第10話

 邸には、紀代の他にも女房や使用人ら二十人ばかりが暮らしている。女房らは下級貴族の女で、頼光ら家族の身のまわりの世話やら、客人のあるときはその接待にあたる。使用人は邸のこと、馬の世話などいろいろと役目がある。

 普賢丸が邸内を歩くと、朝を迎える彼らに順々に出会い、「お早うございます、普賢丸様」とあいさつをされる。

 さて頼光の寝所しんじょにたどり着くと、普賢丸は御簾みすの外から、「兄上、おはようございます」と声をかけた。

 すると、ぼんやりした声が「はい」と答える。

「起きていらっしゃいましたか。物忌みが明けて、今日からお勤めですよ」

 また、「はい」と声が返ってくる。

「早く支度してくださいね。僕は小兄上ちいあにうえを起こしますから」

 はい、はいと大人しい返事が聞こえる。

 通りがかった女房がそれを聞いて、首を振ってみせた。返事がするからといって、安心してはならないと。

 普賢丸がためしに「わん!」と犬の鳴き真似をしてみれば、また「はい」と返事がした。

 御簾をくぐって、几帳きちょうの向こうの寝床をのぞいてみると、頼光は体にかけてあったはずのふすまとぐしゃぐしゃになって、まだ眠っていた。その体の上には猫が乗って、心地よさそうに目を細めている。

「ごはんの時間だよ」と声をかけると、猫はおもむろに立ち上がり、頼光を踏み台にのびをして、あいさつするように普賢丸の足にすりついた。

「さあ、兄上も起きて下さい」

 肩を揺すれば、頼光は「はあい、ばんじこの頼光におまかせ下さい」などと寝ながら呟く。

「おまかせしていたら昼になってしまいます。さっさと起きて」

「お言葉のとおりでございます」

 寝ながら返事をするとは器用な、と思いつつ、普賢丸は兄の両頬をひっぱったり、叩いてみるのだが、それでも目を覚ます気配がない。

 しまいに普賢丸は腹に力をこめて、「源左馬権頭頼光げんさまごんのかみよりみつ、関白殿下の御前であるぞ」と大声を出してみた。

 すると頼光は飛び上がり、衾の上で正座して「ははあ」と深く頭を下げた。しかし顔を伏した頼光がまたいびきをかき始めるので、普賢丸はたまらず「起きてください」と兄の烏帽子えぼしを叩いた。

 男子は起きているときも、寝ているときも烏帽子を取らない。それはあたかも下着のようなもので、烏帽子なしに人前に出るのは全裸で表を歩くのと同じようなもの。

「おや、ここはどこだ、俺は誰だ」

 寝ぼけながらようやく目覚めた頼光に、「うちです、頼光です、さっさと支度してお勤めに行って下さい」と返すのだった。

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