの話だし、気が向けばまた後日入部できるしね。

 このまま帰ろうと部室棟を出たところで、目立つ背中を見つけた。クマの背中だ。落ち込んだように肩を落として、とぼとぼと歩いている。啓太先輩の言動に、まだ落ち込んでいるみたい。謝った方が、いいのかな。クマが徘徊していたとはいえ、危険はないみたいだし。

 小走りで近づいて、クマの背中に声をかける。


「あの、すみません、えっと、クマ、さん?」

「うん?」


 のっそりとした動きでこちらに顔を向けたクマは、私の姿を見てすぐに誰かわかったらしい。表情は変わらないものの、パッと両手を上げていかにも驚いたようにのけぞった。


「君、さっきの一年生だよな! なんだよ~、あの桂木を振りきってまで演劇部を見学したかったのか! なるほどなるほど! それならエンクマ君におまかせあれ!」

「え」

「さぁ、カモン! 皆のマスコット、エンクマ君が案内してしんぜよう!」


 手をぶんぶん振って招いてくれるクマを無視することはできなかった。クマは上機嫌になって、私と一緒に部室棟近くの第三体育館へ移動する。


「部室棟4階にも部屋があるんだけどな。ミーティングとか、あと衣装の保管とかはそっちでやるけど、主な活動は第三体育館でやってるんだ」

「そうなんですか」

「そうなんだよ。今日は新入生向けの劇をやるんだ。今の時間だと上演途中かな。まぁ、気にしないで気楽に見ていって」

「はい」


 第三体育館は、入学式を行った第一体育館よりも一回り小さかった。クマに促されて入ると、やっぱり劇の途中で、中は薄暗かった。後ろの方に空いている席に座って舞台上に目を向けると、赤い兵隊服を着た人がくるくると中心で踊っていた。白いワンピースを着た女の人と、全身を黒い服で着こんだ男の人がその躍りを見守っている。


「この舞台は、アンデルセン童話の『すずの兵隊』をモデルにしてるんだ。おもちゃの兵隊が悪魔に翻弄されながら、想い人……想い人形か。その想い人形への愛を貫くんだよ」

 

 一つ席を空けた隣に座ったクマが、こっそりと静かな声で解説してくれる。

 その時パッと照明によって舞台が赤く変わった。暖炉の中に投げ込まれた赤い兵隊は、すっかり踊るのを止めて直立不動になる。黒い服の悪魔が囃し立てるのも無視して、ワンピースの少女人形をじっと見つめる。

 ぱちぱちと燃え盛る炎の効果音が響くなか、不意に少女人形が赤い兵隊の元へと飛び込んだ。二人は手を取り合い、ただそれだけ。だんだんと照明が落とされて、最後には真っ暗になる。

 再び照明がついた時には、二人の役者の姿はなく、黒い布と心臓の形をしたなにか。赤い兵隊と少女人形は燃えつきてしまった。


「最後まで皆でラストシーンに悩んだんだよなぁ。アニメ化もされてるんだけど、そっちでは人形たちは燃え尽きないんだよ。でも原作のラストの方がいいって意見もあって、結局こっちにしたんだ」

「それは、なんでですか?」

「うーん。俺もうまく説明できないんだよな。……ということで、知りたかったらぜひ我が演劇部に入ってくれ!」


 他の観客と同じように拍手を送りながら気になったことを尋ねてみると、クマは楽しそうに片腕を上げて拳をこちらに向けてきた。分かりづらいけど、親指を上げているのかな?

 クマから視線を前に戻すと、前の方の席で金髪の男の子が席から立ち上がって熱心に拍手をしている姿を見つけた。


「まぁ、とりあえず、興味が湧いたら入部してくれ。エンクマ君も待ってるぞ!」


 横から差し出された入部届けの紙を受け取って、もう一度舞台の上を見る。拍手に応えて、役の人達が丁寧にお辞儀をしていた。

 楽しそう、かも。

 私は入部届けを折り畳んで、丁寧に鞄の中にしまいこんだ。




 ーー




 演劇部の見学も終わって帰ろうと思っていた私だったのだけれど、今は自分の教室にまで戻ってきていた。鞄の中に自転車の鍵がなかったのだ。そういえば朝、自転車置場から教室まで鍵を手に持ったまま来てそのまま適当に机の中に放り込んでしまった記憶が……。

 自分の机の中に手を入れて探ると、やっぱりあった。

 ため息をついてさぁ帰ろうと廊下を歩く。皆、部活見学に行っているのかしんと静まり返っている。窓からは沈みかけた太陽が差し込んでいて、なんだか物悲しい。こういう時間を、逢魔が時って言うんだっけ。

 ちょっと不安になったとき、黒い人影が視界に入って思わず立ち止まった。


「ーーこんにちは、五津木さん」

「こ、こんにちは、練絹君」


 こちらの驚きにも気づかず感情のこもらない顔を見せたのは、練絹君だった。黒い人影の正体ももちろん、窓の外を眺めている練絹君だ。

 私に挨拶をしたかと思うと、すぐに視線を窓の外の夕日に戻してしまう。直接見てない私でも眩しいのに、そんなにじっと見て大丈夫なのかな?


「眩しくないの?」

「眩しいです、少し痛くなってきました」

「え、ええっ! だめじゃない!」


 あまりに表情が変わらないから分からなかったけど、目にうっすらと涙の膜が張っている。

 練絹君って、たった二日間ちょっと顔を合わせただけだけど、本当に表情が変わらない。わざと動かさないっていうよりも、初めからそんなものが無いみたいな、まるで人形の固まった顔をしている。

 だからかな。皆、視線は向けるけど誰も近づかなかった。そこだけぽっかりと見えない穴が空いたような、その底の冷たい静かな場所に練絹君は立っている。


「しかし、見ていたいと思いました。痛くても見ていたいので、見ていました。後で怒られるかもしれませんが、でもこれが私の見たいものでしたから」


 なんの抑揚も無い無感動な声で、それでも瞳の縁からついに溢れた涙の一筋も気にせずに練絹君は夕日から目を離さなかった。白い髪が夕日に溶けるように染まっていて、彼自身が溶け込んでいるようだった。

 もう一度声をかけようとしたけど言葉が思い付かず、ただ同じように夕日に目を向けるしかなかった。でも眩しくて、私にはまっすぐ目を向けることができない。手で目元に影を作りながらかすかに見える夕日は、ゆらゆらと揺れていてまるでーー


「暖炉の火みたい」


 思わずそう呟いた。さっき観た劇の影響か、私にはそう見えた。

 何気ない感想だったけど、隣にいた練絹君は興味を引かれたように夕日から視線を外してこっちに赤い目を向けてきた。


「暖炉、ですか。私は暖炉の実物を見たことがありません。五津木さんは見たことがあるのですか」

「ううん、私も本物の暖炉は見たことが無いわ。さっきね、演劇部の見学で、『すずの兵隊』をやってたのを思い出しちゃって、つい」

「『すずの兵隊』ですか……」


 不思議そうな声色になった練絹君に、さっき聞いたばかりの『すずの兵隊』のあらすじを教える。うなずきながら聞いていた練絹君は、最後には考え込むように顎に手を当てていた。


「そのようなお話があるんですね、知っているものではありませんでした。……私も、五津木さんと同じように、最後のシーンに疑問が残ります」

「練絹君も? あれってハッピーエンドなのかな。バッドエンドなのかな」

「……最後に、二人は幸せだったのでしょうか。心、だけが残っていたんですよね。燃えもしない心は、その後どうなったのでしょうか? 砕かれて捨てられてしまわないでしょうか。それとも誰かが拾って磨いて飾るのでしょうか、少女人形でもない他人が。もしくは、誰にも見つけられずに、そのまま灰に埋もれていくのでしょうか」


 平坦な声色で練絹君は、残った心臓の行方が哀しいものであるようにつらつら言葉を並べていく。しかし納得もいっていないのか、首をかしげている。練絹君、表情にも出ないけど仕草や雰囲気に感情が出てるよね。

 私も練絹君のように何か考察を、と思ったけれど。うまく言葉にできない。


「私は、きっと幸せな結末なんじゃないかと思うんだけど。でもわからないわ。……演劇部に入るつもりだから、何かわかったら教えようか」

「そうですか。では、よろしくお願いします。私は原本を探して読んでおきます」

「うん」


 窓の外で夕日が沈みきった。さっきまで私の視界を遮るように伸びていた日の光が消えて、やっとまともに練絹君の顔を見ることができた。

 でもあまりにも整った白い横顔に、さっきまで特に気にすることなく話せたのに急に恥ずかしくなって、視線が反れてしまった。

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