10.Diva(1)

 あなたが来てくれてうれしいわ。




 女は艶やかに微笑んだ。真っ赤なシルクのスカーフを華奢な首に巻き、ステージの上で羽のように両腕を広げて歌う。

 小さな酒場に男たちの歓声があがる。手拍子が起こり求婚の言葉が飛びかい、店全体が彼女に酔いしれる。

 沸き立つ店の隅から男はステージを見つめていた。週に一度の彼女の出番を楽しみに、日々休むことなく港で荷運びをしている。つらい仕事ではあったが、身寄りがなく学もない男には他にできることもなかった。毎日同じことの繰り返しで、肌を刺す太陽が疎ましくなる日もあった。それでも彼女のことを思うと乗り越えられるのだった。

 男は彼女と目があった気がしていた。否、たしかに通いあったと、男は胸を高鳴らせる。

「すてきな歌ですね」

 そばにいた若い男が呟いた。女のように白い肌をした、育ちのよさそうな青年だった。そのくせ不思議と場末の酒場にいても違和感がない。年若い服装や顔つきに似合わず、彼の眼差しは暗く黒い。光を排除したその瞳が、酒場に渦巻く日常の狂気とひどくなじんでいた。男は奇妙に感じて眉をひそめた。

「あんた、この街ははじめてか」

 男の問いに、青年はにこやかにうなずいた。笑うと八重歯がのぞいて急にあどけない顔になる。酒も手伝って、男の警戒心はすぐに取り払われた。

「いい歌だろ。彼女はディーバだよ。だれにも穢されない、歌姫だ」

 自分のことを褒められたように男は得意げに胸をそらす。

「へえ。彼女をあいしているんだね」

「この街の男はみんな、彼女の歌で女を知る。愛して当然だ」

「そんなにあいしているなら、自分だけの歌姫にしたいとは思わないの」

「なんだって」

 思わず酒壜を取り落しそうになる。男はあらためて青年を上から下まで見やって、鼻で笑い飛ばした。

「ばかなことを言うな。彼女は誰のものにもならねえんだ」

「ほんとにそう思ってる?」

「何が言いたい……」

 青年は暗い瞳を細めて口を歪めた。

「彼女と目があったでしょう」

 嘘やごまかしを知らない男は返す言葉なく黙り込む。酒でほてった背中に寒気が走る。その瞬間全身から力が抜けて、立っていられなくなった。持っていた酒壜が床で割れて、薬品のようなにおいが広がる。飲みすぎたのだろうか、体のどこかが悪いのだろうか、男は考えを巡らせるがどれも心当たりはなかった。

 視線だけを天井へ向ける。灯りが届かない薄汚れた天井は、夜の海のように暗く黒く揺れていた。その景色のなかに、青年がぬっと顔を出す。男は悪寒に震えながら青年へと腕を伸ばした。

「あんた……おれに、なにを」

 問いかけても、青年は人差し指を唇に当てて笑うだけだった。男の意識はそこでぷつりと途絶えてしまう。

 だがそれに気づくものはない。誰も青年の姿を気に留めない。

 まるで、そこには誰の姿もないように……。




 獣の爪のような三日月が浮かぶ夜だった。

 街いちばんの歌姫は姿を消した。



 * * *



 陸と海の交易路を結ぶ港街は、昼夜を問わず人であふれかえっていた。大小さまざまな商船が港に並び、蟻の行列のように荷が運び出されていく。多くの商館がひしめきあい、さまざまな言語で取り交わされるやりとりは何かの呪文のようだった。

 逞しい男や威勢のいい女が行き交うなかに、ひとり異なる風情で佇む少女の姿があった。黒い服に身を包み、日よけの傘を白い手で差し、涼しげな眼差しでじっと海を見つめていた。荷運びをする少年は、真っ黒に焼けた自分の肌と見比べながら、まるで人形のようだと思った。

 少女は小さな口をすぼませて、ひとつため息をついた。少女は迷っていた。

 つい先ほどのことだった。旅の連れは道端へ小壜を並べながら言った。

「ねえ、君の願いは故郷へ帰ることだったね。この港から船に乗れば、半月かからないけれど、どうする?」

「そうね、はやく帰れるのは嬉しいわ」

「うん、だったらここでお別れだね」

「どういうこと。あなたは来てくれないの」

「ああ」

 フードを目深にかぶってしゃがみ込んだ夢屋の顔は、少女からは窺えない。彼の声は煙のように儚く、声だけでなく姿まで街の喧騒に掻き消されてしまいそうだった。

「僕は、ここから離れられないから」

 夢屋はそう言って、海のように青い目をやわらかく細めた。

 しばらく考えさせてほしいと告げて、黒のドールはひとり港へ向かった。そしてぼんやりと動く景色を眺めている。

 故郷へ帰りたい。その思いは嘘ではない。目の前に広がる海原は郷愁をいっそう強くする。だがいつしかドールにとって、夢屋と過ごす日々もまた捨てがたいものとなっていたのだ。突然どちらかを選べと言われても、そう簡単に答えは出ない。

 ここから離れられないと彼は言った。ここ、とはどこを指すのか。いくつもの街を通り過ぎてきた。街や国を指すものとは思えない。彼はドールに海を見せると、故郷へ行こうと言ってくれた。出来もしないことを約束するようなひとではない。

 目眩のようにぐらりと、信じたい気持ちが揺らぐ。ドールは足元に落ちる影を見つめた。

「ここ、って……?」

 出港する船が汽笛を鳴らす。そのときドールはすぐ隣に誰かが立っていることに気づいた。その気配に夢屋かと思い顔をあげると、人違いだった。

 落胆が顔に出たのか、隣に立つ男は困ったように微笑った。

「すみません、驚かせてしまいましたね」

「え、ええ。わたしのほうこそ、連れと勘違いしてしまい」

「悪いのはぼくのほうです。レディの隣に無言で立つなんて無粋なことをしました。許してください」

 青年は中性的な笑みを見せ、かぶっていた帽子をわずかに傾けた。ドールとおなじように黒い髪が陽の光に濡れている。

「誰かを待つふうではなかったので、気になってしまって。でもあんまり美しいから声をかけていいものか迷ってしまい……、そうこうしているうちに結局あなたに気づかれてしまった」

 話してみると、見た目よりずっと若々しく親しみやすい人物だった。笑うと愛らしい八重歯がのぞく。

 小さくなっていく船影を眩しげに見送りながら、青年は聞いてもいいですかと訊ねた。

「なにか思い悩んだ様子でしたが」

 ドールは恥じらいを押し隠して静かに返す。

「よくわかるのね」

「そんな、怒らないでください。あなたのように美しい人を見つめてあれこれ思いを巡らせるのは男の楽しみのひとつなのです」

 こほんと小さく咳払いをして青年は続ける。

「こうやってお話をしていただけているということは、その、ある程度期待をしてしまうのですが」

「けれどあなた、別にお困りではないでしょう」

「そういえば先ほどお連れがいらっしゃると」

「わたしの話を聞いていて?」

 呆れたドールは傘をあげ青年を見上げた。それを待っていたように、青年は笑窪を見せる。

「どんな方なのですか。あなたほど美しく聡明な女性が選んだひとだ。きっと素敵な紳士なんでしょう」

「紳士……。どうかしらね」

 先ほどまで胸を占めていた不安が苛立ちをつれてよみがえってくる。

「とは?」

 青年の心地よい声に促され、ドールは短く息をついた。

「とても優しいひとよ。誰に対しても等しく親切で慈悲深くて、心から尊敬してるわ。身なりに無頓着ですこしだらしないところはあるけれど、それも愛嬌に思えるくらい。でも時々、彼がなにを考えているのかわからなくなる。それにわたし、彼のことはなにも……」

 ふと喋りすぎたことに気づいてドールは口を噤んだ。いくら気持ちが沈んでいたからとはいえ、行きずりの話し相手にするようなことではない。

 いや、行きずりだからこそ気持ちが緩んだのかもしれなかった。

 日傘の縁、視界の隅で輝くものがあった。見やると青年が七色の小壜をかざしていた。

 よく見知った、夢の小壜だ。

「先ほど街で見かけましてね。夢が詰められているそうですよ。子ども騙しだとしても、素敵でしょう」

 青年が小壜を差し出す。受け取ろうとすると互いの指が触れて、ドールはとっさに手をひいた。はずみで小壜が落ちて割れる。

「ごめんなさい」

 薄い硝子は星屑のように粉々になり、七色の光は霧散して跡形もない。まるではじめからなにもなかったかのようだ。ドールは夢屋もまたおなじように自分の目の前から消えてしまうように思われた。

「ああ、もったいない」

 青年がしゃがみこんで小指の爪ほどの破片を拾いあげる。足元に腕が伸びてきて、ドールは思わず後ずさった。

「お怪我はありませんか、レディ」

「ごめんなさい、わたし……行かないと」

 どうにかそれだけを言い残して、ドールは駆けてその場を去った。

 膝や裾についた砂埃を払い、青年は立ち上がる。ドールの姿を目で追うが、やがて人混みにまぎれて見えなくなった。

 夜の海のように暗い瞳をゆっくり細めて、彼は指先につまんでいた硝子の破片を手のなかに握りこんだ。血と、七色の光がこぼれてくる。それらを洩らさず飲みこんで、

「ほんとうに、もったいないことをするなあ」

 どこまでも朗らかに誰にともなく呟いた。

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