衣夜先生敵対事変(下)「がらんどうのあたま」

(なんだ!?何が起こってる!?)

 伊織は青ざめながら、オカルト研究部の部室に走っていった。界里も慌てて後を追う。

 部室の中、衣夜がいた机の上は相変わらずごちゃごちゃしていて、ここは変わらず伊織の記憶していた通り──ではない。ここに書いてあったはずの、衣夜の名札がない。伊織の背中にぞわ、と悪寒が走るともに、嫌な汗が出てくる。全速力で理科室に走る。

 理科室のバックヤードには、これも記憶の通り、ありえないほど高価な光学顕微鏡や、ありえないほど大量の薬瓶がずらりと並んでいる。しかし、その薬瓶の一部は、ラベルに手書書きされた文字が──これは、漢字なのか、いや──解読できない文字にすり替わっている。読もうとしても、何故かぐわ、と頭が揺れて、吐き気がして…読み進めることができない。

 衣夜がいた証は、確かに残っている。しかし、何かが改ざんされてしまった世界みたいだ。

 何が起きているのか全くわからないが、何か怪異な存在の仕業であることには違いない。そして、そんな怪異な事件の解決こそ、オカルト研究部の真髄である。

 その日の放課後、授業終了のチャイムが鳴ると同時に、伊織と界里はオカルト研究部の部室に直行した。皆に状況を知らせなければならない。伊織は、大きな音が鳴るのも構わず、部室のドアを開け放つ。

「皆!ちょっと頼まれてほしいんだが──!」

「あ、黛先生!界里も、ちょうどいいところに!」

 伊織の声を遮るように話し出したのは、ノートパソコンにかじりついている誠一郎だった。

「っ、どうした」

 ひとまず自分の言葉を飲み込んで、訊き返す。

「ここ最近、掲示板『ゼロの目』に依頼が相次いでいて…というか、止まらなくて。一人でも多くに、依頼にあたってほしいと思っていたところなんです」

「依頼?どんな?」

「それが、全て共通点があって。行方不明事件なんです。場所もすべて、宵山の付近で」

「「よいやま……!?」」

 伊織と界里の声がぴったりと重なった。

 画面を覗いてみる。ある依頼は人間から、これはゼロから…依頼者は性別も年代も種族もバラバラだが、確かに皆一様に、宵山で誰かが行方不明になった旨を投稿している。

「……ちょうど、宵山の方で調べたいことがあったんだ。今から行ってくる…!」

「ぼくも!衣夜せんせーのこと、しらべないと!」

 話しながら、伊織と界里はもう部室を出ようとしていた。

「いよせんせい…?」

 きょとん、という顔をする誠一郎。そうか、誠一郎でさえ、そうか。

「──急ぐぞ、由田」

 伊織は振り返らず、界里の手を引いて、部室を飛び出す。

 二人は、宵山にある例の廃神社を目指して、走り出した。




「はぁ、はぁ……」

 少し荒い息で、再び廃神社の境内にやって来た伊織。背中には界里が乗っている。

「せんせーごめんねぇ、大丈夫?」

 足を止めた伊織の背中から降り、申し訳なさそうに、心配そうに声をかける。

「たしかあの時、花簪先生は拝殿の方へ行ったはずだ……」

 あそこに何かあるのか?伊織は、界里を庇うように前に立ちながら、そろり、拝殿の中へ足を進める。

 拝殿の奥、その向こうに、本殿が見える。その本殿に。

 誰か、いる。

 それを確認するや否や、伊織と界里の脳が揺れた。後頭部を何か鈍器で殴られたようだ。薄れゆく意識の中、界里は、大きい人影と目が合ったような気がした。




 どれほど気を失っていただろうか。

 ひんやりする、どこかの床の上で、伊織が目を覚ました。

「……?」

 場所はわからない。が、目の前には木製の格子。檻の中に閉じ込められているらしい。雰囲気は和風の──いや中華の──いや、わからない。馴染みのあるような無いような、奇妙な造形だ。

「ッ、由田!!無事か!?どこにいる!?」

 ガバ、と勢いよく体を起こし、とっさに大声を出す。まだ少し頭の後ろが痛むが、ずれた眼鏡をかけなおして、周りを見渡した。

「あれ?ここどこ…?あっ伊織せんせー!せんせーも大丈夫?」

 どこかぼんやりとしたような顔をしているが、無事だったようだ。界里もゆっくりと起き上がる。

 ──ギィ。

 二人の声を聞いたのか、扉を開けて誰かが入ってきた。

 人間と比べたら、ずいぶんと高い背丈。着流しのようなものを着ているように見えるが、その体は全身が桃色。本来髪の毛がある部分からは、代わりに肌と同じ桃色の触手が生えている。伊織と界里は、これが本で見たあの“花蛸”であると直感した。

 その花蛸は、伊織と界里の方を観察するように見てから、手にした紙に何かを記している。

「……誰だ…!?」

 伊織は咄嗟に尋ねた。初めて見る、花蛸という妖怪。しかし見覚えはある。特にその、黄緑色の目は……

「いよ、せんせー…?」

 自信なさそうに呟いた界里も、伊織と同じことを考えていたようだ。

「……。知らない人物の名前を俺に聞いてきた。ふうむ、記憶の混濁が起きているのかもしれないな」

 ぼそぼそと呟きながら記録を取っている。その声色なんて、特に聞き馴染みがあるのに…“知らない人物の名前”とはどういうことだ?……覚えて、いないのだろうか。

 二人が怪訝そうな顔をしているのを気にも留めず、妖怪はさっさと部屋から出ていこうとする。

「ま、待て!衣──アンタは、何のために俺たちをここに連れてきた?目的はなんだ!?」

「ぼくたちを調べてるの…?他の人がいなくなっちゃったのもみんなそう?」

 喚く二人を見ても、妖怪は感情を見せない。

「悪いが、お前たちの質問に答える気はない」

 そう言って、その場を去る。すぐに、扉の閉まる音がした。

 冗談じゃない。残された二人は、何とか檻から出ようと画策する。鍵がどこにあるかはすぐわかったのだが、当然のごとく鍵は掛けられており、開けることができない。伊織はおろか、界里の人並み外れた握力をもってしても、びくともしなかった。伊織が一つ舌打ちをした。

 そのとき、再び扉が開く音。妖怪が帰って来たのか──と思ったが、現れたのは、黒髪のショートカットの少女だった。そのセーラー服から察するに高校生のようだが、伊織も界里も見知らぬ学校のものだ。

「…えっと。大丈夫…?」

 おどおどとした声。伊織も界里も、聞きたいことが山ほど浮かんだが、浮かびすぎて、うまく言葉にならずに固まってしまった。それを見た少女が続ける。

「えっとね…私も…あの妖怪に捕まっちゃって…。なんとか逃げ出せたんだけど……。入り組んで分からなくて……それで、声が聞こえたからここにきたの」

「あ、ありがとう…」

 伊織は、少女の顔をまじまじと見て言った。

「君、よく無事だったな…今、衣──あの妖怪とすれ違っただろう?」

「あ、えと。それは」

 もごもごと口ごもる。

「あの妖怪さん……背が高いから……。しゃがんで隠れてたら見つからなかった…みたい。そ、そうだ。…開けてあげるね」

 かちゃん、と、金属の音がした。

 鍵が開いている。

「ありがとう!助かったよー!」

 界里はぱあっと笑顔になって、檻から出る。

「ぼくは界里!こっちは伊織せんせーだよ!きみは?」

「あ、えと。えと。……おくふみ…みこ…です。」

 少女──みこは、ペコリと頭を下げた。

「……。黛伊織だ、よろしく」

 界里に続いて、檻を出る。なぜあんなにもあっさりと檻の鍵を開けられたのか、ひょっとするとオカ研部員のように何か特殊な能力を持った人間なのか。疑問は残るが、少なくとも、自分たちと敵対する気はないのだろう。ひとまず行動を共にした方が良さそうだ。

「ここがどこで、どれぐらいの広さなのか全く分からない。この施設内を調べるというよりは…ひとまず、あの妖怪の後を追ってみたい」

 伊織は、衣夜らしき妖怪が出て行った扉の方に目をやった。

「そうだね!どこ行ったんだろう?」

 界里は、そう言った途端に扉を開けて部屋から飛び出す。

「あ、待て、おい!」

 界里を追いかけるように、伊織とみこも部屋を出た。




 入り組んだ廊下を、灯篭のような照明が照らしている。

 さっきからだいぶ歩いている気がするが、見かけるのは不規則に曲がって入り組んだ廊下と、不規則な形の部屋ばかり。窓は一つも見たことがない。ひょっとすると、ここは地下なのかもしれない。

 あの妖怪の後を追うにも、建物内がこれでは、進んでいるのか戻っているのかさえよくわからない。

──ぎゃぁああああぁぁぁ………!!

 ふと、遠くからと唸り声のような雄叫びのような叫び声が響いてくる。複数の声が混ざったような気持ちの悪いもので、聞いているだけで正気が削られそうだ。

「!?何が起こってる…!?」

 もしかして、自分たちのように閉じ込められた何かの悲鳴ではないだろうか。伊織の脳裏に不安がよぎる。

「ついてきてくれ!」

 界里とみこに告げて、走り出した。

「うん!行こうみこちゃん!」

「う、うん…。」

 界里はみこの手を取って、伊織を追いかける。




 声のしたほうへ向かっているつもりだが、とにかく入り組んでいて行き止まりも多く、思い通りの方向に進めない。

「ぜんぜんつかないねぇ…」

 そう言った界里はもう、ずいぶんのろのろとした足取りになっている。

 そうしてかれこれ数十分歩いただろうか。ふと、本棚で埋まっている部屋を見つけた。部屋の入口の柱に、「書庫」と書かれた木札が貼ってある。

「もしかしたらここに…何か手がかりがあるかもしれないな」

 伊織は、後ろの二人に目配せする。

「調べ物するの?ぼくも手伝うよ!」

 明るく返事をする界里。黙ってうなずくみこ。三人は書庫に入っていった。

 最初の収穫は、入ってすぐ。目の前の壁に、この建物の地図と思われるものが貼られている。これは剥がして拝借することにする。

 それぞれ、本棚を物色し始めた。生物の図鑑、妖怪の図鑑、薬品の名前がずらりと書かれたもの。どうやらここの本棚には、科学とオカルトに関する書物が膨大に並んでいるようだ。あの花蛸という妖怪に関する本か、もしくは誠一郎が言っていた一連の宵山神隠し騒動にまつわる本もあれば、なおのこと良い。

 伊織は、本棚から一冊の本を引き抜いた。多くの本が日に焼けて黄ばんでいるのに対し、この本だけやけに新しい紙だったのが目を引いたのだ。

 表紙には「妖怪製造研究記録」とあった。本を開いてみる。大量の人間、妖怪、怪異、幽霊の記録がずらずらと記されている。すべて手書きだ。そして、何か設計図と解剖図を合わせたような、得体の知れない図が描かれている。これも手書き。もしかして、この本を書いたのはあの妖怪で、ここはそいつの研究所なのかもしれない。

「おい、ちょっと見てくれ、これ──」

 伊織の言葉の最後は、バサバサバサ…!!という派手な音にかき消された。

「わああ〜っ!いたた…ごめんなさーい!」

 伊織が音のした方を振り向くと、床にこんもりと積みあがった本の山から、界里の頭がのぞいていた。

「っ、ハァ……由田、大丈夫か…?」

 やれやれといった表情を見せつつも、何事も考えすぎてしまうタイプの伊織は、界里にどこか救われたような気持ちになったのが正直なところだ。

 この書庫を丁寧に片づけてやる義理もないのだが、界里はすっかり埋まっているし、このままでは調べる作業もままならない。「妖怪製造研究記録」はひとまず小脇に抱え、駆け寄ってきたみこも加わって三人で、ぶちまけた本を棚に戻していく。順番はでたらめになっているだろうが、そこまでは構っていられない。

「あ、そうだ!」

 界里が、本の山の中から一冊を掴み上げた。

「ねーねー、この本に、“オカルト研究部”って書いてあったよ!衣夜せんせーの日記じゃないかなぁ?」

「何?どれ………」

 表紙をめくると、確かに見慣れた筆跡。だが、日付と内容から察するに、ずいぶん前の──伊織が進礼高校に赴任してくるよりもずっと前のことから、日記は始まっている。何ページかかいつまんで読んでみることにした。


196〇年○月×日

進礼高校の裏で、幽霊を一体発見。亡くなって間もないため、実験用に採取。


197〇年○月×日

進礼高校に生徒として紛れ込んでいた妖怪を採取。実験は失敗に終わったが、臓器の一部は保管しておくことにした。


197〇年○月×日

進礼高校に、オカルト研究部なるものが設立された。実験材料を効率よく回収できる可能性があると判断し、同部活の顧問となった。


198〇年○月×日

オカルト研究部の部員たちの中には、俺が人間ではないと見抜いている者がいるらしい。人間ではないと知って平然と接してくる人間は珍しい。


20〇〇年○月×日

今後のオカルト研究部の活動方針を聞かされた。部員の柊君が掲示板で怪異に関する依頼を募って、部員皆で解決にあたるそうだ。


20〇〇年○月×日

オカルト研究部の合宿に、顧問として参加する羽目になった。面倒だが仕方ない。こうなったら楽しんだもの勝ちだ。


20〇〇年○月×日

今回の依頼は異星人との戦闘があってだいぶハードだったらしい。黛先生が一緒だったから、万が一のことがあってもなんとかなるだろうとは思ったが…ともかく、生徒たちに怪我がなくてよかった。


20〇〇年○月×日

今回の依頼は、漁火君と当たることになった。途中で能力を使おうとしたものだから、冷や汗をかいてしまった。時々こうして無茶するから困る。研究材料が得られなかったのは残念だが、ゼロと和解して依頼者側も喜んでいたので…今回はまあ良しとしよう。


20〇〇年○月×日

黛先生と酒を飲んだ。下戸過ぎて面白い。ムービーを撮っておけばよかった。しかも、酔っているときの記憶もなくなるらしい。何を言っても忘れてくれるなら…たまに弱音を吐きたいとき、家にお邪魔するのもいいかもしれない。


 伊織とのエピソード以降は、ページが根元からびりびりに引きちぎられて無くなっている。その破れた部分が、まるで今の衣夜の心を映しているような気がして…伊織の胸がズキ、と痛んだ。

「──ね!これ、絶対衣夜せんせーのだよね!」

 界里の声で、我に返る。

「……あぁ、そうだな」

 答えて、伊織は表紙をもう一度確認した。衣夜の名前でも書いていないかと思ったが…代わりに見つけたのは、読めない文字。漢字の知識の問題ではなく、読もうとすると眩暈と耳鳴りと吐き気が襲ってきて、物理的に読めないのだ。だが、なんとも気味が悪いこの感覚、以前どこかで……そうだ。理科室の、ラベルだ。

「…ってことは、これも衣夜せんせーが書いたのかなぁ?あのね、この日記の近くにあった本なんだけど…」

 界里が本の山からもう一冊取り出してくる。題字は「暮井市の民俗学」。あの日、伊織と界里が図書館で読んだ本と同じものだった。

「ここに書いてある文字、日記と似てるよねぇ?」

 界里が開いたページは、目印にしたのか端が折られていた。そして下の方に、「まだ、力は残っているはず。お願いする。」と走り書きがある。確かに先ほどの日記とよく似た筆跡だ。

「…本当だ。お願いする、って一体──」

 伊織は、眼鏡の位置を直してから、ページの内容を黙読し始める。


よるしるべのみこと【縁記命】

宵山に棲むと伝えられる、女性の神様。縁を切ったり結んだりすることができるとされる。縁記命を祀るために作ったとされる神社が宵山に残っているが、その起源は現在もわかっていない。縁を切るため、あるいは結ぶために、代償として宵山周辺の巫女の血を捧げる風習があったという記録が残っている。


「アイツは、この神様に願い事をしたってことか…?」

「やくれ……」

 伊織のセリフにちょうど重なるようなタイミングで、小さく、みこが呟いた。

「──え?」

 訊き返す。

「あの妖怪さん、夜紅さんっていうんだ……そっか…」

「…そんなのどこに書いてあった?」

 尋ねる伊織。みこは、先ほど伊織が持ってきた「妖怪製造研究記録」の裏表紙、「亱紅」という手書きの文字を指さした。なるほど、表紙ばかり見ていて、こちらは見落としていた。──いや、しかし。

「これを、なぜ咄嗟に読めた…?」

 多分、形的に旧字体ではないか、とは思うのだが。自分より確実に幼いはずのみこが、この漢字をすらりと呼んだことに、違和感を覚える。

「え?…あ、あ。えっと……」

 みこは明らかに動揺した。何か隠そうとしているのは間違いない。だが、それでも攻撃するそぶりは見せず、ただうろたえているだけである。敵意のない相手をここで問い詰めても仕方がない、と、伊織は判断した。

「……いくつか、めぼしい本を見つけられたと思うんだが…これらの本の内容とか、夜紅について知ってることは…何かないか?」

 特に何かを咎めることなく、三冊の本を手に、みこに尋ねる。

「そうですね……えっと。夜紅さんについてはよくわからないです…。けど、このご縁の神様は…」

 そこまで言って、口籠った。どこか申し訳なさそうな顔でうつむいてしまう。が。

「この、よるしるべのみこと?って神さまのこと?この神さまがどうかしたの?」

 そんなことには気が付かない。訊きたいことは訊くのが由田界里である。

「あ。えっとえと。ええと……」

 再びうろたえるみこ。あちゃ、と眉間を押さえた伊織だったが、今のこの状況では、気遣いだの遠慮だの言っている場合ではないのも事実だ。

「………すまない、他言はしないから、どうか教えてくれないか。手がかりが欲しいんだ」

 伊織の口をついて出た“手がかり”とは、ここを出るためのものか、あの妖怪を捕まえるためのものか、それとも──

「そうです…ね。この神様…は──」

 そう言ってしばらく固まる。

「……今回の一件を解決できる、かも。でも…もうだいぶ祀られてないので力が足りないんじゃないかな…と思うんです。だから、どうにかするには、霊力や魔力が強い人……例えば、あの妖怪さんを神社に……、さ、捧げるしか……ない…のかも…、しれないです……」

 最後の方は、ほぼ聞き取れないくらい小さくなっていた。

「そうか、…教えてくれてありがとう」

 とても「ありがとう」とは程遠い表情で、伊織は言った。あの妖怪を、捧げるしかない。それが意味することは、もちろん。

「そうなんだぁ。みこちゃんは物知りさんだね!」

 界里は相変わらず、天真爛漫な笑顔をみこに向けている。

「え?うん……。ありがとう……」

 みこがうつむきがちにそう言った時。

 足音がした。

「逃げ出しやがって……。あの二人どこに行ったんだ?全く……」

 廊下の向こうから聞こえてきたその声が思いの外近くて、三人は身をすくめる。

「近づいてくる…!」

 伊織はあたりを見回す。ここで部屋から逃げ出したところで、建物の構造がよくわかっていない自分たちの方が明らかに分が悪い。咄嗟に界里とみこの手を引いて、本棚に隠れた。

「…大丈夫…多分…ここまでこない…ので」

「ほんと?よかったぁ〜。でもなんで?」

 界里は小首をかしげながら、真っ黒な目をみこに向ける。

「あっ」

 みこが言い淀んでいる間に、足音は遠のいていった。

 安堵の息をついたところで、伊織はみこの目を見て言う。

「…やっぱり、まだ何か隠してることがあるんだな?」

 詰問するような形になってしまった。しまった。つい怖い顔になっていなかっただろうか…。

「えっそうなの?みこちゃん、何か言えないことがあるの?」

 きょとんとした顔の界里が、みこを覗き込む。

「あの。えと……。うう…」

 黙ってしまった。沈黙が流れる。

「………と、とにかく。皆無事でよかった。あいつは確か…こっちに行ったよな」

 空気を誤魔化すように、伊織が言った。見つかって捕まるのは困るが、あの夜紅とかいう妖怪がこれから何をするつもりなのかも気になる。伊織は先ほど壁から剥がしておいた地図を広げた。

「追ってみてもいいか」

「はーい!みこちゃん、さっきはありがとう!行こっか!」

 界里は、みこの手を取って歩き出した。

「うん…」




 書庫を通り過ぎて、その方角で夜紅が向かいそうなところと言えば、この地図にある「研究所」だろうか。

 相変わらず入り組んだ廊下ではあったが、やはり地図がある分スムーズに到着することができた。

 伊織が扉に手をかける。鍵がかかっていない。このまま開けることはできそうだ。しかし。

 扉の奥から声が聞こえてくる。先ほどの、聞く者の正気を削るあの声だ。迂闊に入っていくのは危険な気がする。

「少しだけ、中を見てみる…。何かあったらすぐ逃げられるように、少し離れててくれ」

 扉をほんの少しだけ開けて、中を覗いた。


 向こうに、得体の知れない化け物がいる。


 生き物と生き物をつなぎ合わせた肉の塊のような、吐き気を催すものがそこにいる。

 人間の手らしきもの、妖怪の顔らしきもの、巨大な魚の目のようなもの、おびただしいパーツが集まって、うぞうぞとそれぞれに動いているように見える。


「………っう…!?」

 思わず口を覆った。見たものを後ろの二人に説明しようとするが、なんと形容していいのか難しい。見たこともないおぞましさだった。

「何か…生き物のようなものが、見えた…。妖怪だか、人間だが、わからないが…わからないというか…ごちゃごちゃに…つなぎ合わされてる…」

「なにそれぇ?そのごちゃごちゃさんがさっき叫んでたってこと?」

 さすがの界里も、少し青ざめる。

「そう…なのかも……」

 言いかけて、みこは「あ」と目を丸くした。

「…もしかしたら。……あの、捧げものは妖怪さんじゃなくても」

「お前ら、そんなところにいたのか」

 三人が声に振り返る。あの妖怪が──夜紅が目の前に立っている。逃げ場がない。あるとすれば、目の前の研究室だけだ。伊織は、界里とみこの手を引き、研究室に飛び込んだ。

「うわあーっ!でっかいごちゃごちゃだあーっ!!」

 部屋の奥、どう見ても十メートル以上ある肉の塊が、木製の巨大な檻に閉じ込められている。よく見ると、檻にしめ縄のようなものがくくりつけられていた。魔力的な封じ込めも行っているのだろうか。

「出口を探してるんだろうが、ここにはない」

 夜紅は研究室に入るなりそう言って、後ろ手で扉を閉めた。

「…ッ、この、化け物はアンタが作ってるのか…?なんの、ために…?」

 出口がないことは薄々わかっている。伊織は、半分時間稼ぎのつもりで訊いた。

「……。お前らには話してやろう。核として使うんだからな」

 そう言って、上の方を見る。

「ここの真上に、縁記命という神を祀っている神社がある。…と言っても、信仰も薄まった今じゃあ廃れ切って、肝心の神格もいない…つまるところ、席が空いているわけだ」

 伊織が眉をひそめる。先ほどのみこの話では、縁記命は現在弱体化しているということだったが…もうすでに消滅してしまったのだろうか。

「だから、お前らの血液を代償にして、あの俺が作った化物を神格にできないか、と考えたわけだ。かつては、巫女の血を捧げていたらしいが…これだけ霊力魔力があれば、男二人でも大丈夫だろう」

 ………男“二人”?いぶかしげな顔をした伊織には構わず、夜紅は話を続ける。

「まあ、神格なんてそう易々できるものではないだろうが…失敗は成功の母とも言う。仮に失敗しても、これだけの魔力が詰まってるんだ、何度でも挑戦できるさ。何より、成功した時どうなるか気になって気になってしょうがないんだ!!知りたいことは実際に調べないと気が済まないんでね!」

 夜紅は、好奇心に満ちた少年のような顔をして話す。それが、この不気味な空間にあまりにもそぐわなくて、伊織はゾッと背中を震わせた。

「さて、ちょうどよく来てくれたし。本題に取り掛かろう」

 夜紅は、その場にあった、何に使うのかもわからない鉄製の器具を手に取る。そして、真っ青になって小さく震えているみこと、その手を取って固まっている界里に向き直った。

「ッ、待て、やめ──」

 伊織は夜紅を取り押さえようと飛びかかったが。

 ──ガツ。

 重たい音がした。振り向きざまに夜紅に殴られ、伊織の視界がぐわ、と揺れた。そのまま視界は暗転していき…体が床に倒れる。神社からこの建物にさらわれたあの時と同じだ、と思い出す。

 そうだ、もう一つ思い出した。

 あの時、本殿にいた“誰か”は。

──みこだった。

 それを思い出したところで、伊織は意識を失った。




「えと…起きてください……」

 みこの囁く声。

「………っ、」

 強打されたであろう後頭部をさすりながら、伊織がむくりと体を起こした。

「みこ…!無事、だったのか…!…………ここは?」

「いたた…あれ?さっきのとこじゃない?」

 伊織に次いで、界里も目を覚ました。あたりを見回す。薄暗くボロボロで、湿気と土のような臭いがする。

「よかった……。えと、ここは…神社みたいです…ね。うう、なんとかしなきゃ──」

「………なあ、無事なのは本当に良かったんだが」

 伊織は、おろおろ周りを見渡すみこの肩を掴んだ。もう、これ以上わけのわからないことは御免だ。

「みこ、君は一体何者なんだ。アイツ多分、君が見えてなかった。なぜ書庫にいるとき、見つからないなんて言い切れたんだ?そもそも、あの檻の鍵はどうやって開けた?」

 堰を切ったように質問を投げる。

「えっと…。……。うう…その、…………っ」

 泣きそうな顔をしていたが、スウ、と一呼吸して…話し始めた。

「…………私は、私が、縁記命です……」

「………な!?君…君が!?!?」

 伊織は大きな声を上げた。霊的なものをほとんど感じなかったので、てっきり人間なのかと思ってしまったが。…そういえば、神格ほどの位になれば、逆にその力を隠し切ることもできると聞いたことがあったような。

「きみが神さまだったの?そっかあ、それでいろいろ不思議だったんだね。…あっじゃあ、力がなくなっちゃったとか、ささげものが必要?っていうのもきみのことだったんだ!」

 界里は、黒い目を真ん丸にして驚いている。

「…はい……」

 みこは震えながら、消え入りそうな声で答えた。

「……書庫にあった本に、『まだ力が残っているはず、お願いする』って走り書きがあった。あの妖怪は、君に願い事をしたんだな?何を願ったんだ!?」

 伊織が深刻な表情で問い詰める。

「そ、それは。ぅ、う……。……花簪衣夜自身の縁を……切ってほしい…そう……言いました……」

「花簪衣夜自身の…縁?……どういうことだ…?」

 縁とは他人と結ぶものというイメージがあったのだが。

「私が…その人自身の縁を切ると、その人は“もともとこの世界にいなかった”ことになるんです……」

 それを聞いた伊織の頭の中で、パズルのピースがはまっていく。

「まさか、それでアイツは、自分の“花簪衣夜”っていう人格自体を忘れてたのか…!?だから俺たちのことも忘れてて、学校の生徒も──」

「自分の縁を切るのは危険だって……言ったんですけど…う……ぐす……。あまりにも真剣に頼み込んでくるので…断れなくて……。……う…。とても……つらそうだったから……でも……でも、そのせいで、花簪さんは“あんなもの”を作り始めて、このままじゃもっとたくさんの人が、でも、花簪さんの願いを叶えて、私、力を使い果たしてしまって、それで、それで………っ!!」

 そこまで言って、泣き崩れてしまった。

「えっえっ衣夜せんせーが衣夜せんせーじゃなくなくなるようにお願いして、大変になっちゃったってこと…?衣夜せんせー、何がそんなに辛かったんだろう…」

 界里はうつむきがちに言った。毎日あんなに飄々として、あの部室のドアを開けて、ぼくらに会いに来ていたじゃないか、衣夜せんせー…。

「っ、おい、みこが泣くことじゃない…!!あの…あの馬鹿がそう頼んできたのが悪い」

 伊織はみこの背中をさすって、諭すように言う。みこのだけのせいじゃない。一人でどうにかしようとするからこんなことになるんだ、馬鹿野郎。

「しかし、俺たちは…どうして覚えているんだ?」

「それは…私が…最後の力を使って戻したから…です……。花簪さんがいなくなった世界なのにあの人の手記が残ってたのも、私が縁を戻したから…。でも、中途半端に戻したせいで、時間や空間に歪みが生じてしまって…文字とか、一部、読めなくなってたと…思うんですけど……」

 伊織の頭に、理科室と書庫で見つけた、あの気味の悪い文字のことが思い浮かぶ。ということは……あの日、突然進礼高校の朝に早送りされたようなあの感覚も、みこが縁を操作したせいなのだろう。

「そう、だったのか……………ありがとうな」

 泣いているみこの頭を、ぽんと撫でた。

「………問題は、ここからどうするかだ。多分アイツは、俺たちを生贄にするつもりでここにつれてきたんだろう。新しい──御神体の」

「それなんですけども……実は、方法なら、あるんです……。ご神体を本殿に座らせ、捧げものをすることがご神体を神格にする条件になるので……」

「…なるほど、アイツがあの化け物で儀式をする前に…俺たちが、みこ──君で儀式をすればいいってことだな…!?」

「はい、捧げものには、あの怪物を使えば……!あれだけ大きな霊力が詰まっていれば、私もきっと力を取り戻せます…!」

 みこは、まっすぐに伊織を見て答えた。界里は目をぱちぱちさせながら、二人の話を聞いている。

「ひとまず、君を本殿に送ることは…難しくないだろう。アイツには君が見えていないようだから──」

「見えていない、というより……ええと、そこにいるのはわかるけど、意識をされないように操作できる、というか…。私は夜紅さんと直接話したことがない──“縁”がないので…」

「みこちゃん、書庫にいたとき、みこちゃんだけじゃなくてぼくたちも見つからなかったのはどうして??」

 界里が首を傾げた。

「それは…私は、そばにいる人同士のご縁を切れるから、です…。でも、今の私の力では、一瞬だけ……長くは続かないです…」

「……ってことは、そのときと同じように俺たちとアイツのご縁を切ってもらえれば、アイツが拝殿に来ても事実上隠れられるってことか。……そしてその後、あの化け物をどうにかしなきゃならないってことだな…」

 ぐっと考え込んだ伊織だが、その横で、界里はやる気に満ちた黒い目を輝かせた。

「そうしたら、衣夜せんせーも元に戻せるってことだよね!ぼく頑張るよ!!…あれっ、でも、衣夜せんせーが元に戻っても……ぐちゃぐちゃさんにされちゃった人たちは………」

 途端に、顔を曇らせる。

「あ、だ、大丈夫です…!あの化け物の血が流れる分、私に力が戻るので、その力で、怪物にされてしまった人たちの縁を切って…ええと、つまり、“怪物にされたという事象自体起こらなかった”ことにできるので…!」

 伊織は、ポンと手を打った。これまでの話で、大体の作戦は組みあがった。

「…よし、それなら──」




「えっと、まず二人とも閉じ込められているので開けますね」

 みこが扉に手をかけると、かちゃり、と容易に鍵が開いた。

「私は先に行っておけばいいんです……よね?」

「ああ、頼む。そのあと、君の力で、俺と由田も認知されないようにしてくれ」

「は、はい。ちょっとだけご縁を切りますね……」

 みこは伊織と界里に手をかざしてから、扉から出て行った。

「よし、俺たちも本殿に行こう!」

 伊織がその後を追う。

「うん!頑張るぞー!」

 界里は、近くに転がっている大きめの廃材を拾って、抱えて歩き出した。

 二人は拝殿に入っていく。奥の本殿に、しっかりとみこが腰かけている。準備は整った。

 少し遅れて、夜紅があの巨大な化け物を引き連れてやって来た。夜紅に続き、あらゆる形の手足でずるずると這うようにして、拝殿に肉塊が押し入ってくる。何度見てもおぞましいその姿に、伊織が思わず顔をしかめた、その時。

「…っ!?どうして??さっきより厳重に閉めたはずだ……!」

 切れていたご縁が元に戻ったようだ。再び捕まえようと、二人に向かってくる。

「ッ、今だ!」

 伊織は、近づいてくる夜紅の額に手をかざし、叫んだ。

「藍輪浄化!!」

「っ!?」

 伊織の手から放たれた霊気が、夜紅の記憶を飛ばす。消せる記憶はほんの数十秒間分だけだが、一瞬の隙を作る程度ならこれで十分だ。

「ごちゃごちゃさん、もうすぐ元に戻れるから、今だけ痛いの我慢してね!えいっ!」

 夜紅の隙をついて、界里が化け物に近付き、勢いをつけて廃材を振り下ろす。化け物はあくまでも、ご神体として作られたもの。守る術がないため、そのままもろに食らった。ドバドバッ、と虹色の液体が漏れ出す。鉄のような重油のような臭いのする、これがおそらく血なのだろう。

「っ、お前──!」

 何が起こっているのかに気づいた夜紅が、即座に界里を捕えようとする。が、伊織の方がわずかに早かった。

「この──馬鹿タコ助が!!」

 一瞬の隙をついて、夜紅のみぞおちに一発蹴りを入れる。

「ッ、ぐっ……!」

 まともに食らってよろめき、膝をついた。動けない。背は高いが貧弱らしい。しかし、貧弱であっても妖怪だ。

「ぃ゛……ぉま゛えっ゛……!」

 大きく振った夜紅の手は、どこにも当たらず空を描く。それなのに、伊織の体は後ろに吹っ飛んだ。

「ぐッ、あ…!」

 背中から床に叩きつけられる。テレキネシスのような能力らしい。手が当たっていないにも関わらず、殴られたような衝撃が伊織の腹部に響く。

「う〜っ血がいっぱいかかるよぉ…でもまだまだ!えいえいえーい!」

 自分の身の丈の何倍もある巨大な化け物に対し、虹色の血で髪やら服やらを汚しながらも、懸命に廃材を振り回し続ける。

 化け物の体は次第にぼろぼろと崩れていき、気づけば少し小さくなっている。ふと界里がみこの方を見ると、両手を化け物にかざして必死に何か念じているように見える。一人一人、ご縁を戻しているのだろう。ぼくも頑張らなくちゃ!

「…っ、まだまだァ!」

 その間に、伊織がよろめきながらも立ち上がった。再び夜紅に向かって手をかざす。

「七輪、開花…!!」

 七輪開花は本来、自分の霊気を相手に送り込み、相手の傷を癒す技である。それを無理やり応用して、逆に相手の体力を吸い取る──という試みなのだが、実は人生で一度も試したことがなかった。一か八か。やるしかない。

 目の前の夜紅の足がふらつく。同時に、自身の腹の痛みが治まっていく心地がする。しかしすぐに、頭痛が襲ってきた。頭痛は、この技を使った時にいつも起こる副作用みたいなものだ。しかし、こんなに早く症状が出るとは──戦いが長引くと…厳しそうだ。

「はあ、はあ、もう、少しでっ…!」

 界里の方も、息が相当上がっている。十メートル以上あった怪物を相手に、重い廃材を振り回して格闘し続けているのだ。大量に血を浴びて服も重くなり、動きづらい。だが化け物もだいぶ小さくなってきた。もう少しだ。残りの体力を振り絞り、廃材を持ち上げ、振り下ろす。

 ぷちっ、という音と共に、怪物の最後の欠片が弾け飛ぶ。

 その瞬間、夜紅は伊織の胸ぐらを直接掴んで引き寄せていた。明らかに逃げられない距離だ。ならば。

「ぐっ、──オラァ!!」

 相手が近いのを利用して、伊織はそのまま頭突きをかましてやる。

 ごちん、という鈍い音とともに、頭がぐわんと揺れる、が…何とか倒れる前に踏ん張った。

「…ッぶ!お前よくも……!!」

 そう言って伊織に殴りかかろうとした夜紅だが、突如、ハッとしたようにあたりを見回した。

「俺の作った妖怪…は……?」

 残されていたのは極彩色の血溜まりだけ。その中央では、界里が廃材にもたれかかり、荒い息をつきながらへたり込んでいた。

「お前か……。お前が……!お前が!お前が!!」

 怒りに声と体を震わせながら、界里に向かってくる。界里は逃げるそぶりを見せない。疲弊しきって動けないのだ。まずい。ならばこちらが先に──

「みこ!!こいつの──花簪衣夜の!!縁を戻してくれ!!!!!」

 伊織が大声で叫んだ。

「はいっ!!」

 みこが、夜紅の方に手を伸ばし、ギュッと目をつぶった瞬間。

「──えっ」

 ぴた、と、夜紅の動きが止まった。

「あ?俺は…」

 ひどく動揺した様子で、自分自身と、血で汚れた界里をみる。

「衣夜…先生、なのか…!?」

 伊織の目の前、夜紅の──いや、衣夜の姿が霞んで見える。どうやら自分は涙ぐんでいるらしい。良かった。良かった。良かった。よろよろと衣夜に近づき──

「この…腐れタコ助がァ!!」

──ばちーん!

 乾いた音が境内に鳴り響く。衣夜の頬に思い切り平手打ちをかましてやった。

「お前は、どうしていつもそう、お前はなぁ…!!」

 怒りと安堵がごちゃごちゃになって、もう、言葉が出てこない。

 そんな伊織の頬を、衣夜がすかさず殴り返す。殺気立った容赦のない一撃。

「お前……こそ…。どうして…!どうして!」

 そこまで叫んだところで、衣夜の視界に界里が映る。怯えるような黒い目で、衣夜をじっと見つめていた。いつもの天真爛漫な笑顔はどこへやら──ああそうだ、この子の、いつもの天真爛漫な顔を、思い出せる。思い出せてしまう。

 よろめきながら本殿をの方へ歩き、みこの肩を掴んだ。そのまま──膝から、崩れ落ちる。

「……もう一度できないのか?」

 その様子をみて、涙目でふるふると首を振る。

「俺自身を差し出したっていい……。なあ、やってくれよ。なあ…なあ…」

 そうして、嗚咽を漏らすように泣き出した。

「……いよ、せんせー…?」

 整っていない息のまま、界里は戸惑いがちに声をかける。

「……。あぁ……ヨシダクン。」

 衣夜の返事は、少し涙声だった。

「なに、ちょっとね。さっきはすまなかった」

 誤魔化すように、どこか飄々とした声色で話す。

「……なんで。やだったの?…いよせんせーでいるの、そんなに、つらい…?」

 衣夜は、界里から目を逸らしたまま、答えた。

「そうだな……。つらいよ……。俺はもう、駄目なんだ。…戻れない。加虐を好む自分を、もう…変えられない。倫理的にマズい研究だって止められそうにない。そうやって、ヨシダクンやみんなの大事な場所を壊したから……自分が嫌でしょうがなかったんだ…」

「………大事な場所の──オカ研のどこが壊れたって?」

 伊織は、殴られて口の端から出血しているのを、ぷ、と吐き捨てた。

「…見くびってもらっちゃ困る」

「……何が言いたい?」

「どんな奴にだって、いい面と悪い面があるもんだろ。アンタがこれまでにどんな悪事をしてきたか、俺も全部は知ったこっちゃないが…それも全部ひっくるめて、俺はアンタを──花簪衣夜を受け入れてる…!」

「そうだよ…」

 と、界里が伊織に続いた。

「いよせんせーと、いっしょにいると、たのしくて、だいじだし。おかけんは、こわれてないよ?…きらいにならなくて、いいんだよ?」

「…………」

 衣夜は相変わらず、両膝をついて黙ったままだ。拝殿に沈黙が流れる。それを破るように、本殿からみこの声がした。

「……えっと…もう、花簪衣夜のご縁を切ることは…もう、できません……。また、今回のようになってしまうでしょう……。夜紅と衣夜のご縁は固く結ばれているのです。ですが、その関係が今よりいいものになるように願うことはできます……」

 みこはそう言って、そっと目を閉じ、手を合わせた。

 伊織は頭を掻きながら、ハァ、と盛大にため息をついてみせる。

「………アンタ、霊的な物とか実験とか、色々調べてて詳しいみたいだが…こと友情だの、愛情だののことになると、本当にポンコツだよな……。好奇心旺盛なんだろ?これからは、そっちの方の研究でもしたらどうだ?」

 衣夜の横にしゃがんでから、肩を貸すようにして衣夜を立ち上がらせた。

「……帰るぞ、アンタの、大事な場所に」

「…………」

 衣夜はしばらく、黙ってうつむいていたが──

「……………ああ…」

 最後に小さく、頷いた。




 翌日。

 日も傾き始め、校庭の木々の影が長くなってきた頃。

 ガラガラ…と音を立てて、オカルト研究部の部室の引き戸が開いた。

「やっほ〜。元気してる?」

 衣夜がヘラヘラと部屋に入ってくる。扉を閉めるのと同時に幻術を解き、蛸のような頭の姿に戻った。

「衣夜せんせーだ!こんにちは〜!せんせーもオムライス食べる?」

 天真爛漫な笑顔で、界里は食べていたもの──コンビニのおにぎり(オムライス味)を差し出した。

「お?いいの〜?ちょーだい」

「えへへ〜美味しい?」

 衣夜がもぐもぐ口を動かしていると、再び部室の引き戸が開く。伊織が書類を手に部室に入って来た。

「柊、いるか?…これ、例の件。ハンコ押しといたぞ」

「あ、伊織せんせーもこんにちは〜!伊織せんせーもオムライスどーぞ!」

「…あ?いや俺は………」

 断ろうとして、界里のキラキラの黒い瞳とかち合った。

「………はむ」

 一口貰う。飲み込んでから、むすっとした顔で衣夜を睨む。

「なあに?」

 衣夜は飄々として、相変わらず何を考えているのかわからない。

 伊織は、眉間にしわを寄せて、何か言いにくそうにした後、ボソッと続けた。

「…アンタが家に置いてったリキュール、まだ残ってるんですけど」

「そうなの?まあ合わないなら捨てちゃっていいよ。もしあれだったら、炭酸で割るなり氷入れるなりして、薄めて飲みなよ」

「…………このポンコツ」

 ムッとした顔で悪態をつく伊織。自分なりに酒に誘ってみたつもりだったのだが、人の心の機微に疎い衣夜には、やはりまだわからないか……なんて。本当は、酒に弱い伊織に無理をさせたくないという、衣夜の初めてとも言える気遣いだったのだが──

──コンコン。

 ノックが響く。

「す、すいません……。入部…したいのですけど…」

 ドアの向こうから、気弱そうな少女の声がする。

「あ、そうだ。マユズミセンセ。今日入部志望者がくるそうだよ。これも、何かの“ご縁”かもね」

 ガラリ、扉が開いた。

「は、はじめ…まして……。で、いいですか??オカルト研究部志望の憶記未去おくふみみこ、です」






「がらんどうのあたま」おわり……??

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る