12.Diva(3)
人々が忙しく行き交う道の隅で、夢屋はいつものように小壜を広げていた。時おり子どもらが冷やかしにきて、七色の光に目を輝かせる。そうしているときの子らを見ているのがなにより幸せだった。
外套のフードを目深にかぶり敷物の端を見つめていると、小さな黒い靴がそこに立った。
顔をあげると、隣には見知らぬ青年がいた。
「やあ。きみがお客さまを連れてきてくれるなんて、珍しいこともあるもんだね」
「昨日、彼の小壜をわたしが割ってしまったの。だからお詫びがしたくて」
ドールは青年を紹介しようとするが、なにかに気づいて口を閉ざしてしまった。青年はドールに微笑みかけ、その笑顔のまま夢屋に手を差し出した。
「事情により名乗らぬ無礼、お許しください。よろしければ母の実家が帽子屋でしたので、ぼくのことも帽子屋と」
「わかりました。では、ぼくのことは夢屋とでも呼んでください」
夢屋はフードを払い、青年の手をとった。その瞬間、背筋がぞくりと震えるような悪寒が走る。ドールの手前、穏やかに振る舞いながら、夢屋は昨夜聞いた声を思い返していた。帽子屋はすべて見透かすように首を傾げて微笑った。
「昨日はどんな小壜を渡したの?」
ドールは敷物のそばにしゃがみ込み、小壜をひとつひとつ丁寧に見比べた。ドールにはどれもおなじように見える。
「そう、だね」
夢屋が昨日手放した小壜はたったひとつ、花籠を持つ少女に譲ったものだけだった。それがなぜ帽子屋のもとにあったのか、夢屋には知るよしもない。様子を見るためにも、ドールに話をあわせることにした。
「時おり淡いオレンジが強く輝く、この街の日差しによく似た光だったと思うよ」
おなじ人間が存在しないように、おなじ小壜も存在しない。夢屋は比較的似た小壜をいくつかドールへ渡す。そのなかからひとつ選んで、ドールは帽子屋に差し出した。
「どうかしら」
受け取った小壜を目の高さに掲げて、帽子屋は満足げにため息をつく。
「ああ、これはいい」
「ほんとう?」
「昨日の小壜よりずっといいものだよ」
「よかった」
ドールはほっと胸を撫で下ろし、夢屋に向き直る。
「ありがとう」
日ごろ表情の薄いドールの頬に、はっきりと喜びが浮かんでいた。夢屋は彼女のささやかな笑顔に眩しさを覚える。
帽子屋は小壜を陽に透かすようにして見つめていた。壜のなかの夢が光を受けていっそう輝く。だがその輝きが強すぎることに夢屋は気づいた。帽子屋の口が小さく動く。言葉は聞き取れなかったが、そのとき夢屋には夢の悲鳴が聞こえた。思わず立ち上がり、帽子屋の手から小壜を奪う。
「なにをしている。この子になにをした!」
道行く人々がなにごとかと振り返るのも構わずに、夢屋は声を荒げた。掴みかからん勢いで詰め寄る。ドールははじめて目にする夢屋の激情に戸惑っていた。夢屋をいさめることも、ふたりのあいだに立つこともできず、呆然と彼らを見ているしかできない。
帽子屋は夢屋にしか聞こえないような小声で低く笑った。
「なにって、ほんのすこし挨拶しただけですよ。きれいだね、って」
「そんなはずない。それでこんなに怯えるはず……」
夢屋は絞るようにそれだけを言って、続く言葉を噛み殺す。
通りがかりの恰幅のいい男が夢屋の肩に手を置いた。
「兄さんら、その辺でやめときなよ。かわいいお嬢さんがすっかり怖がっちまってるぜ」
夢屋は陽に焼けたぶ厚い手を見やって一歩さがり、申し訳ないと目を伏せた。
「悪かったね」
ドールの手をかるく握って、夢屋はため息をつくように力ない様子で微笑んだ。ドールは自分が思いのほか強く傘を握っていたことに気づかされるばかりで、微笑み返すこともできない。すぐに夢屋の手は離れていき、彼はまたいつものように敷物の端に腰を下ろした。フードを目深にかぶってしまうと、海のように青い瞳がなにを思っているのか、うかがい知ることはできなかった。
重苦しい沈黙をものともせず帽子屋は、そうだと声をはずませた。
「これから広場のサーカスを観に行こうと思うんだけど、きみも一緒にどうかな。チケットが一枚余ってるんだ」
小壜をジャケットにしまい、代わりにチケットを取り出した。ひらひらと振って、無邪気に微笑む。
「あ、わたしは……」
ドールは意見を求めるように夢屋を振り向いた。だが夢屋は顔をあげない。
「ねえ、夢屋」
「きみは自由なんだ。きみのしたいようにするといい」
「だけど……」
「サーカスを観たことはあるかい?」
夢屋の問いに、ドールは首を振る。夢屋はようやく顔をあげて、やわらかく微笑んだ。
「行っておいでよ。いい思い出になる」
「よし決まった。では行こう」
帽子屋はドールの手を引いて広場へ向かって歩き出す。ドールは大きな歩幅に合わせて小走りになりながら、何度も後ろを振り返った。夢屋はいつものように小壜のそばに片膝を立てて座り、石のようにじっとしていた。
傘の柄を握りしめて、前を向く。いまにもひび割れそうな彼の笑顔がまぶたの裏に焼きついて離れなかった。
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