令和4年3月2日

 昨日のもやもやが頭を占めたままだったので、私は今朝「お金払うから話聞いてもらっていいですか」とオオガさんに言った。


 別に弁護士さんに聞きたいことはない。Win-Winな偽装結婚なんかただの妄想だし。でも、私の抱えるもやもやは誰かに聞いてほしかった。できれば、わざわざ否定しなそうな、そこまでの関心もなさそうな人に。オオガさんがちょうどいい気がした。

 でも、オオガさんは「それって僕の助言が必要な話?」と聞いてきた。

 あ、これはたぶん法律相談じゃないってバレているな。私は正直に「わかりません」と答えた。


 オオガさんは私のタンブラーにコーヒーを注いだ後、ポケットから取り出したスマホを見、「5時くらいからちょっと片付けにくるから」と言いながらスマホをしまい、それから私にタンブラーを返してくれた。

 私は、仕事終わったら寄ります、と頭を下げた。


 オオガさんは、おじいさんがやっていた税理士事務所の後片付けをしている。荷物とかの物理的な片付けはもちろん、お客さんの引き継ぎや、私の会社(というかオーナーさん)との家賃や明け渡しの交渉とかも。

 そのためにオオガさんは、裁判所とかから正式な許可みたいなのをもらい、施設にいるおじいさんに代わって、お客さんから預かりっぱなしになってた資料とかを少しずつ返したりしている。大量のインスタントコーヒーはそのおじいさんが買いためたもので、賞味期限もあるから、オオガさんはその処分についても裁判所と話したんだそうだ。裁判所ってそんなこともやるんだな、と私はちょっと感心した。

 今は確定申告の関係で、去年までのお客さんがちょくちょく連絡をくれるので、先月から今月にかけては片付けは結構捗っているみたいだった。しょっちゅう事務所に来ているのはそういうことだ。たぶん。

 オオガさんは確定申告の時期が終わり、お客さんからの連絡が落ち着いたら、その時点で残っている荷物を別の場所に移してこの事務所の契約を終える予定。だからたぶん、来月のカードは作る機会はない。


 私は5時に仕事を終えると、急いでコートを着て会社を飛び出した。

 コーヒースタンド前についたとき、事務所にはまだ明かりが灯っていなかった。私は鍵のかかった事務所の前で、オオガさんが来るのを待った。

 オオガさんは、ダークスーツの上にあのマウンテンパーカーを重ねて現れた。私が無言で頭を下げると、オオガさんは「記録勝手に見たりしないでね」と言いながら鍵を開け、事務所の中に入った。


 私は出口側に寄せられたソファーに浅く腰掛け、深呼吸をしてから話し始めた。お母さんやおばさんから言われたこと、そんな悪意のない言葉にいちいちモヤついてしまうこと。この辺はまだ独身のオオガさんなら似たような経験あるんじゃないかなと思いながら。

 そして本題、私は彼氏が欲しくない。こっちは最初は、オオガさんがおばさんみたいに「いずれ見つかるはず」みたいなこと言ったり、変な深読みしないかちょっと警戒した。でも、オオガさんは私の感じている「フツー」への違和感に、奥の棚の前に立ったまま「うん」とか「そうなんだ」とかと割と丁寧に相槌を打ってくれ、調子に乗った私の「どう思います?」にも、意外なことに返事をくれた。オオガさんには数年来のパートナーがいる。割と年上で、男性。

 オオガさんが言ったのはそれだけで、質問にはかみ合ってなかったけど。それでも私は、それ以上の答えはいらないな、と思った。


 オオガさんがファイルを数冊持って戻ってきた。私の前で立ち止まる。私が「30分五千円でしたっけ」と言うと、オオガさんは、いらない、と答えた。

 その日オオガさんは、私を家まで送ってくれた。

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