令和4年2月20日

 昨晩栞は暗くなってから帰ってきた。自分の足じゃなく、いっちゃんパパの背中に揺られてだ。玄関先で恐縮しながら受け取って抱き抱えると、いっちゃんパパは栞の膝のあたりに「あとこれも。パパにお土産だそうです」と紙の小袋を乗せてくれた。サービスエリアの売店のものだ。中から小さな鈴の音がした。

 栞にはお小遣いは持たせていない。ということはいっちゃんちがお金を払ってくれたことになる。さおりが慌てて財布を取りに戻っている隙に、いっちゃんパパは「じゃ」とかっこよく別れの挨拶をキメて帰っていった。どこかテレビ番組的なヒーロー感があった。

 玄関に戻ってきたさおりからは「引き留めといてよ」と言われたが、両腕が子どもで塞がっているので無理な話である。俺は栞の上の小袋を顎で示し、それをさおりに取ってもらってから栞を布団まで持っていった。


 袋の中身はもう音だけでキーホルダーだとわかる。我が家の鍵は無限ではないから持て余すのは確実だ。

 それでもせっかく愛娘が俺のために買ってきたものなので、もちろんありがたくいただく予定。本人が自分で渡したいだろうからってことで、さおりはその紙袋を栞の枕元に置いた。


 そして今朝である。

 朝食後食卓でパソコンを開いていた俺に、栞はドヤ顔でその袋を渡してきた。「パパの名前のお土産だよ」と言うので、へええ〜などとわざとらしくワクワクしながら紙袋を開け、ひっくり返すと案の定、よくサービスエリアとか温泉地とかにあるキーホルダーが出てきた。みかんと犬が合体したような、眠そうな顔をしたキャラクターので、ちゃんと「かずのり」と名前が入っている。

 俺は栞に礼を言い、そのキーホルダーを横の椅子に置いていたパソコンバッグのファスナーにとりつけてみせた。栞は満足げに頷くと、テレビの前までいって一葉と並び、DVDを見始めた。

 さおりが寄ってきてバッグを持ち上げ、しげしげとキーホルダーを眺めた。

「栞、ちゃんとかずちの名前覚えてるんだね。えらいね」

「そういやそうね。ママは俺のことちゃんと名前で呼ばないもんねえ」

 さおりは立ったまま俺を見下ろし「不服かね」と聞いた。俺は、まさか、と答えた。さおりはバッグを椅子に置き直すと台所に戻っていった。


 両親以外で俺を「かず」の方で呼ぶのはさおりだけだ。それ以外の知り合いはみんな「ノリ」って言う。もともとは友達からは「カズ」と呼ばれていたんだけど、小学校のはじめころ、地域のサッカークラブでその名で呼ばれていい気になっていた俺は、俺よりうまい「かずき」だか「かずあき」だかが入ってきたことで呼び名を放棄した。当時、そのあだ名はサッカーの上手いやつが名乗るべきであったから、俺は負けを恐れて敵前逃亡したのだ。亡命先が野球クラブだった。サッカークラブには新しい「カズ」が誕生し、俺は野球クラブの「ノリ」になった。

 あれを思い出すと背筋がむずむずする。あのころ俺の世界は狭く、今考えたらどうでもいいことが世界一重大だった。本当はそんなのでサッカーをやめる理由もなかったし、むしろ今となっては、自分で適当な理由を考えて「ノリ」って呼ばせてたことのほうがよっぽど恥ずかしいんだけど。


 そういう、馬鹿馬鹿しいはずの「ノリ」の由来を、俺は最近も口にした。他人にそんな黒歴史だと悟られたくなくて、だからこそ聞かれてもいないのに、もっともらしく、言い訳のように復唱してしまうのだ。なんとも複雑。

 これを俺は、墓場まで持っていくのかもしれない。

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