02.Doll(2)
路地から見える表通りは、虚飾の光に覆われていた。
一歩、足を踏み出す。泥だらけの革靴が、明かりに晒された。道の両側には娼館がひしめきあっている。作られた光と垂れ込める闇が、建物を挟み込んでいた。夢屋は黒のドールの姿を探した。
彼女は間もなく彼の前に現れた。将校に肩を抱かれて歩いている。彼女の夜が雨に煙った。
夢屋はその場に佇んで、二人が近づいてくるのをじっと待つ。傘もささずに突っ立っている夢屋の姿は、すぐに彼女の目にも留まった。夜空をも押し退けるほどの黒い瞳が、夢屋をとらえてすぐに逸れた。少女は更に将校に寄り添って、夢屋の横を通り過ぎていく。まるでそこには何もないかのように振舞う。夢屋はそこに彼女の夢を嗅ぎ取った。
振り返り、追い駆けた。
「いつまで諦めた振りをするつもりだ」
夢屋の声に、少女は立ち止まる。隣に立つ将校が振り返り少女に問う。
「知り合いかな」
少女は答えない。将校は呆れたように肩を竦めると、夢屋を肩越しに睨みつけた。
「無粋だよ」
「あんたは黙っていてくれ」
夢屋は、将校に目もくれず言い放つ。空気がざわついた。道の端から、店の窓から、冷ややかな視線が集まる。
「聞こえているんだろう。届いているんだろう」
夢屋は一歩また一歩と、少女へ歩み寄る。少女の小さな背中は、夢屋を頑なに拒んでいた。
「大丈夫。消えないよ。君のそばにいつもあるから」
「長生きせんぞ」
将校は腰から銃を抜き、夢屋の脚を撃った。衝撃で体が斜めに傾ぐ。将校は満足げに夢屋を見下ろした。
「脚の一本では済まなくなるぞ」
銃口が下を向く。夢屋は低く唸り、将校を睨みつけた。
「貴様に何の権利がある。人の夢を奪う重みを知るというのか」
「何の話だ」
将校は夢屋へと銃を構えなおした。青い瞳が、将校の脳に響く。脂汗が額に浮く。
夢屋の背負った大きな鞄から、仄かな光が零れ落ちた。雪のような儚さで雨に溶けていく。足元に冷気が漂う。夢屋は腕をだらりと下げて、前を見据えた。
弾けるように走り出す。夢屋は少女の手を引いた。視線が交わる。昼間は澄み切っていた夢屋の瞳が、今は這い出しそうなほど深い闇と狂気を抱えていた。全くの別人に映る。少女は彼に官能という恐怖を感じた。
「君は、僕と似すぎている」
囁きは凌辱に近かった。強ばった体では抵抗もままならない。少女は夢屋に手を引かれて走り出した。雨粒が顔を打つ。少女は目を固く閉ざした。瞼の裏に、ぼんやりと光が浮かぶ。それは七色の煌めきで少女を優しく包み込み、雨の冷たさも走る呼吸も忘れさせる。少女の心は振り子のように揺れた。
背後からは、娼館の男衆が手を伸ばしてくる。明かりのない路地で、息遣いだけが五感に届く。肌が粟立った。
少女は縋るように目の前の背中を見上げた。走る速度が上がる。足が地面から離れた。少女の体が浮いた。繋いだ腕が引き千切れそうになる。
「もう少し、我慢して」
風に消え入りそうなほど、彼の声はひどく掠れていた。少女は小さく頷いた。
「いい子だ」
足元に光の帯が流れる。少女は夢屋の手を握り返した。
入り組んだ道を夢屋は何度も曲がる。男衆は方向感覚を失ったことで体力を削がれ、次第に足をとめていった。階段の途中で夢屋が後ろを振り返った時には、男衆の姿はなかった。
雨はもう、霧のようなやわらかさになっていた。
上がった息を整えながら、少女は来た道をじっと見据える。ふと、自分のしたことが恐ろしくなった。
すぐ足元まで路地の暗がりが忍び寄る。ひたひたと階段をあがってくる。そこから何本もの腕が伸びて、足首を掴まれる。
少女は声なき悲鳴をあげた。背中を汗が流れる。
二度とこの街には帰れない。
今の生活に満足していたわけではない。幼い頃は、逃げ出せるならどんな手段も厭わなかった。けれども何度も失敗を重ねるうちに、希望を持つことすら愚かしく思えるようになった。
望むから、夢破れるのだと。
帰る故郷のない彼女に、行く場所などなかった。この街でしか受け入れてもらえない、少女は自分自身にそう言い聞かせてきた。
これから先、どうやって生きていけばいいのか。考えるほど、繋がれた手が憎らしく思えた。
少女は夢屋の手を振り払った。夢屋は驚いて目を瞠る。
「今ならまだ戻れるわ」
黒い双眸に、強い意志が宿る。少女は踵を返して階段を下りていく。
「待って」
男は濡れそぼった少女の背中を呼び止める。彼女は凍えながら立ち止まった。背後から夢見た温もりが溢れてくる。昼間、街角で食い入るほど憧れた心に包まれていく。体の奥で溶けていくものがあった。
初めて見たときから、不思議な男だと思っていた。彼女が今まで出会った男は、皆どれも同じだった。顔の判別すらつかない。胸に誇らしげに付けているバッジの数で、彼女は相手を見分けていた。
ただ、夢屋だけは全てが彼女の規格外だった。
彼は彼女に、故郷の海を思い出させた。
青く、広く、深く、優しい。
さきほど見せた激しさもまた、時化のよう。
自分はまるで、揺られる小舟だった。
『大丈夫。消えないよ。君のそばにいつもあるから』
波音は消えることなく、風はいつも潮の香りを運んでそばにあった。
振り返ると、目の前には光が溢れていた。海原の輝きが七色に映える。
大きな瞳から、涙が零れた。
「助けて……」
両手で顔を覆って少女は泣き崩れた。男の腕が支えて抱きしめる。背中に回った男の腕が、こんなにもいとおしいことは今までになかった。体の内側から広がる温もりに、少女は恍惚と浸る。湿り気を帯びた風が頬を撫でる。潮の香りが鼻孔をくすぐる。薄く目をあけると、夢屋の姿はなく、彼女は光に包まれていた。
小瓶に詰められていた、七色の夢。
「よかった」
光の束が夢屋へと収束していく。少女は強く抱きすくめられた。
「君の顔を取り戻せた」
夢屋は少し体を離し、泣き出しそうな笑顔で、少女の頬を両手で挟みこんだ。雨や涙に濡れた肌を撫でる。
「思ったとおり、きれいだ」
少女の頬に朱が走った。夢屋の言葉に照れたのではない。そう言ったときの彼の笑顔が、何よりも美しかったからだった。彼の碧眼は穏やかなまま、少女を真っ直ぐ見つめている。
空気中の湿気が夜に冷やされ、肌に降りる。夢屋は外套を脱いで少女の肩にかけた。体温が心地よく少女を包んだ。
夢屋はしゃがみ込んで、彼女のスカートに跳ね上がった泥をはたき落とす。かぶっていた帽子が、風に飛ばされ下へと転がった。
「放っておけなかった。だって、君が僕を呼んだんだ」
階段に腰を下ろし、少女と目線を合わせる。彼女から息吹が舞う。
「矢のような鋭さで、射抜くほどに、自分よりも深い闇を」
「気付いていたの」
「もちろん。だって、僕は君の夢だから」
夢屋は微笑みながら少女の頭を撫でる。
雲は流れ、研ぎ澄まされた夜空が鳴る。
少女は確かめるようにゆっくりと夢屋の腕を掴み、彼の首に両腕を回した。力の限りにしがみつく。
「連れて行って。一人にしないで」
「大丈夫。消えないよ。君のそばにいつもあるから」
夢屋は彼女の背中を撫で、彼女の頬の匂いを嗅いだ。
「君、名前は」
「……セイ」
「いい名前だ」
「あなたは?」
「僕は――」
地面から白い風が沸き起こる。少女は夢屋の腕の中で身を竦めた。夢屋は無邪気に微笑むと彼女の耳に囁いた。階段から影が消える。
薄汚れた帽子が一つ、路傍の水溜りを吸い上げて夜空を見上げていた。
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