03.Drift(1)

 金色に染まる空は、悲鳴と似ていた。

 今日一日で世界に吐き出された悲しみが、愛しさが、怒りが、喜びが、虚しさが、全てかき集められ、見分けもつかないほど束ねられ、一つの大きなうねりとしてあった。

 耳の奥にまで響く潮騒は、空から零れ落ちた悲鳴の欠片のようだった。それは波に呑まれて激しさを喪い、ただ穏やかに打ち寄せた。濡れては乾く砂浜は、かつて流した涙の名残にも見えた。

 流木が転がる砂浜を、男がゆっくりとした足取りで歩いていた。分厚い外套の裾は擦り切れ、煤けたように汚れていた。穴の開いたブーツからは、細かい砂が入った。体は汗ばみ、喉は水を求めた。

 粘り気のある海風に、被っていたフードが煽られる。髪を抜けていく風は、湿り気の中に冷たさを併せ持っていた。透けるような淡い金髪が、夕映えの輝きに彩られる。男は立ち止まって、海原を眺めた。その瞳は、昼間の海のように青い。

 男は水平線を睨みつけるように強く見つめた。短く舌打ちする。体の奥底から湧き上がる闇が、男の自由を奪おうとしていた。端正な顔は、痛みを堪えるように歪む。喉の渇きは、いつしか力への渇望に変わる。男は内側で蠢く意志に抗い、歯を食いしばった。闇は男の懸命さを嘲笑うように、残り少ない夢を侵食していく。

「渡すものか」

 膝をつき、砂を掻く。共に光を目指していた夢が、断末魔の叫びを上げる。海に突き出した崖は、もがき苦しむ世界の爪にも見えた。

「俺が救うと約した夢だ」

 首筋を伝う汗が、砂に落ちた。太陽が握りつぶされるように光を絞られていく。流れるように空に漂う雲の腹は、強すぎる輝きに色を奪われた。

 息は途切れ途切れになり、空が次第に光を無くしていくように、男の意識は波にさらわれた。




 それは、遠い、遠い記憶。

 戦火の街を少年は走った。

 手には少しの金貨と銃を握り締めていた。方々から火の手が上がり、街はほとんど死んでいた。右手からの断続的な銃声に少年は崩れた壁に身を隠す。短い悲鳴があって、銃声はやんだ。金貨を握る手は、冷たく濡れていた。

 地の底から沸き起こるような戦車の地響きがあった。少年は這いながら瓦礫に潜り込む。息をとめて頭を抱え、戦車が行き過ぎるのを待つ。だが振動は近付いていた。細かい砂礫が肩に落ちる。すぐそこにいる。声が聞こえた。兵士が叫ぶ。街を焼き払え、と。膝が小刻みに震えた。少年にはそれが恐怖によるものか戦車の地響きによるものか、わからなかった。




 頭の奥で鳴り響くざわつきに、目を覚ます。青空の見える窓から、潮騒が漏れ聞こえていた。一息ついて、夢を見ていたことを悟る。

「気がついたみたいですね」

 不意の女の声に、男は寝台から飛び起きる。だが、ひどい頭痛がして、そのままうずくまった。

「急に動かない方がいいですよ」

 女の手が伸びてきて、そっと寝台に押し戻される。ぼやけていた視界が、徐々に像を結ぶ。すぐそばには、褐色の肌の女がいた。

「ここは」

「南の端です。あなた、倒れていたんですよ。あの砂浜に」

 女は窓の外を指差した。

「驚きました。馬も車もなしに」

「君が助けてくれたの。ありがとう。ここまで運ぶの大変だったでしょう」

 青く透徹した瞳を細めて、男は言った。

「あの、ごめんなさいね。引きずって、服が少し傷んでしまったみたい」

 壁には、ぼろ布に近い服がかけられていた。男は苦笑した。

「いいや、あんまり変わらないよ」

 男はゆっくりと起き上がり、寝台に腰かけた。目の前に立つ女を見上げる。布の少ない服から伸びた腕や脚はしなやかに引き締まり、胸元まで濡れたような黒髪が垂れていた。眉は濃く、麦色の瞳には彼女の意志の強さが窺えた。唇は厚く肉感的で、笑うと頬が窪んだ。

「君の名前、聞いてもいいかな」

「サーシャ。あなたは」

「そうだね。夢屋、とでも言っておこうかな」

「夢屋……変わった名前ですね」

 サーシャは白い歯を見せて笑った。夢屋は、彼女につられて微笑んだ。心の底の眼差しが、サーシャの夢と闇を探る。だが、そのどちらも、彼女の中には見出せなかった。思わず夢屋の表情が凍る。

 部屋の中はこぎれいに整理されていて、むしろ殺風景なほどだった。

「サーシャは、一人で暮らしているの」

「ええ。あ、でも遠慮しないでください。お客様をおもてなしするくらいの用意はありますから」

「でも僕、あまりお金持ってないよ」

 夢屋が恥じ入る様子なく告げると、サーシャは落胆を持て余した。夢屋は寝台のそばに置かれた自分の荷物を見遣る。彼女が手をつけた形跡はなかった。その潔さをよしとする。

「ねぇサーシャ。一人だと大変なこともあるんじゃないかな」

「え」

「ほら、たとえば力仕事とか」

「そう……ですね、そういうこともありますね」

 サーシャは夢屋と目を合わせようとしない。夢屋は寝台から立って、彼女に顔を近づけた。

「文無しでも、君への感謝は変わらないよ。何か、手伝わせて」

 すぐ間近で見る夢屋の整った笑顔に、サーシャは言葉を奪われた。陽に灼けた頬が淡く染まる。彼女はそれまで、これほど美しい顔の男を見たことがなかった。

「あの、えっと」

「いいよね」

 夢屋はサーシャの手を取った。

「あ、はい」

 反射的に頷いて、サーシャは笑みをこぼした。

「見かけによらず、強引なんですね。そんなにしてまでお礼したがるなんて人、初めて見ます」

 そう言って破顔するサーシャにも、やはり闇と夢は見えなかった。

「お腹すいていませんか。食事の用意しますね」

 彼女は水を汲みに、上機嫌で部屋を出る。確実に扉が閉まるのを待って、夢屋は寝台に倒れこんだ。彼の鞄から、七色の微かな光が染み出てくる。

「俺はどうしていつまでも、こう無力なんだろうね」

 犠牲になっていく夢の欠片に詫びながら、夢屋は外から聞こえる波音に聞き入った。

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