06.Disorder(1)
蝶番を軋ませて、屋敷の門が閉まる。男は二階からそれを確認して、灯りを吹き消した。杖に体重を乗せながら、寝台までの短い道のりを歩く。日に日に、その距離が遠く感じられた。
ようやく寝台に腰を下ろし、ふうと長い息をつく。背中は汗をかいているが、体の芯が凍えるほど寒い。男はまだ黒々とした髪をかきむしって、呻き声を洩らした。
「まだ……、まだ死ぬものか」
呟きは誰に聞かせるものでもない。あえて言うなら、それは神へ。
「俺にはまだ、目指す場所が……」
心の中に描くのは、まだ見たことのない、最果ての草原。旅人らが話す、この世の楽園だ。視界一面の草原と、それを押し包む高い空、そして乾いた風が我がもの顔で吹き荒れるという。
誰にもわからない死後の楽園より、確かに存在するこの世の楽園を、一度でいいから見てみたかった。
窓は月明かりを受けてほの白く輝く。窓越しの夜空には、光のつぶてが散りばめられていた。
男は世界の煌めきに心で唾を吐きかけ、眠りについた。
西の帝国と東の王国は、戦争という形でしか交わることがない。有史以来戦いが途絶えたことはなく、両国の間に広がる大砂漠は、常に血で濡れていた。
だが、終わらない戦争を嘆く者は、この街にはいない。
戦争により、多くのものが失われる。失われたものは補充せねばならない。戦争が続く限り、喪失はとまらない。いつまでも、街は繁栄のただ中にいられる。そうやって物が集まり、人が集まり、やがて競争が生まれた。それは内地の戦争と呼ばれた。
男の父は、その競争の勝者だった。彼は物を作ったわけでも、仕入れたものを工夫して売ったわけでもない。そのための資金を人に貸し付け、莫大な利益を生み出した。今では街の投資まで請け負っている。街の実権は、彼らにあった。
街の人々が彼らに逆らうことはない。いつもにこにことして、頭を下げる。だが裏では金売りと蔑視されていることを、男は知っている。だから屋敷を出るときは、決して馬車からおりない。
媚びへつらう声も、罵る声も、できれば耳にしたくない。
政庁への道すがら、馬車の小さな窓から街を眺める。変わらぬ活気に、心が躍る。もしもこの家に生まれていなければと考えることがある。もしそうであったなら、きっと自分は靴を作る職人になっていただろう。店先で靴を修理する職人を見かけては、その魔法のような手さばきに憧れた。
街の大通りに並ぶ店を、男はすべて把握している。もちろん貸し付けている金額も期間もすべて頭の中に入っている。
男は首を捻った。
いましがた通り過ぎた道端に、見たことのない露店があった。店主は汚い外套をかぶっていて、顔が見えない。特別に目立つところのない、むしろ景色の中に溶け込んでしまいそうな地味で希薄な存在だ。
だが見過ごせない。見過ごしてはいけないと強く感じた。
男は急かされるようにして、御者に戻るよう命じた。
露店の前で馬車を停め、小さな窓から見下ろす。地面にじかに敷かれた布は端がほつれ、元の色すらわからないほど汚れていた。その上に並べられているのは、小さな硝子瓶だ。大人の男の手にすっぽり隠れてしまうほどの大きさで、どれも空っぽのようだった。
男は店主の顔を覗こうとするが、外套が邪魔になってわからない。仕方なく、扉を開けた。
「おい」
男の呼びかけに、店主が顔を上げる。男は思いがけず息をのんだ。
泥だらけの汚れた外套から、穢れなど寄せつけない、澄みきった泉のように清廉な面差しが覗く。美しいと形容することは簡単だった。だがそれだけでは言い表せない、神威の美しさがそこにあった。
特に、目だ。
透徹とした青天の瞳に釘付けになる。まだ若い、二十歳そこそこの青年だ。
「ご入用ですか?」
青年は青い瞳を細めて、首をかしげた。少し癖のある金髪がやわらかく揺れた。男は馬車の中から、杖で小瓶を指した。
「小瓶屋か」
「いいえ」
「他に売り物があるようには見えないが」
狭い敷物の上に目を滑らせる。だがどんなに目を凝らしても、小瓶と青年以外は何もない。
青年はふっと口元をゆるめた。
「僕は、夢屋です」
「なんだって?」
男は笑い飛ばしながら訊き返した。しかし青年は嘲笑を嘲笑と知らぬ素振りで、笑顔をこぼした。
「夢を売っています。お代をいただくことは、まあ、ほとんどないんですが」
顔立ちのわりにしっかりとした手で小瓶をつまみ上げ、青年は男の方へ差し出すようにして掲げた。
「あなたも夢をご入用ですか」
青年が嘘をついている様子はない。話しぶりも滑らかで、薬物をしている風でもない。彼はいたって正気なのだ。
男は眉を寄せて笑いを浮かべた。
「夢、ね」
「今ならまだ、あなたの夢をお渡しできますよ」
伏し目がちになって静かに言うと、青年は小瓶を軽く振って、人差し指で小さく弾いた。男はしばらく瓶の中を見つめていたが、一向に変化はない。
「ふん、子供騙しか。面倒が起こる前に忠告しておいてやろう。ここはガーランドの仕切りだ。奴らに見つかる前に引き上げた方が――」
男は目の前に差し出された小瓶を見て、続く言葉を失った。
小さく薄い硝子瓶の中に、七色の風が揺らめいている。小魚の群れのように束になって、風は輝いて光になり、素早く駆け巡っていた。小さな瓶の世界で、光は生きて、意志を持っている。輝きは子どもらの笑い声のようで、透けていて軽やかであるのに、確かな存在感があった。
小瓶越しに、青年がにこやかに微笑んだ。
「あなたの夢の、かけらです」
「俺の夢? これが?」
男は口を歪めた。
「ずいぶんと気遣い上手な手品だな」
「手品……ですか」
青年は乾いた笑いをもらして、指先で額をかいた。
「まあ、証明のしようはないんですけどね」
「手品の仕掛けを訊くような、無粋な真似はしない。安心しろ」
落とさないようにと、いつもは杖を強く握るが、小瓶を眺めていると、不思議と体が軽くなり、全身から無駄な力が抜けていった。幼いころ、まだこの脚が動いていたときに感じていた自由が、小瓶から溢れて、男につかの間の夢を与えてくれた。
「いくらだ」
「え」
「それをもらおう。いくらだと訊いている」
「お代はいりませんよ」
「そういうわけにはいかない」
男は青年を手招いて、手のひらに紙幣を握らせた。
「とっておけ」
「強情な人ですね」
「こちらの台詞だ。いい思い出ができた。礼を言う」
「はい」
苦笑した青年は、男の手に小瓶を乗せて、その上から優しく手を重ねた。
「あなたが夢を忘れない限り、この小瓶はいつまでもあなたのそばに在りますよ」
冷たい手だった。体温を感じさせない、蝋人形のような手だ。だが、真綿のようにやわらかい。その心地よさが、男の胸のうちに温もりを生んだ。
「そうだ。名は何という」
そばを離れ、店じまいを始めた青年の背中に声をかける。青年は肩越しに振りかえって、朗らかに微笑んだ。
「夢屋です」
「いや、そうではなく……」
「夢屋と、呼んでください」
そう言って、夢屋は念押しの笑顔を見せた。
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