台風16号と連合軍のオリンピック作戦『越乃国戦記 前編(5式中戦車乙2型/チリオツニの開発 1945年夏) 第11話』

■10月4日(木曜日)午前9時 金沢城内の金沢師管区司令部


 4日前の9月16日から九州南部を大暴風域に捕(と)らえた大型台風の16号は、翌17日の午後2時に鹿児島県の枕崎(まくらざき)辺りに上陸して猛烈な暴風と豪雨で甚大(じんだい)な被害を齎(もたら)したと、金沢城内に在る金沢師管区司令部まで出頭して越乃国(こしのこく)梯団(ていだん)の配置計画を報告した際(さい)に知らされた。

 金沢師管区司令官の藤田進(ふじたすすむ)陸軍中将は、『これぞ正(まさ)しく、2度の元寇(げんこう)から日本を救った、神風(じんぷう)だ』と、同席していた金沢連隊区司令官の越生虎之助(こしぶとらのすけ)陸軍中将や副官と参報達と当初は喜んでいたそうだが、九州を斜めに横断した進路のままに広島から岡山と通って日本海へ抜け、更(さら)に、勢力を弱めながら能登半島と東北地方を横断して18日の午後には太平洋へと列島から遠ざかった、其(そ)の枕崎台風と名付けられた昭和9年以来の大型台風の被害は、外敵のアメリカ軍を撃退するどころか、日本への被害が余りに大きくて今は意気消沈していた。

 昨日までの我が帝国陸海軍と傍受した連合軍の無線交信から得て聞かされた情報では、9月10日に鹿児島県の西岸の吹上浜(ふきあげはま)と東岸の志布志(しぶし)湾へ大挙(たいきょ)して上陸したアメリカ軍が吹上地区と串良(くしら)地区に布陣して、善戦しながら後退する我が軍の3式中戦車を主力とした、第18、第37、第40、第43の各戦車連隊を次々と撃破していた。

 鹿児島市を包囲する形で合流し、更に、日向灘(ひゅうがなだ)の南部に上陸した連合軍とも合流して鹿児島県を九州の防衛圏から分断したが、台風の御蔭(おかげ)で戦闘は中断していた。

 防衛最前線の九州は土砂崩(どしゃくず)れと冠水(かんすい)の続出で各防衛拠点への連絡と交通は途絶して、殆(ほとん)どの拠点陣地は孤立してしまった。

 九州南部を占領するアメリカ軍のオリンピックと名付けられた作戦は、鹿児島県の分離で一旦(いったん)終了するはずだったが、朝鮮半島南部に迫るソ連軍の脅威(きょうい)に早められたオリンピック作戦は、作戦計画の九州南部だけでは停止せずに続行され、斥候(せっこう)や上空からの偵察で調べ上げた無事な幹線道路や進撃路で宮崎県北部へ、そして、一部のアメリカ軍は阿蘇(あそ)山の外輪山脈を越えて熊本県北部へ進軍した。

 暴風域が去って酷(ひど)い時化(しけ)だった海上が落ち着くと、退避して侵攻を停止していたアメリカ軍の陸兵は、退避海域から戦闘艦と共に戻って来た上陸用艦艇に乗り込み、留守部隊しか居ない銃後の後方域へ上陸して橋頭堡を確保した。

 それからは、陸上を進軍して来る部隊と合流して次々と防衛隊拠点を各個撃破包囲する計画だったが、何処(どこ)も彼処(かしこ)も洪水と土砂で九州全域の酷い災害状態にアメリカ軍は侵攻を止めている。だが、足止めされるのは、精々10日間から2週間程度だ。

 台風の被害が整理されてアメリカ軍が進撃を再開すれば、瞬(またた)く間に九州は占領されるだろう。

 だから、大分県と福岡県の県境から久留米(くるめ)、鳥栖(とす)から有明海(ありあけかい)まで、我が軍は防衛線を築(きず)こうとするだろうが、台風の被害で資材や兵員の移動は進まず、3週間後と予想されている機械化されたアメリカ軍の攻撃を防御するのには間に合わない。

 北海道の北方域は、歩兵中心の第7師団と宗谷(そうや)海峡や津軽(つがる)海峡を守備する要塞(ようさい)部隊しかいないオホーツク海沿岸が、千島(ちしま)列島と樺太(からふと)島から南下して来たソ連軍に猿払(さるふつ)、小清水(こしみず)、天塩(てしお)の海岸へ上陸されていて内陸への侵攻を始めているらしい。

 其処へロシアの南下を防止する様に東南域の函館(はこだて)と苫小牧(とまこまい)に急遽(きゅうきょ)上陸したアメリカ軍の急進撃によって、北海道は日高(ひだか)山脈を境(さかい)に南北に分断占領されそうになっているらしい。

 帯広(おびひろ)に駐屯している戦車第22連隊は北方面のソ連軍と南方面のアメリカ軍に挟撃(きょうげき)される状況となり、両方面へ広く展開しなければならなくなった3個大隊の全戦車は防衛線を突破しようとする強力な敵戦車群を、地形を利用した掩体壕(えんたいごう)の中で待ち伏せをする状態での至近距離からの狙(ねら)い撃ちと火炎瓶(かえんびん)や重い対戦車地雷を抱(かか)えた肉弾攻撃をする歩兵部隊の強固な防御に拠(よ)って拒(こば)んでいた。

 台風の被害が少ない北海道は、台風が来ないオホーツク海からと台風の影響が殆ど無いウラジオストックやナホトカなどの日本海沿岸の港湾都市から、道北へ上陸したソ連軍部隊への補給は途絶(とだ)える事無く行われているが、台風の強風で海上が大時化(おおしけ)になる太平洋側から上陸したアメリカ軍は、しばしば補給が中断されたのと戦車第22連隊第3大隊の果敢(かかん)な反撃に依(よ)って道東、道北への進攻が遅延(ちえん)してしまい、ソ連軍を上陸した地域に留(とど)めて置ける状態にはなっていない。

 このソ連軍の素速(すばや)い道央への進撃による北海道分断占領化は、大日本帝国が降伏した後の連合国による日本領土の分割統治地域に大きく影響して、アメリカは酷く後悔する事になるだろうと、そんな予見が私の脳裏(のうり)を過(す)ぎた。

 朝鮮半島も満州国を蹂躙(じゅうりん)した後、補給線を整(ととの)える為(ため)に一旦は停止していたソ連軍の大群が攻め込んで来て、繰り返しの後退で防衛線を強化していた関東軍の諸部隊や戦車連隊に朝鮮方面軍の防衛拠点を次々と各個撃破されて、とうとう現在は大邸(デグ)市の防衛線まで南下されての激戦中だそうだ。

 このような朝鮮半島の戦闘状況は司令部で傍受(ぼうじゅ)した連合軍将兵へのラジオ放送で知り、半島南端の釜山(プサン)市や百済(くだら)の地は、イギリス軍やアメリカ軍の上陸に備(そな)えているが風前(ふうぜん)の灯(ともしび)の様だ。

 九州と朝鮮半島の中間に在る対馬列島は、既に上陸して守備隊と戦闘中のイギリス軍に任(まか)せ、ソ連軍が九州北端の玄界灘(げんかいなだ)や響灘(ひびきなだ)へ上陸する前に、九州北部と山陰(さんいん)地方へ速(すみ)やかに進軍して占領させる計画だと言っていた。

 作戦機密に抵触(ていしょく)する連合国のラジオ放送の大胆(だいたん)な内容は、既に進軍状態がラジオ放送の発表内容以上に達成していて、充分に作戦計画の完遂(かんすい)を見通せるからなのと、ソ連に日本本土への上陸を躊躇(ためら)わせる為だと察せられた。

 福岡(ふくおか)、博多(はかた)まで進軍されれば、朝鮮半島の南端に追い詰められているだろう日本軍には、最早(もはや)、降伏か、玉砕かの選択しか残されていない。

 東北地方の太平洋側はアメリカ軍が、日本海側はイギリスを中心としたオーストラリア、ニュージーランド、カナダの軍が加わるイギリス連邦軍が上陸を始めて、水際撃滅を狙(ねら)った我が軍の反撃は全(すべ)て粉砕されたとも、傍受した敵の放送は言っていた。

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 戦禍(せんか)で疲弊(ひへい)していた関東地域や東海地方の兵器製造は台風被害で決定的に貧窮(ひんきゅう)し、とうとう携行(けいこう)する武器弾薬の製造は停滞(ていたい)してしまった。

 消耗する武器弾薬の補充を断(た)たれた我が本州防衛部隊は、全戦線で壊滅(かいめつ)状態になって内陸へと後退戦闘中だが、まだ敗走状態にはなっていない。

 最早(もはや)、留まって持久戦を行う為の恒久(こうきゅう)陣地を構築する資材も、時間も、武器弾薬も、そして、気力の余裕は全(まった)く無かった。

 人海戦術(じんかいせんじゅつ)頼(たよ)りの捨て身の自爆攻撃と完全擬装(ぎそう)の待ち伏せ戦と後方撹乱(かくらん)の激しい戦闘で必死に防戦していたが、アメリカ軍は著(いちじる)しく侵攻速度を鈍(にぶ)らせながらもジリジリと占領地を広げている。

 ソ連軍を本州へ上陸させない為にイギリス連邦軍は、既に佐渡島(さどがしま)を9月4日に機械化部隊を上陸させると、僅(わず)か3日間の戦闘で全島を占領すると2ヶ所の飛行場の建設を急速に進めて9月28日には完成した飛行場からとイギリス海軍機動部隊の航空機に支援された陽動(ようどう)と思われる上陸作戦が強行されていた。

 新潟県の大河津(おおこうづ)分水路河口の寺泊(てらどまり)の浜への敵の上陸が陽動(ようどう)だと疑(うたが)われたのは、強行上陸した兵力がイギリス軍コマンド部隊3個大隊程度で後続する上陸も無かったからだ。だが、コマンド部隊の動きは速く、翌日の9月29日の夕刻には弥彦村(やひこむら)までを占領、別の浜へ主力が上陸して北方や東方へ進撃するまで、我が軍の反撃を防(ふせ)いでいた。

 更に10月1日、新潟県西部の上越(じょうえつ)の海岸に主力と思われる5個師団以上の敵兵力が上陸し、柏崎(かしわざき)の海岸と糸魚川(いといがわ)の砂利(じゃり)の浜へは、それぞれ1個師団が上陸して新潟市方向の信濃平野や長野県との県境(けんきょう)へ侵攻中だ。

 防備の薄い地点に殆ど無抵抗で上陸した敵の主力は、強力な反撃も無く県境へと迫っていたが、県境の妙高(みょうこう)山・赤倉(あかくら)山・黒姫(くろひめ)山が連(つら)なる妙高高原で、信州各地の高原の秘匿(ひとく)飛行場から飛び立った我が軍の航空機と日本帝国陸軍第12方面軍の戦車部隊と機械化部隊の激しい反撃に敵の侵攻は停滞していた。

 糸魚川から内陸部へのイギリス軍の侵攻は小谷村(おたりむら)から白馬(はくば)・大町(おおまち)方面への山峡(さんきょう)に連なる峠で、地元民で結成された国民義勇戦闘隊の勇士達の頑強(がんきょう)な抵抗に阻(はば)まれている。

 10月6日に鳥取県へ上陸したアメリカ軍は橋頭堡を確保しただけで、山陽(さんよう)、四国(しこく)、関西(かんさい)、紀伊(きい)、東海(とうかい)へは瀬戸内海(せとないかい)と伊勢(いせ)湾を無数の機雷と激しい空爆で封鎖(ふうさ)していて、敢(あ)えて上陸後の侵攻はしていない様子だった。

 これで、年明けに松代(まつしろ)の大本営が陥落(かんらく)して虜囚(りょしゅう)となった日本政府と大元帥閣下(だいげんすいかっか)が無条件降伏すれば、アメリカやイギリスなどの連合国は、決して占領したばかりの朝鮮半島全土だけでは納得していないソビエト連邦軍の更なる南下侵攻で北海道から東北地方までを占領する企(たくら)みを阻(はば)んで、北海道全土の譲渡(じょうと)と中国大陸での資本主義市場の足掛(あしが)かりの場にしたい朝鮮半島の南部との交換占領の条件で、小賢(こざか)しくてズルいソ連に譲歩(じょうほ)した事にして、ソ連による日本の本州以南の共産化を拒んでくれるだろうと、私は考えている。

 もし生き残れたら、神州日本の大八洲(おおやしま)が津軽海峡で南北に分断統治される事を知るだろう。

 しかし、北海道を手放(てばな)してまで朝鮮半島の南部を支配するのは、近い将来、非常に後悔する事になると、朝鮮の釜山市から満州(まんしゅう)国の奉天(ほうてん)市の駐屯地へ列車移動した時の停車駅の雰囲気(ふんいき)と車窓(しゃそう)からの風景の違いに感じた、長い中国の属国支配の歴史からの朝鮮族の儒教(じゅきょう)に依(よ)る支配学からの無知と小中華思想からの自尊(じそん)心(しん)の強さに、近代化への思想を浸透(しんとう)させるのは困難だと溜め息(ためいき)を吐(つ)きながら考えていたのを思い出していた。


つづく

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