中指

高田丑歩

中指

 中学では友人が入るからという理由で陸上部を選んだ。中距離走に多少の才能があったようで高校に進学しても続けたが、井の中の蛙が海の広大さに叩きのめされて、結局一年で辞める。体を酷使する部活もなければないで毎日は存外物足りなく、アルバイトをするか別の部活を検討していた。


 きっかけは些末事に過ぎなかった。文化祭で偶然仲良くなった女の子が吹奏楽部で、僕が日々に刺激がなくてつまらないと話題を持ちかけてみたら、足りないパートがあるから、と搾り上げる声に合掌を加え哀願される。

 僕には類稀と言って差し支えない、女子に懇願される気持ち良さでほとんど心は決まっていた。だが二つ返事で浅薄な人間と思われるのは心外なので会話の帳を下していると、押せばいけると踏んだのか彼女は捲し立ててきた。皆高校から始めた人ばかりだし、緊張しないでいいから、と何度も念を押す。じゃあ、と詮方なしを装い、僕は下心を吊り下げて入部することになった。パートはパーカッションだった。


 顧問は忙しいらしく毎日全体練習はない。それでは部員は何をするかというと仲良く駄弁って茶をしばく訳もなく、パート練習といって各楽器に分かれて合奏する。パーカッションは僕一人で孤独に使える程教室もスペースも余っていないため、最弱パートは階段の隅に追いやられてしまう。僕は部活と関係のない生徒に後ろ指をさされながら、未来の想像は大概がその通りに行かないものだと人生哲学を学び、一体僕は何部に入部したのかと頭を捻る。

 週の半分以上は練習用パッドを空しく叩いていたから、僕を見兼ねて話しかけてくる女の子が居着くようになった。しかしそれは哀れみと表現しても大差ない。

 その子は僕を吹奏楽部に誘った女の子だった。楽器隊ではなくマネージャー業で、各パートを回って雑用をこなしている。せっかく入ってくれたのに、と気を使ってくれたのだろう、哀憐とはいったが悪い気分ではなかった。マネージャーは顔が整っているしスタイルも良く、何より話していて楽しかった。女性経験という手薄な部分を突かれた僕が、一カ月もしないうちにその子へ好意を寄せるのは容易かった。

 しかし、マネージャーには彼氏がいた。


 夏休みになって合宿が始まった。十五名に満たない程度の部内に男は数名しかおらず、周りは全員女の子。わくわくしない高校男子はいないと断言していい。

 朝から夜まで練習して、そこからは学内にある合宿所で集まり夕食を囲う。全員が風呂後で体操着や私服を召し、まだ髪に水気を含んでいる後輩やブラジャーを付けていない先輩もいて、どうにも目線の置き場所に窮する。その困窮の意味の良し悪しは問わない。

 僕の隣はマネージャーであり、後でこっちの部屋に来なよ、皆でトランプしよう、と天地を揺るがす提案をしてきた。合宿所の部屋は二階にのみ存在し数は三つ、男女が別れて使って先生は宿直室で寝る事になっている。定期的に先生の見回りが来るとはいえ、同じ屋根一つ下というのは期待せずにいらない。周りにいる女子も別段拒絶する様子を見せないので、誘いを断る理由はなかった。

 他の男子にも言っておく旨を伝えたが、男子全員来たらトランプ足りないとのことで、一人で来るように釘を刺された。僕は了解、とそぞろな気分でマネージャーに告げる。そこから夕飯の味は全く記憶にない。


 男子は全員で五人、一人だけ先輩であとは下級生になり、先輩は部内に彼女がいて現在逢瀬の最中らしかった。後輩達は女子の部屋に行くなんて怒られちゃいますよ、と動揺するだけで僕を無理に止めたり一緒についてくる気概のあるやつはいない。全員がついてきたら困るな、という考えは杞憂に終わる。

 むさ苦しい部屋を退去しマネージャーの部屋へ急いだ。先生の見回りまでには帰ってこないと間違いなく謹慎、その後僕は学校でケダモノの汚名を卒業するまで、または卒業しても背負うことになってしまう。

 女子のいる部屋は煌々と明かりが点っており、僕にはそれが極楽浄土から迎えに来た仏の後光に思える。ノックをしてから顔だけ覗き込むと女子は八人いた。待ってたよ、とマネージャーが手招きする。僕は布団を踏み越え、サークルを作っている女子の輪郭へ及び腰で加わる。

 部屋の中は柔らかい香りが充満していて、複数のシャンプーが混ざった匂いだろうと推測できる。女子は皆部屋着だが、殊に僕はマネージャーへ意識が盗まれた。

 薄いシャツ一枚で鎖骨が露わになっていて、ハーフパンツから覗く内股のスジに眩暈がしてくる。トランプを捲る仕草は朝の秋晴れのように麗らで、白い首筋、服の上からでもわかる肩甲骨の動き、骨盤のライン、普段お目にかかれない部分の応酬は僕の慰みとなり糧となる。この情景にありがとう、心の奥底で放つその謝辞は勿論声に出さず墓場まで持っていく。

 それから、消灯まであっという間だった。結局目の保養にほとんどの時間を充て、トランプで勝つことは一度もなかった。ゲームには負けたが、勝負には勝ったのだ。僕は清々しい達成感と悶々、相反する衝動を抱えて部屋を後にする。

 マネージャーは私トイレ行く、と部屋にいる女子に告げ僕と一緒に退出した。


 廊下は節電のため非常口の灯りしかなく、外からの光も一切ない仄暗さで、呆けていれば幽鬼にでも出くわしそうな薄気味悪さだ。うわ、暗い、マネージャーがそう呟くのを聞いてトイレまで送る旨を伝えると感嘆の声を上げて喜ぶので、こっちまで昂ってしまう。一日にほんの少しでも二人きりの時間がないと、安心できない体になっていると僕は心付く。

 女子トイレは男子の部屋から反対方向にあり、数直線にするとゼロの突き当りの部屋が男子部屋で、途中階段があり、女子部屋、トイレ、最後に突き当りでまた女子部屋になっている。トイレは柱の関係で奥まっており光が一層に届かず闇が蔓延って足元がはっきりしない。送迎の理由には十分だ。

 送り届けじゃあさよならという訳にもいかず、送ったなら帰り道も同様だろうと僕はトイレの前で待っていた。夜の閑静な学校は音をよく反響させ、彼女の用を足す様子がこちらまで頼りなく届き、僕は否応なく扇情を催す。

 蛙が古池に飛び込むような情緒ある音色に耳を聳てていると、ふと大きな水流が僕の妄想を濯いでいく。程なくトイレの電気が消えてマネージャーが現れた。ごめんね、行こう、と彼女の声が股間に響く。


 部屋に戻るまでの他愛ない会話の中で、マネージャーの彼氏の話が出てきた。僕はそいつの事を、王子という頭の悪そうなあだ名、一つ上の先輩で卓球部、そして付き合って一年経つ今も大変仲がよろしいという情報だけ収めている。

 そういえば好きな人とはどうなったの、と呼吸次いでにマネージャーが聞いてくるので、僕の肺に痛みが走る。彼氏の話の後は大体ここに収束してしまう。以前僕の恋愛話になり、恋人はいないが好きな人はいる、と巧みな誘導尋問がこの末を招いた。

 全然進展ないよと不躾に放ち、真横を歩く彼女から顔を背ける。応援するから好きな人教えてよ、と数十回繰り返されてきた問答がここでも繰り返され、教えないということでいつも一旦引き分けになる。お前だよ、と叫びたい衝動を堪えて。

 部屋の少し手前、まだポーカーを続けている女子の声が微かに通ってくる辺りで、僕達は打ち合わせたように立ち止まった。それじゃあおやすみ、と言えば終わってしまうから僕は口にせず、薄暗さを理由に沈黙へ甘える。マネージャーも口を噤み戻ろうとしない。何か僕に用でもあるのだろうか、などと無粋なことを考えるまでもなかった。

 彼女は壁に背を預けて、もう先生来ちゃうね、と映画館で声を漏らすように囁く。甘い声だった。僕の心臓はぎゅっと収縮し、気温のせいにできない量の汗が手に宿り、膝も笑う。マネージャーには彼氏がいる。でも理由や建前を考えている暇はない。僕はパーカッションだ。太鼓だ。臆病心の背中を叩いて鼓舞するのだ。

 奮い立たせて、ゆっくり一歩前へ出すとマネージャーの長い髪が体に当たる。どれくらい近づいたらいいかわからなくて、彼女の股の間に僕の片足が入ってしまった。彼女は一度深呼吸をしただけで、あとは俯いて僕の出方を待っている。これから何をされるか分からないことはないだろう。彼氏がいるんだから。

 僕は額をくっつけこちらを向くように誘導し、鼻と鼻が当たって、最後に唇が触れた。棒立ちだった僕の腰にすかさず、艶めかしく手が回る。慣れているなぁと思うと急に切なくなり、もっと密着したくなって肩に手を置こうとした。しかし腕を上げる時にマネージャーの乳房を擦ってしまい、密着していた口が離れ、そこから漏れた角のある生温かい吐息が僕の鼓膜を撫でる。その快感は理性の緒を切断するのに余りあるほどだった。

 先生がいつ来てもおかしくない。部屋のドアが今にも開くかもしれない。でも、まだ廊下には誰もいない。

 僕は震える右手を彼女の股の間に入れた。汗を搔いているにしては妙にぬるぬるしていた。彼女の腕は僕の右手に添えられ、もう片方で自分の口を押さえて、壁から僕へもたれかかる。僕はとりあえず触りたい所に触れてみたが、この先何をしていいかわからない。

 貧弱な知識のまま中指だけにそっと力を込める。彼女の中に六センチくらい僕が入る。中は外より温度も湿度も高かった。そのまま少し動かすと、マネージャーは背中を丸めて強く腕を押さえた。

 軽く前後するだけで彼女は仔犬が虐められているような声を出し、体を何度も跳ねさせる。僕は下半身が痛かった。彼女の太腿に擦り付けると痛みは増したが、気持ちよくもあった。いつの間にかぬるぬるは手のひらにまで及んでいた。

 もうどうにでもなってしまえ、彼氏がいようが、見つかろうが、ここまできたらあずかり知る所ではない、と彼女をトイレに連れ込もうと思い立った瞬間、玄関の開く音が届いた。先生だ。

 玄関の扉が閉まる。二階へ近づいてくる。足取りは鋭利だ。マネージャーは急いで僕から離れ女子部屋のドアに手をかけた。微量に漏れる照明が月明かりめいて、彼女の顔を青白く照らす。金色の錦鯉を掴み損ねたような相貌を浮かばせていた。

「ごめんね」

 僕が声をかける暇もなく、彼女は月明かりに吸い込まれる脱兎に転じた。

 足音が階段を上ってくる。早く部屋に戻らないと不味い、しかし僕は逆方向のトイレに走った。腰下の存在主張が仰々しいまま部屋に戻れば、王子より奇天烈な称号を貰いかねない。

 僕はトイレの個室に隠れて鍵を閉めて隠れた。案の定、先生は大丈夫かと声をかけてきたので腹が痛いと嘘を吐き、一難を乗り切った。


 先程マネージャーは部屋に戻る際、訳のありそうな顔をしていたけど、周りから勘繰られていないだろうか。思えば向こうの顔が確認できたということはこちらも見られていたかもしれない道理で、僕はどんな顔をしていたのか、そして布越しとはいえ、この元気なモノを晒してしまったと気づいて急に恥ずかしくなってくる。相手の内腿にこすり付けておいて、今更だ。

 僕を辱めた犯人は目下、反省の色はない。しつこい凶悪犯、彼を更生させないと部屋に戻ることは叶わない。僕は便座に腰掛け、彼女へ入っていた中指をそっと撫でてから、小鼻にあてがう。

 仄かに酸っぱい匂いがした。口内に指を含んでも味気なかったが、少量のぬめりが回復し、彼女の秘所に直接僕の唇が触れているような気がしてくる。同時にキスをしていた時の彼女の匂いや体の柔らかさを思い出し、股でくすぶっている凶悪犯を撫でると秒殺だった。

 僕は勢いよくトイレのドアを汚す。そして一瞬の快楽の代償にしてはとても釣り合いの取れない、途方もない虚無が襲ってくる。自我を喪失したままトイレットペーパーを巻き取り、ドアにこべりついた白いぬるぬるを拭き取った。僕の放ったそれにまだぬめりのある中指を塗ってみると、彼女を犯しているみたいでゾクゾクした。


 翌日、マネージャーは普段通りに振る舞い、その後も何気なく部活をこなし、それから僕達の関係は凪のまま卒業した。数年後、マネージャーはその時の彼氏と結婚したと風の噂に聞いた。

 僕は大人になった今でも、ふとこれを思い出し、あの「ごめんね」の意味を考える。彼女も高校時代を偲ぶだろうか、もしかしたらその時は、この追憶が中指一本分くらいは紛れ込んでいるかもしれない。

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