07.Disorder(2)

 緩慢な手つきで男の両脚を見ていた医者は、もったいぶったため息をついて、顎に手を添えた。

「そろそろ薬の効果が出るんですが」

「何も変わらないな。むしろ悪くなっているくらいだ。この藪医者め」

「お言葉ですが、薬を飲むだけでは回復しないと申し上げたはずです。きちんと散歩はなさっていますか。でなければ脚が衰えて――」

「説教は聞き飽きた。さがれ」

「しかし」

 医者は小さな声で食い下がったが、男が振り回す杖を恐れて足早に去っていった。持っていたものを投げようとしたが、それが杖であったことに気付き、振り上げた腕を仕方なくおろす。

「くそっ」

 なんと不自由な生活か。なんと不公平な世界か。この脚さえ動いてくれたなら、すべてがうまくいくはずなのだ。だがこの病に効く薬はなく、病状は一向に回復しない。食は細り、食事はいつも砂を噛むようだった。体は生を拒んでやせ衰え、杖を持つ手は老人そのものだ。

 部屋の扉が軽快に叩かれた。

 男の返事を待たずに、扉が乱暴に開く。

「調子はどうだ、総長。俺が紹介した医者はいい腕だろう」

 そこにいたのは、男がこの世で最も会いたくない人物だった。

「あれは使えませんよ」

 男は奥歯を噛みしめ、苛立ちを押し殺しながら、兄さん、と続けた。呼ばれた男が、あざとい落胆をまとう。

「残念だな。街いちばんの医者だと聞いていたんだが」

「少なくとも、私には合わないみたいで」

「へえ」

 兄は男とよく似た緑の瞳を細めて、鼻歌をうたいながら窓辺に寄った。

「じゃあ、死ぬか」

 振り返った兄の顔には、曇りひとつない笑みが張りついていた。彼は死ねと言っている。

 男は立ち上がり、ついた杖を強く握りしめた。

「あんたが紹介した医者など信用できない。薬は窓から捨てている」

「もったいないなあ。ならば今度はどんな医者を連れてこようか」

 血色のいい頬をゆるませ、兄は机に置いてあった小瓶を手にした。

「なんだこれ。何も入ってないじゃないか」

「やめろ!」

 小瓶の蓋が開けられようとするのを見て、男は足を引きずりながら手を伸ばした。杖が絨毯に引っかかる。体が一瞬、浮き上がった。支えを失った男は、窓に体を打ちつけた。

「危ないなあ」

 兄が笑いながら男を見おろす。

「落ちたらどうするの」

 そう言って、兄は窓の鍵を外した。両開きの窓は、男の重みで外へ開いていく。

「なにを……!」

 落ちると思った瞬間、上から押さえつけられた。体の半分が窓から乗り出して、首にかけていた飾りが千切れて芝生に落ちた。

「はなせ」

「強情だな、総長気取りが。俺が兵役の間にこの場所をかすめ取るなんて、いい度胸してるよ。親父も、お前が殺したんじゃないのか」

「いいがかりだ」

「親父も俺に継がせたがっていた。誰もお前なんて望んでいない。お前を必要としてる人間なんて、いないんだよ。さっさと継承式をやっちまおうぜ。そうすればお前に合う医者を連れてきてやる」

「貴様……」

「俺だって、そう待たない。そうだな、三日後に新しい役人の赴任式がある。いい機会だ、それまでに決断しろ」

 兄は男の服を乱暴に掴み、部屋の中に引き戻した。男は床に倒れこみ、喉を押さえた。強く圧されたせいで咳がとまらない。

「誰が貴様なんかに、渡すか。ここは……、ここは俺の場所だ」

「はいはい。よく考えるんだぞ。まあ、俺としては命を優先してほしいが。大事な大事な、たった二人きりの家族だ」

「だまれ、だまれだまれ!」

「杖、こっちに置いとくぜ」

 窓辺から離れた場所に、兄は杖を立てかけた。

「ま、まて!」

「はは! せいぜい這いつくばってろよ!」

 下品な笑い声が部屋から去り、廊下に響き、やがて消えた。

 男は腹這いになって杖の元までにじり寄り、息も切れ切れになって杖を抱きしめる。

 体中の震えが止まらない。寒いのではない。怒りほど真っ直ぐな激情でもない。

 男が孕んだ夢は、長く宿りすぎて満たされるすべを忘れてしまった。

 朝など、光などいらない。欲しいのは力だ。欲しいのは、誰よりも強い体だ。そして壊す。そして殺す。自分を否定したすべてのものを、この世界から消し去ってやる。

 絨毯に落ちた男の影が、とくんと一つ鼓動を刻む。

 窓辺に置かれた小瓶が、助けを求めて啼いた。

* * *


 夜は厚い雲に覆われて、夜空は街の灯りで鈍色に染まった。

 賑わいを見せるドール館の脇を抜けて、夢屋は水はけの悪い砂利道を進んだ。丘の上には、赤煉瓦の屋敷が聳えている。門扉は固く閉じられ、屋敷の灯りもほとんどが消えていた。

 そして今また、小さな窓に滲んでいた、七色の輝きが消える。

「間に、あわないか……」

 呟きが、ため息になって落ちる。屋敷を見つめる夢屋の瞳は極限まで研ぎ澄まされ、この世ならざる色香を帯びた。

 遠雷が波のように迫る。

 一歩、踏み出す。光の粉が砂利に舞い、その足は屋敷の中におろされた。

 廊下は暗く、灯火のひとつもない。しかしどんなに暗くとも夢屋の目はよく利いた。迷うことなく、主の部屋へと向かう。

 息詰まるほどの闇だ。前も後ろもわからない、自分の体がどこに在るのかさえわからない、そんな闇だ。その闇の中、夢屋だけが七色の風をまとい、輝いている。闇はそれを疎んでさらに膨れ上がっていく。

 歩みを進めるたびに、七色の光が夢屋の体から零れて、闇をはじく。

 ――ありがとう、ありがとう。

 光は夢屋に言葉を残して消えていく。

「僕の方こそ、ありがとう」

 ともに歩いてくれた夢たちに、心からの礼を告げる。

「無駄にはしない」

 屋敷は、いまや病巣だった。あらゆる悪意が凝り固まって澱になり、天井や壁に張り付いて光を遮る。また、床に染みた憎悪は腐臭を撒き散らして、辺り構わず爪を立てた。

 夢屋のすりきれた外套が、爪に切り裂かれていく。だが夢屋が歩みをとめることはない。ただ真っ直ぐ、目指す場所を見据えている。

 視線の先にあるのは、両開きの扉だ。暗闇の中、それ自身が発光しているようかのように、浮かび上がっている。

 呼ばれている。

 部屋の主が、夢屋を呼んでいる。

 真鍮の把手に指をかけると、途端に激しく弾かれた。辺りに息を潜めていた闇が、一斉に夢屋へ襲いかかる。

「これしきの闇で僕に勝つつもり?」

 夢屋は歪んだ笑みを浮かべて、闇を睨みつけた。竦み上がり、逃げようとする闇の尻尾を捕まえて、力任せに引き千切る。

「夢と闇は、背中合わせだから」

 手の中で闇が息絶える。そっと開くと、指の隙間から七色になりきれなかったきらめきが零れた。闇が、無言の悲鳴を上げて、さっと身を引いた。思い出したように廊下に灯りが戻る。夢屋は切り裂かれた外套を持ち上げて、眉を下げた。

 あらためて、扉を開く。

 部屋の中は、不自然なほど整然としていた。人の息遣いが感じられない部屋だった。もうずっと誰も使っていないような気配さえある。

 その壁に、ひとりの男が血まみれになって凭れかかっていた。やがて夢屋のもとに血のにおいが届く。絨毯に染みこんだ血だまりは、未だぬらりと目を輝かせていた。

 男が半分つぶれた顔をかすかに持ち上げて、唇を震わせた。声は、もうない。

「あなたに渡した夢を、迎えに来ました」

 投げ出された足元に立ち、夢屋は静かに言葉を紡いだ。

「まだ、小瓶をお持ちですよね」

 夢屋の問いに答えるように、男の視線が横へ流れる。追って見ると、体から離れた男の手の中にしっかりと握られていた。透明で歪みのない硝子には血の膜がまとわりつき、瓶の中を自由に飛び回っていた七色の風は、すでに虫の息だ。

 夢の主である、この男のように。

 男の口から、やや長い息が吐かれた。夢屋は眉を寄せて、首を振った。

「あなたの夢は、もう病んでしまった」

 半分削られた顔では、男の表情は読み切れない。だが夢屋には、男の落胆が痛いほど伝わった。

 夢屋は置き去りになった男の手から小瓶を抜き取り、表面を拭った。小瓶の汚れは拭き取られたが、中から闇が染み出してくる。手遅れだった。

 夢は闇を生み、闇は夢を根こそぎ食む。互いに求めながら決して相容れない、同じ力で押し合って引きあうからこそ共存できる、思いの生命だ。

 男の片頬を、涙が伝った。

「死が、あなたから夢を奪うと?」

 頷くことすらできない男は、痙攣のように細かく瞼を揺らした。

「違う」

 夢屋は憤りに似た諦めを、腹にぐっとこらえた。

「夢を殺したのはあなた自身だ」

 壁がかすかに光る。雷鳴が小刻みに窓を揺らした。男の欠けた歯の隙間から、声にならない息が洩れる。

「神だって? 僕が?」

 夢屋は思わず鼻で笑った。

「まさか。僕が神なら、あなたをここまで苦しませない」

 握っていた小瓶を男の足元に置き、夢屋は窓辺に寄った。

 落雷が大地に突き刺さる。闇に呑まれていた部屋の中が、青白く照らし出された。あまりに強い光に、闇だけではなく、存在の全てが掻き消されてしまう。そこに何があったのか、どんな思いがあったのか。辺り構わず根こそぎ奪われていく。

 男の体がゆっくりと傾いだ。激情の失せた男の目から、途切れることなく涙が流れた。男は体を横たえたまま、絨毯の上に立つ小瓶を眺めて、静かに嗚咽した。

 雷鳴は次第に遠くへ流れていく。

 再び静まりかえった部屋の片隅で、夢の小瓶は音もなく粉々に砕け散った。血でぬかるんだ絨毯に、ごく小さな粒までが大切に抱えられる。

 破片のふちを一瞬の光が彩る。男は静かに時をとめた。

 窓を濡らした雷光が、降り出した雨に歪んで、夢を真似た。

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