令和4年2月25日
私が初めてここに来たとき、このコーヒースタンドはまだなかったし、事務所にはインターホンも設置されていなかった。私と先輩は、外からガラスをトントンと叩き、掃き出し窓を引いて中に入った。
おじいちゃん税理士は奥のデスクについて、分厚い本で調べ物をしていた。ほかに事務員さんとかはいなそうだった。
税理士さんが眼鏡を外し、それを挿んで本を閉じた。私はいよいよお客さんに名刺を渡す機会がきたと思い、ジャケットの内ポケットに手を入れたけど、先輩はその先を遮った。
最初は和やかに始まった。税理士さんは先輩の、事務的な滞納状況の説明を静かに聞いており、私はすんなり払ってくれるのかなと思った。でも、その人はだんだん「ガス給湯器が壊れているから直すまでは払わない」とか「周りの家賃が前より下がっているのでここの家賃も下げるべき」とかの理屈(屁理屈かもしれない)を
先輩は「また来ます」と言い、私を連れて事務所を出た。そのあと寄った喫茶店で私は先輩から「あの人に名刺なんか渡したら名指しでクレーム電話がくる」と言われた。
なんだ。やっぱり私、守られてしまったんだな。
でも、税理士さんのあの剣幕を目の当たりにした私は、自分が未熟だという悔しさより先にまず「やらなくて済むならやりたくないな」と思ってしまった。そんな自分になんだか幻滅して、私は急速に、いろんなやる気をなくしてしまった。風船がしぼむみたいに。
そんなときである。私がオオガさんからの電話を取ったのは。
オオガさんは、あの税理士さんの孫だと名乗り、全額払うから累積滞納額と振り込み先を教えてくれと言ってきた。私は、本当に孫かも分からないし、仮に孫でも本人じゃない人からお金を受け取ってトラブルになったらイヤだなと思い、電話を保留にしたまま社長の奥さんに相談した。
奥さんは私の話を聞くと、保留中の電話を取るなり「ふみあきくん?」と言い、そのあとしばらくにこやかに話をして、じゃあ何時に行くから! と元気よく電話を切った。
その日私は奥さんに連れられて、初めて弁護士事務所というところに足を踏み入れた。
奥さんと並んで座り、緊張して待っていると、部屋に入ってきたオオガさんは電話の声から想像してたよりも小柄だった。奥さんが立ち上がり、私も続いた。奥さんは私の後ろに回り、オオガさんのほうに私を押し出して「担当の佐倉です」と紹介してくれた。
私が差し出した「佐倉智恵利」の名刺は会社の複合機で作った、ミシンカットに沿って切り取ったものだ。青い背景画像の入ったシンプルなテンプレートは結構慎重に選び、その場では選択肢の中では一番良いものだと思ったはずなのに、いざ差し出すとなるとなんだかいかにもありきたりに感じて恥ずかしかった。でも、オオガさんは私の名刺をふつうに受け取って、入れ替えに自分の名刺をくれた。
オオガさんは私の名刺を見、それから私を見て「お名前の読みは『ちえり』さんでいいですか」と聞いた。私は頷き、それから手元の「弁護士 大神文章」さんの名刺を見下ろした。
風合いのある白い紙に、文字だけが並んでいる。それだけの、本当にオーソドックスなものだったのだけど。
私はそれを今でも名刺入れに納めてある。お守りみたいに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます