絶望的な戦況と天皇陛下の最終動座地『越乃国戦記 前編(5式中戦車乙2型/チリオツニの開発 1945年夏) 第15話』
■10月21日(日曜日)午後3時 野村練兵場近くの竹林内
チリオツニ1輌に整備兵と補修部品、それに、補給物資を満載して随伴(ずいはん)する2台の6輪自動貨車は、正式名称が94式6輪自動貨車という3軸6輪のトラックだ。
後部2軸の4輪が駆動して泥濘(ぬかるみ)みや礫地(れきち)のような不整地の走行に優(すぐ)れているし、運転席は強度の有る鋼板製の箱型で、極寒の満州(まんしゅう)でも充分に風雪に耐(た)えて運転手は守られていた。
戦略的に価値が薄くて空襲を受け難(がた)い能登(のと)半島の七尾港(ななおこう)や富山(とやま)県の伏木港(ふしきこう)や福井(ふくい)県の三国港(みくにこう)に集められて、中国大陸へ送られる予定だった大量の6輪自動貨車は、極(きわ)めて悪化した戦局で積み込む船舶や安全な航路が無くなった5月頃から、福井県北部や石川県と富山県の駐屯部隊に配備されて多用されていた。
航空燃料の備蓄(びちく)が豊富な石川県では、ガソリンエンジンの甲型(こうがた)が多用され、福井県と富山県では、軽油を燃料とするディーゼルエンジン仕様(しよう)の乙型(おつがた)が防衛陣地構築の資材と人員を運んでいる。
帝都圏では、軍用車の木炭ガス仕様への改造が進められていて、此(こ)の越の国(こしのくに)でも民間のバスや公用車の半分くらいが木炭ガス仕様になっていたが、馬力不足に陥(おちい)るので軍関係車輌への改造は全(まった)くされていないし、第9師団には木炭ガス仕様への改造計画自体が無かった。
--------------------
特命に因(よ)り、便乗させて貰(もら)った双発輸送機が、海南島(かいなんとう)から大陸の沿岸を飛行して降り立った内地の最終目的地、神奈川県の海軍厚木(あつぎ)飛行場で私を迎(むか)えに来たのは、相模原(さがみはら)市の陸軍兵器開発司令部が民間から調達したアメリカ車のキャデラックだった。
出迎えた曹長と供に後部座席に座(すわ)ったが、一向(いっこう)にエンジンが掛からない。
キャデラックは木炭ガス仕様に改造されていて、どうも、着火燃焼が上手(うま)く成(な)されていないようだ。
「おいっ、押すぞ!」
隣(となり)の曹長がドアを開きながら、運転兵の伍長は其の儘(そのまま)に、助手席の軍曹を小突(こづ)いて声を掛けた。
(押し掛けをする気なのか……?)
次にすべき事を察(さっ)した私も降りて車体に取り付くが、降りた軍曹はボンネットを上げて、何やらエンジンを弄(いじ)ると、助手席に置かれていたのか、2本の一升(いっしょう)瓶(びん)の酒をキャデラックの燃料タンクに全部注(そそ)いでいた。
「曹長、いいですよぉ」
「よし、押すぞ!」
曹長の掛け声に、ギアを中立にしたキャデラックを力任(ちからまか)せに押すと、三人(さんにん)に押されたキャデラックが、滑走路の平面を滑(すべ)るように加速しだした。
「今だ! 繋(つな)げろ!」
押されたキャデラックの速度に駆(か)ける足の回転が追い付かなくなる頃合(ころあ)いで掛けた曹長の指示に、伍長がギアを入れると、ガックンと速度が落ちた一呼吸後に、バコッ、ブロロッ、ブロロロッとエンジンが掛かった。
其の軽快なエンジン音は、危険な木炭ガスの燃焼音と全く違って、力強さが溢(あふ)れている。
軍曹はベテランの技術兵で、燃料タンクからの送油管をキャブレターに繋ぎ直すと、ポケットに持っていた薬品瓶に入れたガソリンを直接キャブレターに注(そそ)いでいた。
日本車のエンジンとは違い、シリンダーとピストンの隙間(すきま)が極めて小さいアメリカ製の大馬力エンジンは、木炭ガスが燃焼して残る滓(かす)の煤(すす)を、排気工程だけでは除去(じょきょ)し切れずに、隙間にコビリ付かせてエンジンを止めてしまうのだ。
一升瓶に入れていた液体も、飲んだ事の無い火が点(つ)くような高純度の焼酎(しょうちゅう)などではなかった。
コビリ付いた煤をキャブレターに注いだガソリンで溶(と)かした後は、燃料タンクに入れ終わった一升瓶の中身のハイオクタン価のガソリンで、本来のガソリンエンジンによる走行をしたのだった。
此の一件は、改(あらた)めてアメリカと日本の工業製造技術の差を認識させられ、優れた基礎技術による高品質は、戦争の勝敗を左右する極めて需要な戦略要素だと肝(きも)に銘(めい)じた。
--------------------
5式中戦車乙型2と94式6輪自動貨車は優秀な兵器だが、整備の精度を怠(おこた)ると、忽(たちま)ち息を吐(つ)くようにエンジンは不調になり、行動不能の自滅(じめつ)に至(いた)るのを理解しているからこそ、慎重(しんちょう)に取り扱(あつか)わないと其の強力さを発揮して維持(いじ)する事ができない。
そんなアメリカと日本の基礎工業力の大差に、チリオツニの初撃で怯(ひる)んで後退する敵を追撃して玉砕(ぎょくさい)に至ってしまうという、半(なか)ば自殺に等(ひと)しい敵に餌(えさ)を与える様な戦法は、其れが例(たと)え命令であろうとも、敵陣深く切り込む猪突猛進(ちょとつもうしん)の無謀な突進はしないと心に決めている。
擬装(ぎそう)と守備位置の遮蔽(しゃへい)と位置変更、それに煙幕(えんまく)展開の常用(じょうよう)を徹底させ、侵攻して来るヤンキーの戦車隊を何度も撃退していても、決して攻勢には転(てん)せず、専守防衛に徹(てっ)する戦法は、全梯団員を集めて演習を伴(とも)なう研究と教育を通して理解させ、絶対に突貫(とっかん)玉砕はしないと誓(ちか)わせた。
各車の待機補給陣地には燃料と弾薬を備蓄させ、守備陣地へは深夜に夜這(よば)いさせる事にした。
チリオツニが後退できるのは市街地でも、郊外でも、国道上の線までだ。
それ以上は精々(せいぜい)、路面電車の軌道(きどう)が有る場所か、練兵場辺りまでで、其の奥の山間部へは、チリオツニが通れる道も、場所も無くて、追い詰められて立ち往生すれば、自爆するしかないだろう。
チリオツニが失われると、忽ち金沢市や小松市はアメリカ軍の戦車に蹂躙(じゅうりん)されて、急迫する敵の侵攻に自暴自棄(じぼうじき)になる狂信的で狭隘(きょうあい)な信条の軍人達は、義務で有る守るべき天皇の臣民(しんみん)と日本国土を自(みずか)ら踏(ふ)み潰(つぶ)す、無思考、無策の玉砕戦闘に走り、山間に逃(のが)れる市民達には、『生きて、虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けるな』や『死んで、罪過(ざいか)の汚名(おめい)を残すな』と、潔(いさぎよ)い自決という日本の将来を無にする集団自殺を身勝手(みがって)に強要(きょうよう)して来るだろう。
(それだけは、絶対に避(さ)けなければならない!)
だが、私には目論見(もくろみ)が有った。
(もう直(す)ぐ、遅くとも年末までに、大日本帝国の敗北で戦争は終わるだろう)
(天皇陛下の動座(どうざ)と伴(とも)に長野(ながの)県の松代(まつしろ)の地へ移されたと聞いた大本営(だいほんえい)の陥落(かんらく)は、時間の問題だ!)
(其の時には、市民達に終戦を無事に越えさせて生き続ける様に希望と誇(ほこ)りを持たせていなければならない!)
擬装守備に徹底させて温存(おんぞん)するチリオツニによって、1日でも長く、アメリカ軍の侵攻を阻(はば)めば、必(かなら)ず、市街地も、市民達も守り切り、今度こそ天皇陛下の玉音放送を聴(き)かせて生き残らせる事ができる。
--------------------
チリオツニの配備は、第2中隊の1号車が小松製作所(こまつせいさくしょ)の小松工場を、2号車が小松飛行場を含(ふく)めた粟津(あわづ)工場の防衛を担当する。
大聖寺(だいしょうじ)市の駅前で別れた第3中隊の1号車は、大聖寺町の南外れの城跡付近の待機場所の神社境内へ移動して、福井県と石川県の境(さかい)になる大聖寺川河口の塩屋町(しおやまち)や片野(かたの)砂丘を越えて進攻して来る敵の撃破を命(めい)じている。
軍管区司令部の在(あ)る金沢市の防御は第1中隊が担当し、1号車は金石(かないわ)街道の中程に防衛陣地を構(かま)え、宮腰(みやこし)の漁港辺りからの敵の進軍を防止し、2号車は浅野川(あさのがわ)沿いの鉄道路を守備位置として大野(おおの)の湊(みなと)方面から来る敵を撃退する。
私が乗車指揮する1号車は、海岸線が一望できる寺町(てらまち)台地の上辺に用意されている大乗寺山(だいじょうじやま)の麓(ふもと)に広がる泉野の竹林の待機位置へと移動して、敵の上陸が迫(せま)るまで監視待機する事になっている。
富山県西部の伏木地区と新湊(しんみなと)地区から高岡(たかおか)市の防衛には、高岡市内の古城公園へ第3中隊の2号車が配備と、かなりの広範囲に梯団(ていだん)は分散される事になった。
故(ゆえ)に、統一指揮は困難(こんなん)なので、各中隊長と車長の判断で行動とし、状況は定時と緊急時の報告のみと定め、必要ならば指示を仰(あお)いで私の命令を受ける事とした。
--------------------
広い竹林の中で待機する、私が車長として指揮を執(と)るチリオツニの擬装に使う竹の枝は、この辺り一帯の竹林を所有する地主農家の小作人(こさくにん)達が、毎朝の日課として奥の竹林から伐採(ばっさい)したばかりの真竹(まだけ)や孟宗竹(もうそうたけ)を大八車(だいはちぐるま)に積んで来て、葉が萎(しお)れた竹枝と交換してくれている。
「お早うございます。御苦労様(ごくろうさま)です。10月下旬なのに、朝から日差(ひざ)しが強くて暑いですねぇ」
夏用の薄い生地の黒っぽい国民服を開襟(かいきん)にして着こなす50代後半らしき年配の男性達に、いつもの朝の挨拶(あいさつ)を交(か)わす。
「お早うございます、大尉さん。今年の秋は、いつまでも真夏のような残暑が長引いて、秋らしゅうなんのは、11月の下旬になってからかも知れんがやわ。こんな暑いんは、10月下旬でも、暖流の対馬(つしま)海流が日本海の北の方まで、流れ続けている所為(せい)やからやね。海が暖(あたた)かいからから、台風がみんな、こっちまで遣(や)って来るやろ」
黄海(こうかい)や南支那海(みなみしなかい)からの暖流が、北海道(ほっかいどう)の間宮(まみや)海峡辺りの緯度(いど)の高さまで達し続けていれば、オホーツク海からの寒流やシベリア寒気団の南下は押し戻されるだろうし、寒気帯からの冷気も温(あたた)まってしまうだろうという理屈(りくつ)だ。
「どうして、まだ海が熱いのですかね? 公転軌道の地球の位置が、例年よりも太陽に近いのですかね? 熱帯域の海水の膨張(ぼうちょう)が大きいとか? 日本の地下のマグマの動きが速いとか? 地殻(ちかく)近くまでマグマが上がって来て、そんなのがあって、陸も、海も、温められているのでしょうね」
昨年の後半のレイテ島は、昭和16年12月末に第16師団がフィリピンのルソン島へ上陸侵攻して、昨年の4月にレイテ島へ転進して12月末に脱出するまで、駐留して戦っていた3年間で1番暑いと感じていた。
「やっぱり、地脈(ちみゃく)というんか、地の気というんか、分からんけど、そんなんが動とる所為やがろうか?」
たぶん、赤道付近から大気も、海水も、地殻も熱くなって、熱膨張が治(おさ)まっていないのだろう。
「大きな地震が、鳥取(とっとり)、紀伊(きい)、東海(とうかい)、三河(みかわ)と続いているのも、そんなのが原因で、日本海の海水を未(いま)だに熱くしているのだろうなぁ」
頻発(ひんぱつ)した大きな地震によって、地殻の熱膨張は開放されて、其の歪(ひずみ)は小さくなっただろうが、地殻沿いの海底火山帯は高温の地熱を大量に放出し続けているから、其処(そこ)で温められた海流と海上の大気の所為で、秋の台風の悉(ことごと)くが日本列島を縦断して行くのではないかと、男達と話しをしながら考えた。
「大尉さん。やっぱ今年の秋は短いやろ! 此の調子やと、11月中旬過ぎから肌寒(はだざむ)くなって来てぇ、下旬から月末は急に寒くなってしまうがや、そんで、冷たい時雨(しぐれ)が降り続くやろな。そしたら直ぐに枯葉だらけの色付きの悪い紅葉(こうよう)になってぇ、2,3日で葉は全部落ちて霜(しも)が張るんやわ。12月の初旬になったら、空気に雪の匂いが混ざって時雨(しぐれ)は霙(みぞれ)と霰(あられ)に変わるんやわね。そんで、そのまんま凍(こご)える朝に遅い初雪が積もってるんやろうねぇ」
冬季の軍装の支給を要求しているが、まだ、届(とど)いてはいない。
「木枯(こが)らしも吹かんと、いきなり寒波やねぇ。12月の末(すえ)は大雪んなってぇ、1月になったら、地吹雪(じふぶき)続きでカチンカチンになるがやわ。そりゃあ、寒(さむ)うて、寒うて、大変やわ」
今年は10月下旬というのに、例年になく日の出から日没まで夏並みに暖かく、夜半に涼(すず)しくなるくらいで、昼間は半袖(はんそで)の上着とシャツの夏季戦闘服で過ごせるくらいなのだが、地元の小作人達が言うように、行き成り木枯(こが)らしの吹く秋が来て、あっという間に真冬日(まふゆび)のような寒さになると、発動するエンジンの熱気で温まるチリオツニの中から出られそうもなくなるだろう。
「……霙が降る前に、戦争が終わって欲(ほ)しいと、ワシらは思っとるんやね。冷(つめ)とうて寒い外に出されての正月は嫌(いや)やわ」
戦火が此処まで及(およ)んで、我(わ)が軍が徹底抗戦を続けると、辺りの住居は破壊され、蓄(たくわ)えて来た食糧は尽(つ)き、住民達は雪が積もる冬場を生き残る事が出来なくなって、寒さや飢(う)えで死ぬくらいならと、非力な武器を手に敵陣へ突っ込んだり、自ら命を絶(た)つ自決を選(えら)んだりして大勢が亡(な)くなるだろう。
レイテ島の戦闘では、アメリカ軍に占領された地域の島民達の衣食住は、日本軍が管理していた時よりも豊(ゆた)かになっていたと、食料調達の夜盗(やとう)になって敵の占領地へ行き来していた時に感じていたから、12月になる前に終戦への御聖断(ごせいだん)が下ればと切(せつ)に思う。
「大尉さん……、どうか、金沢を守って下され。戦争が終わんのが冬になってしもうても、帰れる家を残しておいて下され。お願(ねげ)ぇしますだ……」
チリオツニが上空から視認できないように、上の方の笹(ささ)葉(は)を自然な感じにしながら、切り竹を地面に打ち込んだ杭(くい)に結(ゆ)わえている小作人達の話を聞いて思う。
(たぶん、……戦局は、彼らの望(のぞ)む通りになりそうだ……)
--------------------
既(すで)に帝都東京は陥落していて、皇室が動座なされた長野県松代町も関東方面と新潟方面から挟撃される深刻な状態に陥っていると巷(ちまた)で噂(うわさ)されて、『天皇は臣民を見殺しにするのか!』、『もう日本は駄目だ!』と公然と厭戦(えんせん)気分が漂(ただ)よっていたが、2,3日前からは天皇陛下が戦争終結の御聖断を下されると囁(ささや)かれ始め、それまでは防衛戦を断固(だんこ)戦い抜(ぬ)こうの雰囲気になっている。
日本本土全体の防衛戦は非常に切迫(せっぱく)していて、10月10日の深夜に妙高(みょうこう)高原の赤倉(あかくら)温泉や黒姫山(くろひめやま)の防衛線を突破したイギリス軍と、10月6日の白昼に甲府(こうふ)市から諏訪(すわ)湖までの防衛戦を全て破(やぶ)って松本盆地への北進と伊予(いよ)盆地の飯田(いいだ)市への南進、更に野辺山(のべやま)を越え、佐久(さく)盆地を北上して長野市の動座の地へ迫ろうとする意図(いと)を感じさせるアメリカ軍に、大本営は巷の噂の通り、10月15日の未明、松代町(まつしろまち)の地下壕を天皇陛下御家族と共に離れ、小人数の隊に分散して脱出を図(はか)っているそうだ。
天皇陛下御家族と皇族達及び其の従者、そして近辺(きんぺん)警護で同行する近衛中隊らの一行は、長野市近郊の松代御所から戸隠(とがくし)街道を通って神城(かみしろ)村へと抜けて、更に、10月20日には立山(たてやま)連峰の山際(やまぎわ)を青木湖(あおきこ)、大町(おおまち)へと進み、穂高(ほたか)連山の南際から安房(あぼう)峠を越えて岐阜(ぎふ)県の高山(たかやま)市に行き、其処から北へ少し進んだ飛騨(ひだ)地方の丹生(にゅう)地区まで至る道程(どうてい)の半(なか)ばだと、昨日の防衛陣地の構築状況を確認したついでに寄った金沢師管区の司令部で知らされていた。
司令部の師管区参報本部室で私の来た事を知って現れた参報本部長の中佐が敬礼(けいれい)を交わした後、私の手を引いて本部長室へ連れて行き、室内を見回して二人(ふたり)っきりになったのを確認してから話始めた。
「当初、完成した6輌の5式中戦車乙型2は鉄道で長野市へ運ばれて、松代の大本営の防備に配備される予定だった。しかし、新潟(にいがた)県の上越(じょうえつ)市にイギリス軍が上陸し、長野県との県境へと侵攻した為(ため)に移送は非常に困難な状況になってしまった。そして、予想以上に速い東西からの連合軍の挟撃を避(さ)けて大本営は、飛騨(ひだ)地方への動座を決定したのだ。更なる動座に従って5式中戦車隊にも陛下を御守りする為の大町、白馬(はくば)村、飛騨高山への展開が検討されていたが、現時点では其処へ5式中戦車を運ぶ手段が無い!」
陛下御一行は、戦況に由(よ)っては白川(しらかわ)郷へ逃れて庄川(しょうがわ)沿いを下り、五箇(ごか)山(やま)村からは徒歩(とほ)でブナオ峠を越えて、富山県は小矢部川上流の刀利(とうり)の地へ最終的に動座される予定だと聞かされた。
予(あらかじ)め工事を進めていた予備地の刀利が最終の動座の地となり、6輌の5式中戦車は最終的に大本営も置かれる其の地を敵の侵攻から防衛する要(かなめ)として決定されたのだった。
「刀利の地? 陛下が自(みずか)ら御歩(おある)きになられて来られるほどの、動座される其の地は、何処(どこ)なのでしょうか?」
上越に上陸したイギリス軍が信州(しんしゅう)を縦断する最短距離で帝都へ迫ろうとするのは、戦略的に分析(ぶんせき)できる。だが、アメリカ軍が戦略的な価値に乏(とぼ)しい信州へ侵攻して行くのは、やはり、松代の地へ大本営が移った事を知っているからだろう。
厳重(げんじゅう)に秘匿(ひとく)されていた動座の事は、其れなりの立場の政府高官の内通者によって敵に知らされたのだと思う。
身近(みぢか)な者が戦地の砲火や内地での砲爆撃で死に、生き残っている親族や愛(いと)しい人を生き長らさせたいと願うなら、一刻(いっこく)も早く戦争を終わらせたいと考え、……恐(おそ)れ多くも、天皇陛下が統治すべき国体を転覆させて、日本の戦争遂行力を削(そ)いでも構わない……、そんな切ない心情から内通の実行に辿(たど)り着くのは致(いた)し方が無い事であろう。
中佐は更に奥に設(しつら)えてある休息部屋へ私を連れて行くと、顔を近付け声を潜(ひそ)めて最終動座の地について話を進めた。
『其処はな……、金沢市内を流れる二(ふた)つの川の一(ひと)つ、犀川(さいがわ)の源流がブナオ峠だ。そして、もう一つの浅野(あさの)川(がわ)の源流は、湯治宿(とうじやど)が並ぶ湯涌(ゆわく)の温泉地だ。其の湯涌の板ヶ谷(いたがたに)から県境の山を越えた向こうが、加賀藩(かがはん)の統治が終えるまで外界から隔離(かくり)されていた刀利の隠(かく)れ里だ。直ぐ傍(そば)だろう。だから、敵に高岡や金沢を占領させる訳には、ゆかんのだ!」
刀利の地へ富山県側から行くには、小矢部川(おやべがわ)の上流の川幅を狭めて延々と急流にさせる急峻(きゅうしゅん)な深い谷の急斜面を歩いて行くしかなく、そして、其の果てには、外界を拒(こば)んで隔(へだ)てる九十九(つづら)折りの激流を造(つく)り出す最難関の防壁が在った。
次々と行く手を遮(さえぎ)る様に激流の沢の両側から迫る足掛かりの無い絶壁を越えた先に、刀利の桃源郷(とうげんきょう)が広がっている。
曲がりくねる激流の最終部の両側に高く聳(そび)える絶壁を地元では『のぞき』と言われて、外界からの異邦人(いほうじん)を拒(こば)む見上げるばかりに高い城壁の様な垂直の岩盤壁の其処を超えなければ、小矢部川流域から刀利の地に至らないが、金沢市を流れる犀川源流域の倉谷(くらたに)集落と、浅野川源流域の湯涌の温泉地からは峠一つを越すだけで刀利の隠れ里に着くと広げた現流域の地図を見ながら説明された。
「まだ敵には刀利の地を悟(さと)られていないはずだ。敵は多分、飛騨(ひだ)高山(たかやま)辺りに動座の地が在ると考えているだろう」
動座によって移り住まわれる突貫工事中の御在所は、既に庄川(しょうがわ)上流の発電所から山を越えて地下に埋設された送電線で供給されている電力に加えて、現在、余り必要とされなくなった軍事関係への送電を停止した九頭竜川(くずりゅうがわ)水系や長良川(ながらがわ)水系や木曽川(きそがわ)水系の水流で発電した電力は、安易(あんい)な設備で変電されて刀利の工事現場へ送電されている。
刀利の地では地元民と避難民の男手が総動員で昼夜休みなく、人力と手に入る限りの土木や建設の工事機械を駆使(くし)した突貫作業で地下迷宮の建設が進められている。
其処で使い切れない余剰(よじょう)の電力は、北陸の地の各軍需(ぐんじゅ)工場へも送られて増産される防衛陣地用の資材により、多くの対空砲の砲座や噴進砲(ふんしんほう)の拠点(きょてん)の構築、それにロケット推進機(すいしんき)が発進するカタパルトの設置が完成していた。
それでも余剰となる電力は、侵攻して来た敵に占領されてしまった東海地方や一部の関西地方の被災(ひさい)地域へも送電されていた。
地下迷宮の建設の進捗(しんちょく)は一万人近くの人海作業により、岩盤を刳(く)り貫(ぬ)いて造成された太い柱が林立する小学校の講堂ほども有る広い宮殿(きゅうでん)の様な地下壕が、幾(いく)つか完成して地下道で繋(つな)がれているそうだ。
「現人神(あらひとがみ)の陛下と我が国の政府の連中を捕(と)らえて人民裁判に掛け、悪として殺害する事を目論(もくろ)む共産主義のソ連と違って、米英の連合軍は大本営を包囲して戦争を終結させる交渉を行い、陛下の御聖断の御(み)言葉(ことば)で大日本帝国を無条件降伏させるように仕向(しむ)けるだろう」
中佐は私の両肩に手を置き無言で頷(うなづ)かれ、私も無言で頷き返した。
「故に、独立戦車梯団 越乃国の第1中隊は、金沢市を蹂躙して県境への侵攻を謀(はか)る敵を全力で排除(はいじょ)しなければならない。分かるな大尉。尚(なお)、動座と刀利の地は、極(ごく)が付くマル秘で、他言無用(たげんむよう)だぞ」
「承知(しょうち)しました。越乃国梯団は、金沢、いや、刀利の地へ迫る敵を全力で撃滅して、排除します」
金沢市と加賀地域を防衛する帝国陸海軍と臣民による義勇防衛隊の責任は、天皇陛下の最終動座地へ敵を一兵たりとも至らせない徹底防衛が課(か)せられて、更に重大になった。
戦火を逃れる金沢市の大勢の避難民達は最終動座の地に至る街道を山間部へと歩(ほ)を進めている。『越乃国梯団』は、陛下も、逃れる臣民達も、必ず御守りすると覚悟(かくご)と決意を新(あら)たにし、其の気概(きがい)を敵に体感させて怖気付(おじけづ)かせて、大日本帝国の国体と臣民の精神が侮(あなど)れない事を知らしめなければならない。
『越の国戦記 後編 5式中戦車乙2型/チリオツニの奮戦(1945年秋)』へ続く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます