13.Diva(4)
夕景が潮のように引いていく。砂粒のような星が紫色の空に灯りはじめる。夜の波はもうそこまで寄せていた。
小さな家の裏手から、潮騒にも似た、ざざ、ざざざと土を掘る音がする。夢屋はそちらへ足を向けた。
それほど広くない庭だったが、地面という地面すべてが掘り返されていた。黒々とした土の下には、なにが埋まっているわけでもない。
明かりのない暗がりで蠢く影がある。橋の下で見た後ろ姿だった。あのときとおなじように、あたりには暗いもやが漂っている。
夢屋は掘るひとの背後に歩み寄り、肩に手をのせた。
「もうやめたほうがいい」
「はなせ、はなしてくれ……。おれは、おれの歌姫を……」
黒いもやが時おりきらめいて、熟れすぎた実のようにはじけて消える。
「きみの夢は、もう息絶えようとしている。このままでは彷徨うことになるぞ」
強く肩を掴んで揺さぶる。その肩がぐにゃりと歪む。夢屋はとっさに手を離した。
「おれだけのものにしたんだ、彼女はおれだけを見た……。あのときたしかに、たしかに……」
そう話す男の声が水のなかで聞くようにぼやけていく。すぐにも男は言葉を失い、ふたたび掘るばかりになった。
黒いもやに手で触れる。夢屋は思わず舌打ちをもらした。もう、間に合いそうにない。
強い風が庭木を揺らす。
「あなたが来てくれてうれしいわ」
すぐそばから、若い男の声がした。聞き覚えのある声だ。夢屋は振り返り、彼をきつく睨みつけた。
「帽子屋」
「歌姫の決まり文句だったらしい。なんとも陳腐だね」
昼間とは打って変わって闇になじむ黒い軍服を着て、帽子屋は青白い肌で微笑っていた。
「なにをした。彼になにを」
「それを知って、きみになにができるというの。言ったろう? ぼくたちに救えるものなんてないと」
帽子屋は夢屋の隣に立ち、口を歪めた。
「夢を売る夢屋、か。ふざけたことを」
帽子屋が指を鳴らすと、男の体から黒い炎が吹き出した。夢が断末魔の悲鳴をあげる。耳を塞ぎたくなるほどの声だった。夢屋は声から逃れるすべを持たない。ただじっと耐えるしかなかった。
「我々は回収係だ。すこしでも多くのいのちを回収することが目的だろうに、きみはなぜ小さな光のまま壜なんかに詰めて人へ渡してしまうんだ。こうやってなにもかも燃やし尽くせば、何倍、何十倍もの力を得られるというのに」
帽子屋の手には黒い塊があった。人の頭ほどの大きさをしている。はじめは綿のようにふわふわとしていたが、次第に石のように硬く凝縮していき、拳に収まるほどになった。帽子屋はそれを嬉しそうに飲みこんだ。
「歌姫を自分のものにできたらいいのに。ぼくはその願いを叶えてやった。それのなにが悪い」
「だが一歩間違えれば彼の夢は狭間で彷徨い、生きることも死ぬこともできなくなるところだった」
「そんなへまはしないよ。もうすっかり慣れたからね」
「あれほどまで追い詰める必要がどこにある」
「そのほうが夢は肥える。人間の夢も欲も、際限がない。あれが叶えば次はこれ。これが叶えば、……あんただってよく知ってるだろうに」
夢屋は黙るしかできない。帽子屋の言うとおりだった。それでも、という一言がこみあげてくるものの、言葉にするには至らない。
男の体は泥人形のように輪郭を失い、みるみる崩れていく。黒い炎はやがて空を映した青へと変わり、実体のないまま草木に広がった。庭木は立ち枯れ、花は凛としたまま色褪せていく。
「戦争で多くのいのちが散っている。そのすべての夢を回収することは不可能だ。だが死者の数に見合うだけの夢を集めなければ、この世界は争いに呑まれてやがては滅びるだろう。人が生きて夢を抱く限り、ぼくらが死に脅かされることはない。これは共存共栄の道だよ」
あたりはすっかり青い炎に包まれていた。異変に気付いた人々が家のおもてに集まりはじめる。帽子屋はその様子を察して、つまらなさそうにため息をついた。
「じゃあ、そろそろ行こうかな。また会える日を楽しみにしてるよ、先輩」
もう一度指を鳴らすと、青い炎が実体を得て赤くなる。あたりは一瞬で火の海になった。
「きさま……!」
それまでこらえていたものが堰を切ったようにあふれてきて、夢屋は声を荒げた。
「無理やり奪うだけでなく、こんな使い方をして許されると思うのか!」
「だったらあんたがあのドールを守るために行使した力はどうなんだ。ぼくとどう違うっていうんだ」
突風が帽子屋を押し包み、どこかへ連れ去ろうとする。
「ああしなければ彼女を守れなかった。だが貴様はただ壊しているだけだ! いのちのある世界を、……おれたちにはもう決して望むことができない世界をいたずらに掻き乱しているだけだ!」
風と炎が重なって唸りをあげる。外套がばさばさと音を立ててひるがえる。夢屋はフードの縁を掴んで熱風から目を守った。薄くひらいた視界の先で帽子屋の口が動く。一段と強い風が上空へ吹き上げて、それとともに帽子屋は姿を消した。
残された夢屋は帽子屋の唇をなぞって呟いた。
「偽善者、か」
乱れた外套の前をあわせて、夢屋もまた煙のようにその場をあとにした。
***
食事を終えて部屋へ戻ろうとしていたところ、火事だという叫びにドールは足をとめた。男たちが駆けつける先を見やると、煙があがっていた。
つられてそちらへ歩き出す。近づくほどに胸の奥まで煤けるような臭いが鼻についた。
「危ないから下がってろ」
そう言われて、他の男より一回り細身の男が輪から押し出された。薄汚れた外套が重たげに揺れる。ドールははじかれたように駆け寄り、腕を支えた。
「ああ、きみか」
ありがとうと言い添えて、夢屋はすぐにドールから離れる。よく見ると髪は汚れ、顔や手はかるい火傷を負っていた。
「けがを」
「そうだね」
夢屋はため息をつくように微笑んで、傷をそっと撫でた。指のあいだから七色の光がこぼれて、次の瞬間にはもう火傷はすっかり消えていた。
前にもおなじようなことがあったとドールは思い出す。あれは彼に助けられた日のことだった。あのときも彼の体からは七色の、小壜に閉じ込められたものとおなじ光が舞い散っていた。
ドールはその光景を美しいと思う。同時に、胸に秘めていた問いが口をついた。
「あなたは誰。何ものなの」
「ぼくは……」
夢屋はその先を言い淀み、ドールから視線をそらした。冷たい寂しさを秘めた目で燃える家を見つめて、平板な声で言った。
「ぼくは夢屋だよ」
翌朝ドールは夢屋に陸路を行くと告げた。夢屋はその決断に、そうかと小さくうなずくだけだった。
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