5式中戦車乙2型の防衛地域と平和な日常『越乃国戦記 前編(5式中戦車乙2型/チリオツニの開発 1945年夏) 第8話』

■昭和20年8月22日(水曜日)午後3時 小松製作所小松工場


 小松(こまつ)製作所で製作中の6輌の5式中戦車乙型2は完成後、1輌が富山県(とやまけん)呉西(ごせい)地域の産業の中心で鋳造(ちゅうぞう)工業都市の高岡市(たかおかし)の防衛を主任務に新湊(しんみなと)と伏木(ふしき)の町の間に設(もう)けた守備位置への派遣(はけん)と、2輌が北陸3県の軍管区を統括(とうかつ)する軍都の金沢市(かなざわし)の防衛に鉄道移送され、3輌は小松飛行場と近辺(きんぺん)の小松製作所の諸工場(しょこうじょう)を機動防衛する為(ため)に、小松市の今江潟(いまえがた)や柴山潟(しばやまがた)の周辺と大聖寺町(だいしょうじまち)の外(はず)れに在(あ)る擬装(ぎそう)した掩体壕(えんたいごう)に待機させる事になった。

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 自分が乗車指揮を執(と)る第1中隊の『チリオツニ』101号車は、金沢市内を流れる犀川(さいがわ)の河口に在る漁港の金石(かないわ)の町と金沢駅近くの白銀町(しろがねちょう)を、一直線に結(むす)ぶ金石(かないわ)街道沿いの北町(きたまち)と藤江町(ふじえまち)の間を通る植樹帯の中から待ち伏せ攻撃をする事になるだろう。

 アメリカ軍が軍都金沢を攻略(こうりゃく)する価値が有る地だと判断して、其(そ)の為の地域情報や地理情報を得(え)ているならば、海岸沿いの砂丘地帯から金沢市の市街地へ至(いた)る最短ルートが見通しの良い金石街道で、戦車などの重量車輌が問題無く通行できる道路も、道沿いに電車軌道が敷設(ふせつ)された金石街道しかないと分かるはずだ。

 金沢市北西の大きな内灘(うちなだ)砂丘近くの粟(あわ)ヶ(が)崎(さき)町から金沢駅まで、浅野川の土手(どて)沿(ぞ)いにも電車軌道が敷設(ふせつ)されていたが、周囲に蓮(はす)や蒲(がま)の穂(ほ)が茂(しげ)る背が立たないほど深い底無し沼のような湿地(しっち)が多いのと、土手上の道も30tを越える重量車が連(つら)なっての走行に耐(た)えられそうもない。

 だからといって、上陸作戦に用(もち)いた軽い水陸両用戦車で侵攻して来れば、累々(るいるい)と骸(むくろ)を晒(さら)したレイテ島の帝国陸軍戦車隊のように、火力も装甲も貧弱(ひんじゃく)な水陸両用戦車は容易(たやす)く撃破され、敵の内陸侵攻作戦は頓挫(とんざ)してしまうだろう。

 石川県(いしかわけん)は七尾港(ななおこう)の在る七尾湾が、数回に渡って500個ほどの機雷(きらい)が投下され、何隻が激(はげ)しく損傷している以外は、能登(のと)地方にも、加賀(かが)地方にも、1発の爆弾や焼夷弾(しょういだん)が落とされていなかった。

 手取川(てどりがわ)水系と大聖寺川水系で水力発電された豊富な電力で、各工場で複数の電気をフル稼動(かどう)させ、居並(いなら)ぶ大型水圧プレス機械と多数の工作機械の加工音の響(ひび)きで工場が唸(うな)っていた。

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 昼前には繁華街(はんかがい)に平時と変わらず商品が並べられ、市場も豊富とはいかないが、多くの生鮮食料品が売られて、飲食店も普段通りに営業している。

 昼下(ひるさ)がり、道行く人達の服装は、着物が4割、作業服と洋服が3割、国民服が2割、学生服が1割で、駅周辺の商店街や市場での軍服は少数しか見掛けなかったが、第9師団司令部と第7連隊司令部の在る金沢城跡と県庁と警察署が並んで市役所と向かい合う金沢市の官庁街では、多くの陸軍の軍人が往来(おうらい)していた。

 市内の野町(のまち)という市電駅の近くに在る津田駒(つだこま)という大きな軍需企業と関係取引の工場群には、陸軍と海軍の軍人が頻繁(ひんぱん)に出入りしていたし、海軍が軍都に指定した小松市の役所街や小松製作所には、特に海軍軍人が多く、関連する軍需工場や会社にも、大勢の海軍の軍人が出入りしていた。

 小松飛行場の周辺は、民家に寝泊まりしている実戦部隊の搭乗員や整備兵を主体とした海軍の兵隊ばかりだった。

 家庭婦人は皆(みんな)、着物かモンペ姿だったが、女学生達の半分くらいが女学校の制服のスカート、職業婦人達も多くがスカートを穿(は)いていて、大東亜戦争開戦当時のようなモダンというか、華(はな)やかな雰囲気(ふんいき)だった。

 女性達が全員モンペ姿で勢揃(せいぞろ)いするのは、召集(しょうしゅう)されて行う屋外の野良(のら)仕事や土方(どかた)の人夫作業の時ぐらいだ。

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 髪型も帝都圏では贅沢(ぜいたく)だとか、敵性だとか、言われて避(さ)けられているパーマの女性も普通に歩いているのを、あちらこちらで見ていて、行き交(か)う誰も彼もが気にも留(と)めず、非国民と叫(さけ)んで咎(とが)める者は誰(だれ)もいなかった。

 低空で練習飛行をする海軍機と、大量に生産される兵器の部品の他は、大日本帝国が大きな被害(ひがい)を被(こうむ)っている戦争の非常時とは思えない平和な日常で、『此処(ここ)は、本当に戦時下の日本なのか?』と、心底驚(おどろ)いていた。

 勿論(もちろん)、戦時だから大勢の男子が出征(しゅっせい)していて、いなくなった彼らの会社や工場や役所での仕事を、家庭婦人会の女性達と勤労(きんろう)動員された高学年の小学生から高等学校までの男女の全生徒が、引継(ひきつ)ぎながら軍事教練にも励(はげ)んでいる。

 国民徴用令(こくみんちょうようれい)、労務調整令(ろうむちょうせいれい)、学校卒業者使用制限令、国民勤労報国協力令(こくみんきんろうほうこくきょうりょくれい)、女子挺身勤労令(じょしていしんきんろうれい)の5勅令(ちょくれい)を一(ひと)つに纏めた国民勤労動員令が昭和20年の3月6日に公布(こうふ)・施行(しこう)された事によって、勤労動員された生徒達は学校へ通(かよ)う事が無くなり、教員共々、国民勤労動員令が解除されるまで各種の軍需産業や生産業に従事(じゅうじ)する事となった。

 同時に郷土防衛(きょうどぼうえい)組織の国民義勇隊も編成されたが、新(あら)たに6月22日に公布・施行された義勇兵役法で国民義勇隊の多くが民兵組織となる国民義勇戦闘隊(こくみんぎゆうせんとうたい)となって、敵と交戦する直接的な戦闘に投入できる様になった。

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 各家庭と各事業所に工場の敷地、公園と土手(どて)には防空壕や避難壕(ひなんごう)や掩蔽壕(えんぺいごう)が掘(ほ)られ、鉄道の引込み線は擬装網で覆(おお)って隠(かく)していたし、苗(なえ)を植(う)えれそうな土地は何処(どこ)でも田畑(でんぱた)にされていた。

 掲揚(けいよう)する日の丸や旭日旗(きょくじつき)と戦意高揚(せんいこうよう)の横断幕などは最低限の少なさで、高空を敵機が通過する度(たび)に空襲警報のサイレンが鳴(な)り響(ひび)いて煙幕(えんまく)が覆(おお)ってくれたし、日没(にちぼつ)から夜明(よあ)けまでは灯火管制(とうかかんせい)で真っ暗(まっくら)になっている。

 目に映(うつ)るそれらも、非日常性の緊迫感(きんぱくかん)は無く、街や住人達の雰囲気は全(まった)くの平時の喧騒(けんそう)と自由な感覚で、北陸地方の治安(ちあん)は良好だった。

 憲兵隊(けんぺいたい)は警察や特高(とっこう)と通称される特別高等警察から依頼が有っても、軍や軍関係以外には出動せず、反体制や反戦の厭戦(えんせん)意識を煽(あお)るアジ演説とビラ配りなどを実行する活動家は、直(す)ぐに警察や特高が捕(と)らえていたが、憶測(おくそく)や噂(うわさ)や誘導(ゆうどう)からの決め付けで不起(ふき)の者を拘束(こうそく)する事は無かったというよりも、この時期、巷(ちまた)では市民が逆に警察や特高の動きを警戒(けいかい)して監視(かんし)しているように思えた。

 天皇陛下の長野への動座が噂され出した9月頃から、関東に上陸した敵軍が大挙して帝都に侵攻している事に、大日本帝国政府と大日本帝国陸海軍への燻(くすぶ)っていた批判が一気に高まり、銃後では厭戦ムードが広がった。

 此処に至るまで人命の犠牲と精神主義に頼(たよ)るだけの不甲斐無(ふがいな)い政府は国民達から信用を失(うしな)わせて、役人の職務を果たせなくなって来ていた。

 国家体制の転覆(てんぷく)を企(くわだ)てる共産主義者や宗教の原理主義者と軍事機密の流失や敵性国家に協力する敗北主義者、治安を乱(みだ)す犯罪者などの悪い市民を治安維持で取り締まって検挙(けんきょ)していれば良いのに、困窮(こんきゅう)する生活や政治不信を愚痴(ぐち)るだけで殴(なぐ)る蹴(け)るの暴行の末に捕縛(ほばく)する事に対して、明(あき)らかに市民達が結束(けっそく)して声高に批判が叫(さけ)ばれる様になり、公安の安寧(あんねい)を担当する高等警察、一般に特高と呼ばれる警官達は個別に大勢の市民による人事不省(じんじふせい)になる程(ほど)のリンチを受ける様になってしまった。

 この末期的な時勢には、憲兵隊も同様に脱走兵やふしだらな兵隊や窃盗(せっとう)や刃傷沙汰(にんじょうざた)などの犯罪を犯(おか)した兵士を取り締まっていれば良いのに、批判や愚痴でスパイ容疑を懸(かけ)て拷問(ごうもん)するのには、結束した市民達の反感を食らって半殺(はんごろ)しにされていた。

 切迫(せっぱく)する戦局は、誰もが『なるようにしかならない』と自覚して淡々(たんたん)と日々を営(いとな)ませる状態に、過度(かど)な取締りが逆に、大規模な反戦のサボタージュと国家転覆(こっかてんぷく)の破壊工作を行う過激(かげき)な抵抗運動を誘発(ゆうはつ)すると考え直した官警は、基本法規の遵守(じゅんしゅ)を優先させて国民の生活の安全と財産保護に徹(てっ)するようになっていた。

 北陸(ほくりく)の人々は、この過酷(かこく)な戦況を理解して、戦争の終結が近い事を察(さっ)していた。

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 いずれ、この越(こし)の国の北陸にも、圧倒的な兵力の敵が上陸して来て淡々(たんたん)とした日常は終わり、いかに我々が勇猛果敢(ゆうもうかかん)に抗(あらが)い戦おうとも、強力な敵の物量攻撃に山奥深くまで追い詰(つ)められて蹂躙(じゅうりん)されてしまい、鬼畜米英(きちくべいえい)に抵抗し続ける限り、日本民族は根絶(ねだ)やしにされるだろうと、言葉や文字にしなくても誰もが思っていた。

 『一億玉砕(いちおくぎょくさい)』という本土決戦での徹底抗戦(てっていこうせん)が決定した以上、直ぐに本州と九州の太平洋側へアメリカ軍は上陸して来るだろう。

 身を挺(てい)して切り込む日本人達と死闘を繰(く)り返しながら、迅速(じんそく)に内陸へと戦火を拡大して行く。

 関東は年末までにアメリカ軍が、帝都の市街地へ南北から侵攻(しんこう)して来ると考えている。

 そうなると、完全に包囲(ほうい)される直前の1月早々(そうそう)には、天皇陛下が東京の皇居(こうきょ)から長野県(ながのけん)埴科郡(はにしなぐん)松代町(まつしろまち)の大規模地下壕へ動座(どうざ)して、大本営も一緒(いっしょ)に移設する計画だと聞かされていた。

 其処(そこ)も、やがて連合軍に包囲(ほうい)されて完全に逃(に)げ場を失(うしな)ってしまうだろうと、私個人は考えていた。


つづく

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