回想 玉砕寸前のレイテ島からの脱出 『越乃国戦記 前編(5式中戦車乙2型/チリオツニの開発 1945年夏) 第4話』
■昭和20年8月16日(木曜日) 神奈川県 相模陸軍造兵廠
自分は、滋賀県(しがけん)高島郡(たかしまぐん)朽木村(くつきむら)針畑(はりはた)から出征(しゅっせい)した帝国陸軍中尉、邑織(むらおり)染二郎(そめじろう)。
数(かぞ)えで27歳、満では25歳になったばかりだ。
山頂まで耕(たがや)した棚田(たなだ)の稲作(いなさく)と林業と絹糸(きぬいと)作り、それに、紫色の染料(せんりょう)になる草の紫(むらさき)の採取(さいしゅ)で辛(かろ)うじて生業(なりわい)を立てている山間の貧村から、昭和13年の春に赤紙で召集(しょうしゅう)されて以来、歩兵第16師団の野戦砲兵隊で従軍(じゅうぐん)して一兵卒(いっぺいそつ)から少尉までの昇進を駐屯地と戦地で熟(こな)した叩(たた)き上げの士官だ。
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昨年の10月20日過ぎから12月末頃までレイテ島の東岸から西岸へ後退しながら、たった1門の機動90式野砲を引き摺(ず)り回してアメリカ軍と死闘を繰(く)り返し、M4シャーマン戦車5輌と短砲身の榴弾砲(りゅうだんほう)を装備した2輌の軽戦車、それに水陸両用戦車2輌の戦果を上げた。
其の後(そのご)、野砲は後退戦の挙句(あげく)にリモン峠の争奪戦で破壊され、部下の兵士は全員、戦死か行方不明(ゆくえふめい)になってしまった。
最初はタクロパン市の南方海岸に上陸したアメリカ軍を中隊本隊の放列から離れた場所の水際で迎(むか)え撃ち、艦砲射撃で半数にされてしまった中隊残余の砲列の発砲に呼応(こおう)して、数艇の接岸して倒し開く寸前の上陸用舟艇の前扉へ榴弾(りゅうだん)を命中させ、中にいた敵兵達を吹き飛ばした。
更(さら)に接岸しようとする大型の揚陸艦(ようりくかん)の喫水線(きっすいせん)直下や艦橋に数発の命中弾を与(あた)えた後(あと)、続々と上陸して来る敵に押されるようにパロの町の西郊外の隘路(あいろ)へ独自判断で移動して物陰に潜(ひそ)み、後退して来る味方を援護して2輌のM4戦車を側面から狙(ねら)い撃って炎上させた。
此(こ)の時の撤収準備中に、再(ふたた)び、艦砲射撃を受けた中隊は、私が指揮する砲以外の全門が破壊されてしまった。
中隊主力から離れていた御蔭で爆風に飛ばされただけの自分や部下達は掠(かす)り傷程度の軽傷だったが、砲を牽引(けんいん)させる馬匹(ばひつ)の4頭の内、2頭が死んだ。
強い爆風と衝撃(しょうげき)で私の首から掛けていた双眼鏡と地図入れと腰の拳銃(けんじゅう)は無くなり、官給品の日本刀も弾片(だんぺん)の命中で鞘(さや)ごと折れてしまった。
中国大陸の戦いとは全く違う間断(かんだん)無く続く重砲弾の大爆発で呆然(ぼうぜん)として仕舞い、其の激しい放火のの洗礼は自暴自棄(じぼうじき)に陥(おちい)りさせて爆発で掘り返された土の穴の中へ蹲(うずくま)りそうになる。
耳が千切(ちぎ)れそうな大音響と上下左右に激しく揺(ゆ)さ振(ぶ)られる振動と潰(つぶ)されそうな風圧に耐(た)え切ると、身体に染み付いた日頃の訓練と掻(か)い潜(くぐ)って来た幾多の戦闘体験と拝命(はいめい)からの使命感によって逃亡しそうになった神経が徐々に立ち直り、そうなると戦場で使える刃物や銃を携行(けいこう)していないと不安で仕方が無くなり、亡(な)くなった中隊の兵から銃剣と99式小銃を拝借(はいしゃく)した。
既(すで)に、中隊の生き残りは散り散りになって、大隊本部とも連絡が付かないまま、私は独断で残った2頭の馬に砲を牽引させて後退しながら同様の戦闘をパストラーナ、ハロ、トゥンカの各町を出た郊外の自動車道の脇に潜んで行い、更に、2輌のM4戦車と榴弾砲装備の軽戦車1輌を撃破して北の港町のカリガラへと逃(のが)れた。
この頃から友軍の撤退援護よりも、撃破したが炎上しなかった敵戦車から、敵の制圧砲撃が始まる前に飲食物や武器弾薬を奪(うば)うのが目的となっていて、足回りを破壊して停止させた敵戦車の側面の弾薬庫が無い場所を狙い、2、3発、炸薬(さくやく)を抜(ぬ)いた徹甲榴弾で貫通させてやると、乗員達は我先に乗車を捨てて逃げて行った。
其の後は急いで車外の収納箱の中と車内の隅々(すみずみ)まで物色(ぶっしょく)して持ち去った。
アメリカ軍の戦車兵達は装備が良く、彼らの携行武器は重さと強い反動で扱(あつか)い難(にく)かったが、威力(いりょく)は有った。
戦車や車輛内には武器弾薬と生活物資が一杯で、2、3回の襲撃に拠(よ)って、我が小隊の兵隊達はアメリカ軍の武器を持って戦うようになり、アメリカ軍の食い物で生き長らえていた。
最早(もはや)、『畏(おそ)れ多くも、陛下から御借りしている銃を捨てるとは……、非国民だ……』などと、咎(とが)めたり、嘆(なげ)いたりする部下は一人(ひとり)もいない。
我が砲兵小隊の兵士達に支給されている銃は、口径6.5㎜の38式歩兵銃ではなくて、より威力の有る口径7.7㎜の99式短小銃だったが、操作は同じ整備性や耐久性に優(すぐ)れる1発ずつ弾(たま)を込めるボルトアクションで発射速度も同じだった。
99式小銃は口径7.7㎜と弾丸が大きて重くなった分、ほぼ全長の同じ38式歩兵銃よりも発射の反動が大きくて、次弾の装填と発射に支障が有ったのに、より取り回しを良くする為に銃身を短くして軽くした99式短小銃は、更に反動が大きかった。
重い大砲や砲弾を扱う砲兵は、歩兵よりも逞(たくま)しい体格で99式短小銃を難無(なんな)く射ち熟していた。
99式短小銃の口径7.7㎜は、アメリカ兵の小銃の7.62㎜の口径とほぼ同じだったが、弾丸の威力はアメリカの小銃の方が優(まさ)り、装弾数も多かった。しかし、捕獲(ほかく)した小銃の反動は99式短小銃よりも強く、不意の遭遇戦での慌(あわ)てた連続射撃の照準は、とても不正確になった。
射撃操作の多さに因(よ)る時間の損失が大きな問題で、射撃後のコッキングレバーを起こしてからボルトを後ろへ引いて空薬莢を排出し、それからボルトを前進させながら次の弾を押し込むとレバーを下げてロックする、このボルトアクションの38式小銃や99式小銃の5発装填では、どんなに装填と操作を急いでも、1分間に15発の連続射撃が限界だった。
それに比(くら)べてアメリカの小銃は、クリップに挟(はさ)まれた8発の弾丸を弾倉へ装填後も、クリップを抜き取らないまま半自動で射撃ができた。
この半自動射撃は照準したままに、1発毎(ごと)に引き金だけを引く事で8発全弾の連続発射ができる。
1分間の連続射撃では100発以上にもなり、撃ち尽くすと自動でクリップが飛び出て来て、装填し易いように弾倉内を空(から)にした。
故(ゆえ)に、装填射撃する弾薬が豊富に有れば、当然、小隊の誰もが戦闘と略奪で生き残る為(ため)に自(みずか)ら、長い銃身に取り回しが邪魔で威力の小さな38式歩兵銃や連続射撃が出来ない99式短小銃を埋(う)めて、性能の良い半自動射撃ができるアメリカ製の小銃や短機関銃に交換装備していた。
ただ、敵の小銃の弾丸はクリップに挟(はさ)まれたまま弾倉に込められているので、弾倉を打ち尽(つ)くす前に弾の補充(ほじゅう)はできず、空(そら)になってクリップが飛び出ないと新たな8発を装填できなかった。
ならば、『敵が逃(に)げたなら、逃げた方向へ残り全弾を撃ち掛けろ。倒れている敵兵に止(とど)めを刺(さ)せ』と、私は命じていた。
止めを刺し回っている最中(さいちゅう)に弾切れになれば、新たなクリップを装填する前に残りを銃剣で始末(しまつ)するようにと強く言い添(そ)えている。そして、たぶん敵も同じ事をしている筈(はず)の、其(そ)の命令は部下達に忠実(ちゅうじつ)に守られていた。
カリガラは素通(すどお)りして、より西方の北海岸のクラシアンの町の前面に陣取り、上陸する2輌の水陸両用戦車を破壊してから、マナガスナスの湊町へ後退して、更に、1輌の榴弾砲装備の軽戦車を仕留(しと)めた。
其の夜の内に撤退する輜重隊(しちょうたい)のトラックに牽引させて貰(もら)い、曲がりくねったリモン北峠の隘路(あいろ)へ機動90式野砲を運び上げ、擬装した掩体壕の中で待ち伏せをしている。
小隊の部下達は戦闘と調達で半数以下になっていたが、奪った敵の銃での食料と武器の強奪調達は、概(おおむ)ね上手くいって、健康状態と体力は保っていた。
リモン北峠に敵が迫るまで交代で遊兵(ゆうへい)となり、何度も敵の単独で前進する分隊を包囲して襲(おそ)い、見付けた物資集積所を夜間に強襲して成功していたのは、奪った敵の銃からの射撃音が味方の発砲だと敵が思い込んでいた所為なのと、交戦相手は全(すべ)て撃ち倒し、更に銃剣で止めを刺して殺害確認までして来たからだと思う。
一度、敵兵と銃剣で遣(や)り合い、組み伏せられて首を切られる寸前に、取っ組み合いでは長くて扱(あつか)い難(にく)いゴボウ剣と呼ばれる黒染めの銃剣を、何とか相手の肋骨(ろっこつ)の下から心臓へ刺し入れて生き残っている。
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ソロモン諸島やニューギニアや南洋諸島の戦況の噂を聞く度に日本帝国の破竹(はちく)の勢いは破綻(はたん)して、逆に押し戻されていると察(さっ)していた。
歴戦の勇猛果敢で優秀な我が軍を挫折後退させるには、優勢な兵力に強力な兵器を大量に使用しなければならない筈だが、其の余裕の戦力が有るからこそ、アメリカ軍は反撃しているのだと考えていた。
だから、中隊長に『水際撃退から内陸撃滅に作戦が変更された時の為に、拠点陣地になりそうな場所を調べて来ます』と進言して許可を貰い、4名の直属の部下を伴(ともな)って輜重隊のトラックに便乗し、予定のハロの町よりも先のリモン北峠まで、後退戦で活用できそうな場所と協力的な集落を調べて来ていた。
調査の結果、陣地に適した場所は多く、1ヶ所に留(とど)まって防戦するよりも、守備位置を頻繁(ひんぱん)に変えて後退しながら待ち伏せ戦闘を行えば、敵に多大な損害を与えられそうだと考えていた。
リモン北峠の戦闘では迫り来る敵のM4戦車の先頭車を連続射撃で炎上させたが、終に後続車からの集中射撃を浴びて、砲と生き残った部下の全てが吹き飛ばされてしまった。
ただ一人、飛び込んだタコツボの御蔭で私は生き残ってしまい、其の後は、西海岸のオルモックへ後退する第16師団の残余や、真西のビリバヤの海岸方面へ転進する第1師団や第102師団の主力からワザと逸(そ)れ、第1師団の敗残兵連中と一緒(いっしょ)にリモン北峠付近で遊撃的な戦闘を繰り返して、アメリカ軍やフィリピンゲリラから糧秣(りょうまつ)と武器弾薬を強奪していたが、12月22日頃に『撤収(てっしゅう)作戦が有るから西海岸まで撤退(てったい)しろ』との命令を知り、第1師団が移動したビリバヤよりも、海軍の部隊が多く展開していると聞いていた北方の漁港を目指して一人、アメリカ兵の下士官から頂戴(ちょうだい)した磁石と地図を頼(たよ)りにジャングルを大急ぎで進んだ。
途中、大怪我(おおけが)を負(お)って拳銃で自決した二人(ふたり)の降下部隊員の真新(まあたら)しい死体を見た。
二人の装備は良く、たぶん、援軍であろうが、白い絹(きぬ)のマフラーを首に巻(ま)いた空の神兵達は何時何処(いつどこ)に舞い降りるつもりだったのか分からないが、被弾して墜落する輸送機から脱出したのかも知れない二人に、クソ重いアメリカ軍の短機関銃と拳銃を、彼らの南部式拳銃と全長の短い自動小銃に交換して貰った。
このアメリカ製の武器よりも軽くて発射速度も速い自動小銃は、試(ため)しに草叢(くさむら)の1本道(いっぽんみち)で遭遇したゲリラを狙って短連射してみると、100m程の距離で見事に命中して、頭を粉砕(ふんさい)するくらいの命中率の良さと威力が有った。
其の銃声を聞き付けて、ワラワラと道脇から湧(わ)き出て此方へ駆けて来るゲリラ達も30mまで引き付け、30発弾倉の残り全弾を装弾不良の故障を起こさずに叩(たた)き込み、其の全員を撃ち倒す事ができて信頼できる銃だと分かった。
年の瀬の12月29日の夕方に漸(ようや)く辿(たど)り着いたタバンゴの港では、撤収(てっしゅう)する海軍高官御一行様(ごいっこうさま)を助けてタバンゴの沖合まで迎(むか)えに来た哨戒艇(しょうかいてい)に便乗した。
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タバンゴの町外れには、既に、アメリカ軍の偵察部隊が到着していて、敵兵達を迂回(うかい)して港へ行くと、行李(こうり)荷物を持って撤収中と思われる帝国海軍の将校達と、それを尾行するアメリカ軍の斥候隊(せっこうたい)を見付けた。
夕闇に紛(まぎ)れて10数mの近さまで背後から躙(にじ)り寄って、弾倉内の弾丸を全部発射する長い連射を浴(あ)びせ、一気(いっき)に敵の斥候隊をバタバタと倒して一掃(いっそう)しながら海軍御偉方(おえらがた)御一行様に近寄り、アメリカ軍の接近を知らせると、彼らは丸太を組んで重ねた周囲を大石で補強しただけの桟橋(さんばし)に接岸待機していた装載短艇へ急いで乗り込み、其の後に付いて飛び乗りると、直(す)ぐに短艇は沖の哨戒艇へと発進した。
無賃乗船をさせてくれた哨戒艇では、便乗代(びんじょうだい)として、雑納(ざつのう)をパンパンにして持っていたアメリカ軍から奪った糧食の全(すべ)てを差し出した大盤振る舞いは、大いに喜ばれて歓迎(かんげい)された。
夜通しの全速航行でビザヤ海からミンドロ海峡を抜け、更に南沙(なんさ)諸島、西沙(にししょう)諸島と、幸いにして海上が時化(しけ)るような熱帯低気圧に遭遇する事も無く島伝いに南支那海(みなみしなかい)を北上して、中国本土の最南端に在る海南島(かいなんとう)に無事に着けたのは今年の1月中頃だった。
この形振(なりふ)り構(かま)わずの撤退で、強力な兵器の物量で攻(せ)めて来る敵に有効な抵抗手段は乏(とぼ)しく、防衛守備ではなくて場当たり的な攻撃を命じる作戦指導部に不信を抱(いだ)いてしまい、言葉や態度には露(あら)わさなかったが、やさぐれた気持から厭戦(えんせん)気分に陥(おちい)り、気概(きがい)と覇気(はき)は無くなってしまった。
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海南島の海軍三亜(さんあ)飛行場でレイテ島からの撤収を師団司令部へ報告した三日(みっか)後、帝都の大本営から命令が無線で届いた。
撤退命令に従(したが)ったとはいえ、玉砕(ぎょくさい)や自決(じけつ)もせずに敗戦のレイテ島から単身脱出した下級将校などは、早く外地で死なそうと、次の玉砕戦になりそうな島嶼(とうしょ)や、大陸奥地の共産党ゲリラの討伐(とうばつ)や、北満州での最果(さいは)ての国境警備に行かされるだろうと考えていたのに、電文内容の『関東相模原の陸軍技術研究所へ出頭しろ』には、非常に驚(おどろ)かされた。
この大本営命令によって、ただちに輸送機の搭乗席が用意され、香港(ホンコン)、廈門(アモイ)、上海(シャンハイ)、済州島(サイシュウとう)、厚木(あつぎ)と双発の輸送機を乗り継いで、2月1日には研究所司令部へ出頭できた。
其処(そこ)で、新たな命令の砲兵から戦車兵への転属を言い渡され、最初は東富士の陸軍演習場で2ヵ月間の短期実技強化修練を受け、次に千葉市黒砂(くろすな)町の千葉陸軍戦車兵学校で幹部候補生として小隊長教育と敵戦車撃滅の必勝戦法を重点とした教育を、学校の教官達が第28戦車連隊の構成要員となる7月まで受けていた。
実技修練と幹部修練の卒業後に中尉への昇進が有り、おって命令が有るまで実戦経験と受講修練を活(い)かした指導教育をして欲しいとの事で、富士宮(ふじのみや)市の陸軍少年戦車兵学校で教官を勤(つと)めていた。そして本日、新たな命令受領に出向(でむ)いた司令部で、新型戦車の車長を兼(か)ねた新設の戦車部隊の長に任命(にんめい)された。
其の思い掛けない拝命(はいめい)は、やさぐれた気持ちを正(ただ)して厭戦気分を一気に晴(は)らし、熱情で私を満たしてくれている。
つづく
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