11.Diva(2)

 河口近くの土手には、南から運びこまれた材木が並べられていた。良質で需要も多く、高値で取引される。商人らは人を雇って夜のあいだも警備させたが、大の男が十人二十人がかりで運んだ木材が万が一にも盗まれることはない。彼らは酒場の喧騒を遠く聞きながら、樽に腰をおろしてカードに熱中した。

 そのため、彼らは橋の下から聞こえる奇妙な音に気づかなかった。

 ざ、ざざざと、なにかが崩れる音がする。それは橋の下から聞こえていた。街灯の明かりも届かない暗がりで動くものがある。男だった。彼は土手の草地に座りこみ、手で土を掘っていた。両手の爪はほとんど割れて、手首まで泥と血ですっかり汚れていた。それでも男は掘ることをやめない。

 臭いを嗅ぎつけた野良犬がどこからかやってきて、男の背に向かって鋭く吠えた。低い声で唸りながら、いまにも男に飛びかからんとする。だが男が手をとめて振り向いた瞬間、犬ははじかれたように逃げ出した。

「どこだ……どこへ行った……。おれの、おれだけの……」

 口のなかで呟いて、男はふたたび土を掘る。

 走り去っていく犬の後ろ姿を見送って、夢屋は橋のたもとへと視線を向けた。潮と土と草の青いにおいのなかにかすかに腐臭が感じられる。夢屋は男のそばまで歩み寄り、顔をしかめた。

「いとしい、ひとしいひと……。誰にも、おれにも、手出しはできない。おれだけが、……ああ、いとしいひと……」

 譫言のように繰り返し、男は土を掘り返す。土のなかに何があるのか、男の体が邪魔をして夢屋からは見えない。だが息詰まるような、暑くもないのに汗がふきだすような、嫌な予感があった。目を細めると、煙のように揺らぐものがある。暗がりに慣れた目にも捉えづらい、暗いもやであった。波間が光るように、時おり闇が輝いた。まばたきにも見えるし、呼吸のようでもあった。

 夢屋は息をのんだ。もやは生きていた。それらはぶくぶくと肥え太った夢のかたちだった。

 男は掘る。土を、夢を、掘り続ける。とめなければと、夢屋が一歩踏み出したときだった。

 ひときわ強い風が吹きつけて、歩みを妨げるように夢屋の外套を乱した。びょうびょうと風が鳴る。砂から目を守ろうとして顔を伏せると、すぐそばに何かが寄り添う気配を感じた。

「きみにいったいなにができるというの」

 若い男の声だった。品の良い笑みを含んで、軽やかな春風のように囁く。

「ぼくらに救えるものなんて、なにひとつないんだから」

「なにを……」

 振り返るがそこには誰もいなかった。やがて風がぴたりとやむ。土を掘っていた男の姿はなく、黒いもやもすっかり消えていた。

 夢屋は穴を覗きこむ。血の臭いが濃い。だがそこには何もなかった。夢も、その残滓すら跡形なく、ただ暗い穴だけがあいていた。



 * * *



 早朝、まだ陽ものぼりきらないころ、仕事帰りの夜回りが酒を片手に歩いていると、さほど酔ってもいないのに足をとられてつまずいた。振り返ると女物の靴が片方、道に落ちている。不審に思って辺りを見渡すと、側溝に対の靴を見つけた。途端に彼は悲鳴をあげた。靴は落ちているのではなく、履かれていた。狭い側溝に体はぴったりおさまり、余った腕がはみ出て、大きく広げているようにも見える。首に巻いた赤いシルクのスカーフが、時おり風にそよいだ。

 街いちばんの歌姫は、もう歌わない。




 一角に人だかりができているのを見つけて、ドールは立ち止まった。話し声から誰かが亡くなったのだとわかる。ドールは集まった人々をひとりひとり確認して、やがて輪からすこし離れたところに探し人を見つけた。

 隣に立つと、青年はやあと帽子をあげた。

「ぼくになにか用かな」

「昨日、小壜をだめにしてしまったから、そのお詫びがしたいの」

「律儀だね」

「小壜の商人はわたしの連れなの。おなじものはないかもしれないけど、彼ならきっと良いものを選んでくれるはずよ」

「紳士かどうか、疑わしいのでは?」

 からかわれて、ドールは眉を寄せた。

「そうね、そうだったわ。ではわたしが選びます」

「それは頼もしい」

 青年は片方の肘をかるく張った。ドールはそこに手を添えて歩き出した。

 青年からは煙草や酒のにおいがしない。それだけではなく、体臭というものが感じられない。ドールは彼の顔立ちが自分と似ていることに気づいた。胸の奥がかすかに華やぐ。

「あなたも東から来たの」

「そうだよ。もうずいぶんこちらにいるけどね」

「戦場が近いから?」

「どうしてそう思うの。東にも、戦場に近い町はたくさんある」

 町の名前をいくつも挙げて指を折る。ドールは小さく首を振った。

「だってあなたからは、においがしないから」

 青年はドールを見下ろして、目を眇めた。

「へえ、そう?」

「むかし聞いたことがある。生来香りを持たない人々を集めて、中央は諜報部隊を作っていたって」

「よく知ってるね」

「幼いころに祖母から……」

「ぼくもその話は聞いたことがあるよ。でもそういった部隊があったのは、もう百年以上むかしの話らしいよ」

「そうなの?」

「きみのおばあさんだって、そのさらに上のおばあさんから聞いたような話のはずだ」

 青年は腰をかがめてドールの顔を覗きこむ。

「きみにはぼくがいくつに見える?」

 ドールは困惑を隠しきれず黙した。

「百歳以上のおじいさんに見えるかい?」

「見えないわ」

 よかったと、青年は胸を撫で下ろす。

「ぼくが国に帰らないのは、ただ帰りたくないからだよ」

 常に朗らかに話していた青年の声が、ドールには一瞬とても冷たい氷のように感じられて、帰りたい気持ちを話すことは憚られた。

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