09.Divine【interlude】
どこにもあるような街角で立ちどまり、少女は夢を見ているのだと悟った。道先にも来し方にも、薄灰色の建物にも狭い路地にも、少女以外の人影がない。それでも街は、少女が夢と気づく一瞬前まで賑わっていたような気配を漂わせて在った。
空には薄雲が広がり、陽光はほとんどが遮られていた。ときおり雲が厚みを増して、陰影を帯びる。地上は薄暗さに包まれたが、光は雲を縁どりながらささやかに煌めいていた。
暑くもなく、寒くもない。熱くも冷たくもない、肌触りだけの風が吹きぬけていく。黒く長い髪は風に流されたが、少女は気にとめることなく街に佇んだ。
風の囁きに耳をかたむけ、空が揺らめくだけの世界を眺め、太陽に愛されたにおいを吸い込み、少女は建物の壁に触れた。触れようとした。しかし指先が届く手前で、薄灰色の建物は砂のように崩れてしまう。
少女は驚いて腕をひいた。ややして砂煙が晴れると、建物は人為的に破壊されたようないびつさを伴って、その場に残った。屋根はなく、壁は膝ほどまでしかなく、壊れた家具や千切れた絨毯などがあらわになる。土やいのちの焼けるにおいがした。生きている少女を嫉妬して、奥深くへ染み入ろうとする。少女はとっさに手で口元を覆ったが、胸の底には煤が吸いついた。
遠く、爆音が響く。風に乗って運ばれてくるのは、硝煙のにおいだ。空は次第に赤黒く濁って、黒い雨が降った。
街並みは雨に濡れて、真実に染まっていく。幻想が洗い流され、あるべき街の姿が広がった。
そこは戦火の街だった。建物は崩れ落ちて、道は燻って、いのちは燃やし尽くされた。叩きつけるような雨音に混じって、銃声が聞こえてくる。人とも獣ともつかない声があちこちから上がる。少女は戦いと日常の境界で、狂気の淵を覗いた。
頬に雨のひとしずくが落ちる。冷たい雨は頬で溶けて、涙のように伝っていく。
泣いている。夢が泣いている。世界が怯えている。救いを求めて喘いでいる。頬を濡らすのは雨でなく涙だった。少女の涙ではない、世界の涙だった。
少女はスカートの裾を持って走りだした。無意識のうちに、彼の姿を探していた。穏やかな潮騒を、嵐の夜を、留まることないいのちの鼓動を、海原の青さで微笑むあの眼差しを、どこか頼りなさげな優しい声を、振り返れば消えているかもしれない儚さを、触れると強く握り返してくる大きな手を、少女はでこぼこの道に足を取られながら探し求めた。
名を呼ぼうとするが言葉にならない。叫びをあげようとしても声さえ出ない。少女は静かな慟哭を上げながら、空を仰いだ。
赤黒く渦巻いていた空から、一条の光が差す。淡雪のように白い、おぼろげだがたしかな光だった。雨が浄化され、輝きが降り注ぐ。澄んだ氷の結晶のように、虹を閉じこめた雨粒のように、しずくは七色に煌めいた。
少女は嗚呼とこぼして、彼の名を呼んだ。
ぱち、ぱちりとはぜる薪の音に、黒のドールはふと目覚めた。あらためて、夢を見ていたことを知る。重い瞼をゆっくり押しあげると、寝台で毛布にくるまっていた。いつのまに眠ってしまったのだろう。いつ寝台へ横になったのか思い出そうとするが、どんなに記憶を遡ってもそんな覚えはなかった。
ドールは夢屋の帰りを待っていた。窓から染み入る冷たさと暖炉から滲むぬくもりに挟まれて、雪の降る景色を眺めていた。帰ってきた夢屋は隠しきれない疲れを見せながらも、ドールへ笑いかけてくれた。
思いどおりにならない瞼をこすり、窓辺を見やる。そこには夢屋の帰りを待っていたときのドールのように、降り続ける雪を見つめる彼の姿があった。
窓の外に広がる景色は眠る前とほとんど変わらず、あれからどれほど時間がたったのかわからない。ドールは毛布に顔をうずめたまま、夢屋の横顔へじっと眼差しを向けた。
黙っているときの彼は、端整な顔立ちも相まって酷薄な印象があった。生命の息吹を知らない、氷に閉ざされた大地のようなさみしさだった。肘掛けに頬づえをつき、怜悧に細められた瞳の青さが、彼の心をいっそうわからなくさせる。
心だけではない。ドールは夢屋のことを何ひとつ知らない。夢の小瓶のことも、彼がときおりひどく傷ついて帰ってくる理由も、あの日彼が語った夢や闇の正体も、ドールは何も知らない。
彼は一体、何ものなのだろう。
人なのかさえ、わからない。なにかしらの悪魔のたぐいなのかもしれないと、何度か感じたことがある。普段は微笑みのしたに隠されているが、人ならざるものの神秘と狂気と威光が彼にはあった。
だがドールはそのことを彼へ問い詰めることはしない。問いが意味を持たないことを、ドールは肌で感じていた。
ただ彼を傷つけるだけ、と。
「そこ、寒いでしょう」
突然の呼びかけにも驚くことなく、夢屋はドールを振り返った。
「起きたんだね」
やわらかな、綿雲のような微笑みを浮かべる。
彼に嫌われるのは構わない。ただ、夢屋の心に嫌悪や憎悪の気持ちを芽生えさせることを、ドールは嫌った。
夢屋が神だろうと悪魔だろうと、ドールにはどちらでもいいことだった。彼はドールをあの場所から連れ出してくれた。海を見せると約束してくれた。それまで一緒にいようと微笑んでくれた。それだけでドールには充分だった。
ドールは毛布から腕を出して、夢屋へと差しのべた。夢屋は寝台へ腰かけて少女に手を重ねる。彼の指は少し汗ばんで、ひどく冷えていた。
「氷みたいね」
「君は、赤ん坊みたいにあたたかいよ」
夢屋はドールの手を頬へ寄せて、目を細めた。ドールは彼の薄い頬を撫で、いのちの在り処を探す。
いつか、彼と離れる日が来るだろう。それまでに彼の氷をすべて溶かすことはできるだろうか。
「夢を見たわ」
「どんな」
同じ毛布にくるまって、目を閉じる。彼の腕に抱かれていると、生まれる前から彼を知っていたような気持ちになった。
骨まで冷えきった胸元に口づけて、ドールは吐息で呟いた。
「神様が、微笑む夢よ」
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