令和4年2月14日

 財布の中身は昨晩ちゃんと確かめた。僕は今朝、いつもより15分早く家を出た。


 税理士事務所そのものには、なんとなく近寄りづらい気分になっている。あの男の人は僕に気づいたかもしれない。でも、だからといって僕は通学路であるあの事務所の前を文字通り、避けては通れない。

 大丈夫だ。僕が知りたかったのは事務所や税理士さんのことではない。そんなのはクチコミサイトで余計な情報を見てしまったから気になっただけで。あの、インスタントコーヒーを出す名前のわからない店のことさえ判明すればそれでスッキリする。ついでにバスを待つ間温かいコーヒーを楽しむことができるようになる。ノリさんが言う値段だったら、僕のお小遣いからだって出せないわけではない。インスタントでも別にいいのだ。僕はコーヒーの味にこだわりがあるほうじゃないし。なんなら、ブラックよりもカフェラテのほうが好きだ。だから、大丈夫。


 あの日、あの男の人はバスを降りてきたとき、駅前とかにある高いコーヒーショップのカップを持っていた。インスタントとは言え自分でコーヒーのお店を構える人が、そんなところでコーヒーを買ってくるわけがない。ということは、あの男の人は税理士事務所のほうの関係の人で、コーヒースタンドのほうとは関係がないはず。

 そうして僕が途々みちみち必死に裏付けてきた期待は、スタンドの前に辿り着いたとき、事実を前に脆くも崩れ去った。店内で(多分、椅子に腰掛けて)黄緑色をした表紙の雑誌をめくっていたのは、あのひょろっとした男の人だったのだ。


 一瞬固まってしまった僕を前にその人は、閉じた雑誌を窓の内側にあるカウンターに置きながら立ち上がると、僕を見ながら、とくに笑いかけもせずに「初めてですかね」と聞いてきた。

 僕のこと、気がついていないみたい。僕はほっとして答えた。

「そうです」

「システムは知ってます?」

「ノリさんから聞きました」

 じゃあいいか、と呟きながらその人はちょっとかがみ、足元らへんからノリさんが持っていたのと同じカードを取り出した。その人はそれを見て、次に腕時計を見て、最後にスマホをポケットから取り出して確認し、半ば独り言みたいな感じで「今月半分終わってるけど、どうします?」と聞いてきた。

「どうっていうのは」

 その人は顔を上げ、射抜くように僕を見て言った。

「割高になるけど大丈夫? ってこと」

「あ、そういうシステムなんですか」

 僕は即座に「いや、なんでもないです」と続けながらも思わず下を向いた。ノリさんの言った「今月分」というのは今日から1ヶ月という意味じゃなく、毎月の頭から終わりまでで固定という意味だったのだ。そして月の残りが半分だからといって半額になったりはしない。昨晩財布を確かめたときの希望的観測が両方外れただけ。

 でも、おそるおそる顔を上げたら、その人は無表情のまま、こっちじゃなく手元のカードを見ていた。それからその人はおもむろに枠の上半分にボールペンで大きくバツを書き、僕にそれを示しながら「じゃあ五百円で」と言った。

 思っていたより安くなってしまった。値段を決める権利はこの人にあるらしい。ということはこの人が店主なんだな。


 僕が言われた金額を払ってカードとペンを受け取り、カウンターで名前を書こうとしているとノリさんがやってきた。ノリさんは僕に気づくと妙にうれしそうに「おはようさん」と言い、店の前に着くなりすぐにカードを店主に手渡した。

 僕はノリさんたちの受け渡しの邪魔にならないようカウンターの端に寄ると、ノリさんと店主の顔を見比べ、少し考えてから、カードの裏側にノリさんよりは小さな字で「ゆうや」と書いた。

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