令和4年3月8日
今朝、私はいつも渡る横断歩道を無視し、通勤に使うバス停とは向かい側に来ている。
昨日私がコーヒー1杯に払ったのは千円だ。どんな本格派のが出るかと思ったら、店主はインスタントコーヒーの瓶を隠しもしなかった。
いや、まあ。ちゃんと言われはした。「うちはインスタントだし1杯ずつで精算してないから1回しか来ないなら損ですよ」と。なんだそれ、と思ったけど、後ろに既に高校生の男の子が待っていて。私は引くに引けない感じになり、大丈夫ですと言いながら千円札を差し出した。店主はカードとペンを渡してくれた。
次の人の邪魔にならないよう少し脇に避け、私は名前を書いた。藤沢千尋。ずいぶん可愛いカードだなと思いながらペンと一緒に店主に戻す。店主は私の名前を見て一瞬眉を顰めた気がするけど、後ろの高校生のカードをチラ見したら、名前の記載は「ゆうや」。どうやら適当でよかったみたい。私は、店主の反応はそれでかなと思ったのだ。そのときは。
それが間違いとわかったのは、2時間くらい後だった。
私が今日のように普段の通勤途中に寄ろうとすると、この店的にはタイミングは開店直後になるらしく、まだほかのお客さんはいない。
私は店主の目を見「昨日はどうもありがとうございました」と言いながらカードを差し出した。店主、というか
昨日、私は裁判所の前でギリギリまで待ったけど、姉は結局来なかった。
仕方なく中に入り受付を済ませると、通された部屋には大きなテーブルがあり、奥におばあさんと弁護士バッジをつけた若い男性が並んで座っていた。立ち上がって名刺をくれたその人を見、私は朝の店主の顔の理由を理解した。
大神先生は私におばあさんを、父が住んでいたアパートの大家だと紹介してくれた。やがて裁判所の人も来て扉が閉じられ、父の遺言書を開ける手続きが始まった。
大家さんが封筒を取り出した。父が書いたと思われる「遺言書」の字は不謹慎ながら、ちょっと笑っちゃうくらい子どもっぽかった。その封筒を裁判官がハサミで切って中身を取り出す。三つ折りになった便箋を広げ、裁判官はそれを私たちに回覧させた。
お父様の字ですか、と聞かれたけれども。私は「わかりません」と答えた。大家さんも同じく。そうしてみんなが見た遺言書は、裁判所の係の人が受け取った。
その人が遺言書を持ってちょっと席を外しているあいだ、私は大家さんと話をした。父のいた目張りされた浴室には、燃えた練炭があったらしい。仕事を無断欠勤していると連絡があって、それで見つけたんだと。
父の「遺言書」には、封筒の表書と同じ子どもみたいな字で「本当にすみませんでした」とだけ書いてあった。
誰かに謝りながら、ひとりで死んでいった父。残された遺言書が本人の直筆かどうかわかる人さえいない。確認の手続きも、すごくあっさり終わってしまった。
なんだか私は、その人となりも全然しらない父が、かわいそうになってしまった。
私は帰り際、大家さんに、私に遺言書もらえませんかと聞いた。大家さんがちょっと困った顔で振り向くと、後ろにいた大神先生は大家さんに「受取証さえもらえれば」と言った。
大家さんは一度私を見、遺言書を封筒ごと、名刺みたいに両手で持って渡してくれた。
大神先生はお湯が沸くのを待っている。私は鞄の中からスティックシュガーを取り出しながら聞いた。昨日、ミルクと砂糖の備え付けもないのを知ったので。
「私、どうするのがいいんですかね」
少なくともコーヒーに関してはかなり適当な商売をしている大神先生は、私を一瞥すると「好きにしたらいいんじゃないですかね」と言った。
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