令和4年2月10日
あの、ダサい名前の税理士事務所の看板が見えるようになると、僕はもうそればかり見て歩いていたせいか、足元を見て歩いていたここ数日よりも道のりが短くなったような気がした。
コーヒースタンドの前で立ち止まり、店構えをじっくりと見る。店の名前と思しき文字はまったく見当たらない。顔を上げたり下げたりしていると、昨日のサラリーマンが歩いてきた。鞄の中を探りながら近寄ってくる。そうして例の妙に大きなカードを取り出して顔を上げた彼と目があって、僕は思わず「おはようございます」と言った。
急に気恥ずかしくなった。まだ会釈をする程度の間柄のはずなのに、昨日、彼がコーヒーを啜るのに勝手に合いの手を入れていたから、何度か話したことがあるような気になっていた。でも、彼はそれに「おはようございます」と返してくれて、僕の隣で止まるとコーヒースタンドの中を覗き込んだ。
「留守みたいなんですよね」
僕は、少し腰をかがめているその人の背中に、遠慮がちにのっけるように言った。
僕がきたときから、スタンドには誰もいない。留守にするなら閉めればいいのにと思ったけれど、男性は「そっかあ」と残念そうにいうと店を覗き込むのをやめ、例のカードを確かめた。
「なんかそれ、でっかくないですか」
「うん。でっかい」
男性が半笑いでカードを見せてくれた。灰色の、落書き帳の台紙に使うみたいな硬い紙の、ちょっとだけ薄いやつでできている。コピー機で作った感じの、黒いインクで日付のついた枠が書かれたカードだ。昨日の日付のところにはハンコが押してあって、本当にラジオ体操の出席カードに見える。
裏返すと、太い緑のペンで大きく「ノリ」と書いてあった。これが店の名前なのかなと思い、僕は顔をあげた。でもやっぱり、そういう文字は店のまわりには並んでいない。僕はカードを男性に返しながら、言った。
「なんかこれラジオ体操のカードみたいですよね」
「うん。名前も書かされるし……」
「ノリって店の名前じゃないんですか?」
ノリさんは、「眉毛が太いから」と言うとわざわざ前髪を上げてみせてくれた。確かに立派な眉毛だった。
「この店ね、最初に来た日に今月分の代金払うんですよ。そしたらこの出席カードくれる。開いてる日に毎日来たら1杯80円切るくらいの計算っす」
「やっす」
「インスタントって言ってたんで」
「マジっすか」
僕は店内に並んだエスプレッソメーカー(たぶん)などの道具を見た。変な店ですね、と続けようとしたそのとき、大きなエンジンの音が聞こえた。道のほうを見るとバスが近づいてきていた。
僕とノリさんは、慌ててバス停に向かった。走りながら僕は、後ろから来るノリさんに「あの店の名前知ってます?」と聞いた。店の名前で検索して、クチコミとかを見てみたかったので。
ノリさんは、でも、妙に楽しそうに「知らなあい」と言うと、颯爽と僕を追い抜かしていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます