05.Ding
太陽の光が肌に痛い。暑さはとっくに飽和している。乾ききった喉は縮こまって細くなり、ただ息が洩れるだけだった。唾はおろか、もう汗すら出てこない。それでも男は、動かない足を引きずって歩いていた。
視界のすべてを埋めるように砂漠が広がっている。影が真下にしか出来ないと、自分がどちらを向いているのかもわからなくなった。
所属していた部隊は、東の攻撃により壊滅状態となった。父から譲り受けた短銃は、爆風で吹き飛ばされたときに手から離れた。目で追おうとしたが、重たげな黒い煙に遮られて見失った。そして意識も失った。
次に目覚めたとき、砂ばかりの世界は静けさに満ちていた。すぐそばに落ちていた無線機に話しかけたが、砂嵐のような雑音が聞こえてくるだけで返答はなかった。辺りには敵の気配すらなかった。
味方だけではない、敵からも見捨てられたのだ。
捕虜として生き延びることも叶わない。忍ぶ恥すら持たせてもらえない。男には死との境目が見えなくなった。
砂漠は炎に焼かれて黒くなっていた。舞い上がる灰で空は翳り、それがどこまでも続いている。せめてこの大砂漠から出ようと決めた。
体の半分は、もう自分のものとは思えなかった。腕はあらぬ方へ折れ曲がり、脚には繋がっている感覚すら残っていなかった。
大砂漠の太陽は大きく居丈高で、力強くはあるが乱暴だった。男が長く親しんできた北の太陽とは、似ても似つかない。太陽とは、癒しであり救いであり、かけがえのない愛情を教えてくれる存在だった。
太陽が男の体を押し潰そうとする。じわじわと削がれていく。
男はふと立ち止まり、足元を見下ろした。
いったい何が削がれているのだろう。
これ以上、何を削ぎ落とそうというのか。
ここにはもう、何もないではないか。
体を支えていた棒切れが、砂を捉えきれずに滑った。膝は力なく崩れて、男は人形のように無抵抗に砂の上に倒れた。
爪の間に挟まった砂が無性に気になったが、どんなに指を動かそうとしてもうまくいかない。せめて手を引き寄せようとしたが、鎖で繋ぎとめられたように微動だにしなかった。様子を見ようと目を開いても、視界は掠れて色しか見えない。かろうじて空と砂漠の境界だけがわかる。無常の地平線は、故郷の銀世界とよく似ていた。
帰りたい。故郷へ帰りたい。
男は声にならない呻きを洩らした。更に声を出そうとすると、口端から粘ついた液体が流れた。鉄錆のにおいが強くなる。口からこぼれた血は、胸の奥から溢れてくるようだった。えずくだけの力もなく、体の中から、体を構成していたものが逃げ出していく。砂の上は赤黒く滲んだ。
「か……え、り……」
もし世界に神が存在するのなら、どうか願いを聞き届けてほしい。
育った町へ帰りたい。ただそれだけなのだ。だがそれすら叶わないのなら、せめて最期にあの銀世界を。
突風が砂の表面を撫でるように駆け抜けていく。舞い上がった砂が乱反射して七色に光った。
砂粒の一つ一つが、男の肌に優しく触る。まるで生きているようだ。男は目に砂が入るのも気にとめず、重い瞼を押し上げた。砂粒は太陽に透けて輝いている。
雪だ。男は口の中で声をあげた。
冴えた夜空のもと、真っ白な雪が積もった丘は、世界中の光を集めたように、ささやかに、だが確かに輝いていた。吐く息は綿のように白く、見つめ合う鼻先は赤く染まった。繋いだ手は雪のように儚く、冷たかった。
雪を踏みしめるときの、軋むような音が好きだった。耳が凍るような寒さが大嫌いで、でも息詰まるような朝の冷たさは嫌いじゃなかった。雪かきの仕事は苦手だったが、弟たちのために雪人形を作るのは得意だった。白い服は寂しげで着なかったが、世界が真っ白に輝く瞬間は自分も真っ白になった気がした。
「嗚呼」
男は感嘆をもらした。見開いた瞳から、涙が一筋流れ落ちた。頬から伝わる雪の冷たさは、男の夢を開かせた。
滲む視界に、ぼろぼろの革靴が見えた。男は人影を辿って見上げて、息を呑んだ。そこには、やわらかな金色の髪を揺らして、神が立っていた。
男は心のうちで問いかける。あなたは神なのか、と。神は真っ青な海のような瞳を細めた。
「どうだろう。君がそう望むなら、それもかまわない」
あなたは私をどうするつもりだ。私は死ぬのだろうか。ひとりになるのだろうか。
「そうだね。もう君の夢は君から離れてしまった」
端整な顔を歪めて、神は苦悩をもらす。
「でも、ひとりじゃない。大丈夫。消えないよ。君のそばにはいつもあるから」
何がと問いかけようとして、男はやめた。
全身に穿たれていた痛みが跡形もなく消えている。呼吸も楽だ。肉体という生命の檻から解放されたのだと、男は悟った。
どこからともなく、教会の鐘の音が聞こえる。目を閉じると、あるはずの闇は白い光に包まれていた。
「ただいま。帰ってきたよ!」
男は見慣れた扉を開けた。
* * *
窓に浮き出た水滴を拭き取り、外を覗く。灰色の雲からは真っ白な雪が降り続いた。窓越しにも冷たさが伝わる。生まれて初めて見る雪は単調で、単一で、それでも飽きのこない不思議なものだった。黒のドールはすぐに曇る窓を何度も拭いて、降り積もる雪を眺めた。
部屋の扉が、前触れもなく開く。
「ただいま」
声に振り返ると、頭や肩に雪を乗せた夢屋がいた。髪は濡れ、耳や鼻は真っ赤になっていた。
「おかえりなさい。どうして髪が濡れているの」
ドールは夢屋の背中を、背伸びをして覗き込み、首を傾げた。彼のぼろ外套には頭巾がついている。夢屋はあっと間抜けな声を上げた。
「忘れてたよ、こいつの存在を」
「おかしな人ね。必要のない時にはかぶるくせに」
「そうだね。暑かったからかな」
「暑い? 部屋の中にいても凍えそうよ」
怪訝そうに声を潜めるドールに対し、夢屋は笑顔で返すだけだった。濡れた外套を壁にかけ、暖炉の前に座り込む。冷え切った体が熱に溶かされていく。すっかり濡れてしまった髪を乱暴に乾かして、胸元から小さな瓶を取り出した。中には七色に光る雪の結晶が舞っている。
「きれい」
肩に毛布がかけられる。ドールは夢屋の背後に座りこみ、背中に凭れかかった。
「どうかした。元気がないね」
夢屋は肩越しにドールを振り返る。少女の黒いまなこはじっと窓の外へ注がれていた。
「雪って、少し怖い」
「どうして」
「だって、何もかもを飲み込んでしまうから」
背中に響くドールの声は凛として、水面に張った氷のようだった。
「そうだね」
夢屋は小瓶を服の中に戻し、毛布の中にドールを抱きこんだ。胸の中の雪はいつまでもひんやりとして、夢屋のうちに潜む激情を健気に吸い上げた。
曇った窓の向こうに光が射す。
夜明けに雪はやみ、街は七色の結晶に包まれた。
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