第16話

 大江匡衡おおえのまさひらは頼光の年来の友である。

「おねえ博士の声で千手様のお声が消える! 黙らっしゃい」

「久しぶりに会ったのに、失礼ね。いいわ、そんならたくさん聞かせてあげる。いわく、学びて時にこれを習うの。よろこばしいわよね。とも有り、遠方より来たる。これ亦た楽しいわよね。でも人知らずしていきどおらずっていうのが、亦た君子ってかんじよね……」

 孔子の『論語』をまくし立て始める匡衡に、頼光はたまらず「孔子にあやまれ」と叫んだ。

「あら、私の講義けっこう人気なのよ。最近本も書いたの。〝これで完璧! おねえ言葉で覚える『論語』〟、一冊あげるわ」

樋殿ひどので使います」

 桶殿とは便所のこと。

「尻拭くんじゃねえぞ」と匡衡が低い声でうなれば、驚いた周囲の人々の目が二人に集まった。

「あらやだ、雅じゃなかったわね。ほほ……」

「ともあれ、匡衡兄もお変わりないようでなによりです」

 頼光は匡衡とつれだって朝堂院を出た。

 天気のよい日で、空高くを細長い雲がたゆたっている。空気には、山から来る秋のにおいが混じっているようであった。

「そういえば物忌ものいみだって聞いたけれど、随分長かったんじゃない。どうかしたの」

「いやあ、行く先々で人死にに遭ってしまって」

 頼光の言い訳すると、匡衡が「名探題めいたんだい三昧房さんまいぼうみたいね」と相打つ。

「なんですそれ」と頼光が問えば、

「知らないの? 今流行りの絵巻物よ。政敵の陰謀であやしい仙丹を飲まされた藤原なにがしが童の姿になっちゃって、身を隠すためにお寺に入って三昧房を名乗るの。お師匠様について行く先々で出会う、いろんな事件をずばっと解決するっていうやつよ」

と匡衡が説明する。

「色々な誤解を生みそうな作品ですね」

「もう、頼光ちゃんたら、流行を知らないとモテないわよ。じゃあもしかして、〝源氏物語〟も読んでないの」

「それは読みましたよ! 主人公の光源氏は、絶対に千手様を元に描かれているに違いないですね。くう、物語のなかとはいえ、千手様と出会う姫たちがうらやましい……」

 頼光が袖をかんで悔しがれば、

「頼光ちゃんってやっぱりそっち系なの? 今度恋話宴する?」

と匡衡は嬉々とする。

「そっち系じゃないですし、宴もしないです。そうでなくて、千手様の崇高さは、男女の別なくわかるものでしょう」

「まあ、千手様は本当にやり手よね。藤原道長ふじわらみちなが様の跡継ぎっていうのもあるけれど、実力がなかったらあの位にはいられないわね」

 匡衡が思案げに言う。

「千手様は大丈夫ですよ。かん張良ちょうりょうにも負けぬ優れたお人柄で、帝のご信頼も厚い。東宮の敦康親王あつやすしんのうの後見人でもあらせられるし」

「まあねえ。でも、だからこそやっかむ人も多いものよ。あんたが千手派ってことは皆知ってるんだから、言動には気をつけるのよ」

「千手様最高!」と叫ぶ頼光に、匡衡は深くため息をついた。

「さて、私はこれから親王様のお勉強を見てあげなきゃいけないから。じゃあね」

「匡衡兄が東宮学士でいいんですか。次の帝に悪影響がありそうですよ」

「やかましいわ、この野郎! まあ、相変わらずでよかったわ。またうちにも遊びにいらっしゃい」

 そんな軽口をたたきながら、二人は別れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る