ダサい名前の税理士事務所のコーヒースタンドの話
藤井 環
1/「僕」、高校1年生
令和4年2月9日
毎日通る道に、見慣れないものができた。
アスファルトで舗装された、緩やかな下り坂だ。ちゃんと縁石で段にした歩道があるから、バス停まで歩く僕は渋滞している車など横目にすいすい進んでいける。ただ最近は朝が寒くて、しかも前の晩が雨だったりして。日陰がもしかして凍っていやしないかと心配だったので、僕は少し歩幅を小さく、足元ばかり見ながら歩いていた。学校指定の革靴はただでさえ滑りやすいのだ。
それで今日まで気がつかなかったのかもしれない。バス停の少しばかり手前に、コーヒースタンドができていた。
スタンドの上を見ると、なんとも色気のない税理士事務所の看板が出ている。白地に黒の文字だけの看板。その事務所の道路沿いの窓を改造して、内側にたぶん一畳くらいの小さなブース。店内飲食はなくて、持ち帰りしかできないスタイル。道路側にはそのブースにつながる扉はないから、きっと税理士事務所の中からでないと入れない。ということはここの店主は税理士さんと知り合いなんだな、と僕は思った。なかなかの推理力な気がする。
にしても、このスタンド自体の名前はなんというのだろう。僕がバス停からそちらを見ていると、サラリーマンふうの人がやってきてスタンドの前で立ち止まった。いつもバス停で一緒になる人だ。
その人は鞄から、厚紙でできたカードを取り出した。よくあるポイントカードよりかなり大きい。たぶん、小学生のころ夏休みの朝に行かされた、ラジオ体操のカードくらいある。男性がそれをスタンドの中に差し入れた。何かしゃべっているようだけど、ここからでは聞こえない。少しして、店内からはカードと一緒に紙カップが差し出された。店員の腕が見えた。そういえばさっき前を通ったとき、店内の備品ばかり見ていて店員には全然気がつかなかった。
男性はまずカードだけを受け取ると大事そうに鞄にしまい、それからカップをもらって、飲み口をふぅふぅと吹きながらバス停までやってきた。僕がそっちを見ていたのに気がついて、男性はちょっと恥ずかしそうに「おはようございます」と言った。
僕は頭を下げた。このバス停でこの人と並んでバスを待つようになってもう半年以上だというのに、挨拶されたのは初めてだ。男性は「寒いですねえ」など言いながら道路のほうに向き直り、それからコーヒーを啜った。
そのあとバスが来るまで会話はなかったけれど、男性がコーヒーを啜る音が聞こえるたびに、僕は頭の中で相づちを打って、なんとなく男性と親しくなった気になった。
バスが来た。乗り込んで、いつもの一番後ろの席に行く。
振り返るとスタンドの上の看板が見えた。あらためて税理士事務所の名前を確認した。しみじみ読むとかなりダサくて笑ってしまったので、その名誉のために(あと僕の身バレを防ぐために)ここには書かない。なんで今日まで気にならなかったのだろう、もったいないことをした気がする。
遠ざかるそのダサい名前の看板の文字が読めないほど小さくなるころ、バスは信号で止まった。
前を向き直った僕は、明日はあのコーヒースタンドの名前を忘れずに見よう、と思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます