the Dream Deliverer 夢屋
望月あん
01.Doll(1)
薄曇りの中、煉瓦で彩られた通りに人影はまばらだった。瀟洒な建物も寂しげに映る。澱んだ空気が急くこともない。闇を食らって輝く街は、未だ眠りの中にある。
男は路地から顔を出すと、適当な場所を見つけて敷物を広げた。深くかぶった帽子のため、顔は窺えない。彼がまとう外套は薄汚れていたが、彼自身には微塵の濁りも感じさせなかった。
彼は背負っていた大きな鞄から、小さな瓶をいくつも取り出しては、丁寧な手つきで一つずつきれいに並べた。弱々しい太陽の光を受けて、瓶は柔らかな影を帯びる。
「これ何」
光に吸い寄せられるように、どこからか子供たちが近付いてきた。その目には、今日の空には望めない輝きがきらめいている。
男はそれを見て、帽子のつばを上げた。青天の真っ直ぐな瞳が細くしなる。優艶で柔和な笑顔が子供たちを安心させた。
「これはね、みんなの夢が詰まってる魔法の小瓶だよ」
彼は小瓶の一つを子供たちの前に翳して見せた。陽に焼けた肌に、色素の薄い髪が揺れる。
「夢、僕らの夢」
子供らの顔に、微かな影が射す。男はそこに世界の闇を嗅ぎ取った。皺寄せは、こんな年端もいかない子供たちにまで及んでいる。男は子供の小さな手を取って、小瓶を握らせた。中から七色の光が溢れ出す。
「大丈夫。消えないよ。君たちのそばにいつもあるよ」
彼の声は、子供たちの隙間を埋めるように、体の隅々へと染み渡っていく。男の大きな手が、ふんわりと子供の頭を撫でた。春風のような温もりが、空から降ってくるようだった。
闇は吹き消された。
「おじちゃん、あたしにも頂戴」
「こらこら、僕はまだおじちゃんなんて言われる歳じゃないぞ」
男は眉を下げて微笑みながら、差し出された手の平にしっかりと小瓶を持たせた。広がる安らぎに子供は唇を噛み締め、泣きそうな顔で精一杯笑顔を返す。男は子供といえそのような気遣いを知っている彼らに、えも言えぬ寂寥感を覚えた。
ふと、視線に気付く。
胸に広がった愛しさに、乱暴な矢が刺さる。
「もうすぐ雨が降るから、早くお家にお帰り」
男は子供たちの頬を撫でて諭す。彼らは素直に頷いて、家路を走った。
去っていく子供の背中を見送りながら、男は視線を探る。澄んだ青い瞳には、達観した諦念が漂っていた。
男はすぐそばにある視線の主を見上げた。そこには、異国の少女が一人佇んでいた。
「いらっしゃい」
男は変わらぬ笑みを少女に送る。しかし少女は男を見ることもなく、地面に並べられた小瓶を興味なさげに見おろしていた。
長く真っ直ぐな黒髪が、微風に揺らぐ。ほのかに甘い香りが男に届く。陶器のようになめらかな肌には、一切の色がない。少女はくるぶしまで隠れる黒いスカートを器用に折りたたみ、男の前にしゃがみ込んだ。
少女の顔立ちはまだ幼い。さきほどの子供たちより少しばかり上だろう。男は伏し目がちな少女の長い睫毛を眺めながら、小瓶を勧めるか否か逡巡した。
「許可とらないと、殺されるわよ」
赤い紅をひいた小さな唇から、鈴の音のようなきれいな声が零れた。男は悲しそうに目を細めて笑む。少女の感情の失せた声に、救いがたい闇を見たのだった。
「大丈夫だよ。こう見えてそれなりに強いから」
「ふうん」
少女は気のない返事をして、抱えた膝の上に顎を乗せる。
「君、名前は」
男は小瓶を一つ手に取り、少女の方を見ないで問うた。
「人に名前を聞くなら、あなたから名乗るべきだわ」
「まるで騎士のようなことを言うんだね」
男は苦笑して、肩を竦めた。夢屋とでも言っておくよと、手の中の瓶を空に翳す。
瓶に貼りつくか細い光を少女は冷ややかに見つめた。
「夢なんて子供騙しでしょう」
聞き取れないほど小さな声で、少女は笑う。
「どうだろうね。さぁ、次は君の番だ。君の名前は?」
「名前なんてないわ」
凍てつくほど可憐な指が、乱れる髪を掬う。
「ドール」
遠雷が風に乗って運ばれてくる。少女の呟きは、男に一つの確信をもたらした。
「黒のドールって呼ばれてる」
歌うかのように、彼女は自らを貶める。
少女は顔を上げて、真っ直ぐ男を見据えた。
辺りに光が満ちる。轟音が近付いた。
切り揃えられた前髪の下に、洞穴のような昏い瞳が覗く。
「私にも夢をちょうだい」
少女の微笑みは、思わず男を縛りつける。搾り出すように彼は数ある小瓶の中から、最も強い輝きを放つものを手に取った。
少女へ近付くにつれ、みるみるうちに光は影に呑まれていく。
二人の間に、雨粒が落ちた。
***
長く戦争が続いている。大陸全土にまで広がった戦乱は、多くの兵士を食い散らし、多くの孤児を生み出した。
夢屋は被り直した帽子で雨を凌ぎ、暗闇の町を歩いていた。大通りから遠い路地には、覆い隠されることなく闇が息づいている。降り止まぬ雨に、腐臭が湧き立つ。道端に捨てられた死から、土を手放すまいとする力が見えた。夢屋はそばに膝をつき、地面に突き立てられた硬い指を掴んだ。
「何が欲しかったの、どんな夢を見てたの。ちゃんと受け取るよ」
優しい語りかけに応える者はいない。けれど夢屋は満足そうにほほえむと、小瓶を取り出して栓を開けた。
「無駄にはさせないから。安心して」
夢屋は指を元に戻す。それまであった力みは消えていた。世界へと同化していく。小さな光が揺らめいた。またひとつ、無念に終わった夢が拾われていく。
雑音が続く。雨はやむ気配を見せない。
表通りを窺うと、ドールと歩く軍人の姿が目に付いた。軍営に近いこの街では、高位の軍人も珍しくなく、自然とドールの数も増えた。
夢屋は昼間に会った黒のドールを思い出した。
彼女が手にした途端、小瓶から光が失せた。あれほどの闇を持つ人間は、そう滅多にいるものではなかった。ドールという境遇だとしても、彼女のようなまだ幼い存在が抱えられるようなものではない。
しかし彼女は、それをさらに増幅させようかという微笑みをたたえていた。そこに計り知れない恐怖と、切ないほどの叫びを見たのだった。夢屋に理屈はなかった。ただ、彼女に会う前に感じたあの鋭い視線が、彼を突き動かした。
臆することなく手を伸ばせる彼らへの強い羨望。それを知ってしまったからには、夢屋は彼女を見殺しにすることはできない。
彼女の闇を振り払うには。彼女に彼女の闇を突きつけるには。彼女に夢を信じさせるには。
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