令和4年3月9日

 父の関係のことは、すぐにどうするか決まった。

 姉は裁判所からの手紙が来たあと、何箇所かで話を聞いてきたらしい。ずっと音信不通だったというなら父がどんな負債を抱えていたかもわからないし、調べるにも時間や費用がかかるから、とくに欲しいものがないなら相続はしないほうがよいですよ。だいたいそんな回答ばかりもらったそうだ。

 私は昨晩、姉からの電話でその話を聞いた。姉の行動力には感服する。私は遺言書の中身がわかってから相談すればいいと思っていたから、せっかちだなぁとも思ったけど。

 でも、お母さんは? と聞くと、姉は「ちょっとね」と、歯切れの悪い返事しかしなかった。私はそれ以上は聞かなかった。


 姉が事前にいろいろ立ち回ってくれていたおかげで、私は姉に任せておけば、あとはちょっと名前を書いたりハンコをついたりするだけで済むらしい。本当に段取りの良い姉である。

 私は今朝、そんな「相続放棄することにしたんです」という話を、入れてもらったばかりのコーヒーを両手で持って、車道のほうを見ながら言った。


 ほかのお客さんが来たら、こんな話は続けられない。私はカウンターにもたれたままコーヒーを吹いて冷ましつつ、ときどき左右を見ては居場所を変えた。こっちに向かって歩いてくる人がいれば車道側に歩み出て店の前を空け、その人が通り過ぎるとまたカウンター側に後ずさるようにして。

 大神先生は、そんなふうについたり離れたりしながらの私の話に「そうですか」とだけ返した。カウンターの中で椅子を引く音がした。


「父、誰に何を謝ってたんでしょうね」

「さあ……」

 大神先生の声には全くやる気がない。まあそうだろうな、多分どうでもいいのだ。仕事で関わっただけの赤の他人のことだし。それに。

「ああいうのってよくあるんですか」

 私が聞くと、大神先生は「そんなにはないです」と言った。

「少なくとも僕が関与したことのあるケースでは。せっかく書面で遺す以上は、遺産のどれは誰にやるとか、逆に誰にはやらんとかの、法的に意味というか、効果のある内容をしたためる方が多いと思います」

「ですよね。謝られてもなあ」

 多分、だからこそ気になってしまうのだけど。あれは遺書だ。遺言書っていうか。あれ?

「遺言書と遺書って違いますよね?」

 私が振り向くと、大神先生は手元の雑誌から顔を上げて言った。

「定義にもよりますが。内容や形式次第です」

 詳しく聞こうと思ったらお客さんが来た。私は車道側に避けた。


 昨日、電話を切ってすぐ。私は、大家さんからもらった遺言書のことを思い出し、姉に、見る? とメッセージを送った。既読は即座についたけど、「いや〜、いいや」という返事は2分後だった。汗をかいた顔の絵文字もついていて。それで私は、返事待ちの間に撮った父の遺言書の画像を結局送らなかった。

 一方で私は、私にずっと「父は死んだ」と説明していた母とは、裁判所からの手紙が来て以来、話をしていない。母が嘘をついていたことを責める気はないけれど、母は私を見たら多分、そうは思わないので。

 姉との間も微妙な感じになっているんだろうな。


 ふと。父の詫びの言葉は、こんなふうになってしまった私たち母娘の関係に対してのことなのかな、という考えが頭をよぎった。

 そんなわけはないのだけども。私はコーヒーの最後の一口を啜り大きなため息をつくと、「ごちそうさまでした」と言いながら、空の紙カップを大神先生に渡した。

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