衣夜先生敵対事変(上)「好奇心は蛸を殺す」
月も沈んだ、静かな夜。暗い部屋に、ゼェ…ゼェ…と荒い息だけが聞こえている。
肩で息をしているのは、身の丈二メートルに達しそうなくらいの大きな影。頭に触手のようなものがついた異質なシルエットは、まるで怪物だ。床には、彼が破壊した皿やグラス、裂かれたカーテン、引き倒された棚が散乱している。
怪物は、激しく暴れる絶望を胸に抱えながら、頭の中でずっと考えていた。自分に対しての言い訳を。そして、隣の寝室で気を失っている、この部屋の主に対しての言い訳を。
酔って覚えてないからよかったんだ、都合がいいから、何しても忘れるから、仲が深まらないから。
素の自分でいられるのがよかったんだ。
弱音も、加虐的な部分も、隠さなくて済むのがよかったんだ。
俺のわがままでいられるのがよかったんだ。
失うのが怖い人を、もう、作りたくなかったんだ。
どうして、覚えてしまったんだ。マユズミセンセ。
それからしばらくたったある日。
日も傾き始め、校庭の木々の影が長くなってきた頃。
ガラガラ…と音を立てて、オカルト研究部の部室の引き戸が開いた。
「柊、いるか?…これ、例の件。ハンコ押しといたぞ」
書類を持って部室に入ってきた伊織は、部屋を見渡した。たまたま皆出払っているのか、いたのは窓辺で美味しそうに何かをほおばっている界里だけだった。
「伊織せんせーだ!こんにちは〜!せんせーもオムライス食べる?」
天真爛漫な笑顔で、界里は食べていたもの──コンビニのおにぎり(オムライス味)を差し出した。またか。見かけるたびに界里はオムライスを食べているような気がする。昼食の時間はとっくに過ぎている。昼食だって当然オムライスだったことだろう。それではこれは何か……おやつか?
「…あ?いや俺は………」
断ろうとして、界里のキラキラの黒い瞳とかち合った。
「………はむ」
一口貰う。飲み込んでから、小さく呟いた。
「……花簪先生は今日も来てないのか」
「そうだねぇ。衣夜せんせーいないのちょっとさみしいなぁ」
界里はオムライスを食べながら、部室のドアに目をやった。いつもこのドアから、飄々とした笑顔で入って来てたんだよなぁ、などと想いを馳せながら。
「………」
伊織は黙って、衣夜がよく座っていたデスクに目をやる。ごちゃごちゃした机の上。何もかもそのままの状態と言ったところだ。
(……何か、嫌な予感がするな…。てっきり、自分と“色々”あったことが原因かと思ってたが…片付ける間もないとなると、何か切羽詰まった状況になってるんじゃ…)
衣夜の顔を思い出すと、あの“散々なこと”をされた記憶も蘇る。そんな相手をこうして心配してしまうのは、もう一種の病気みたいなものかもしれない。
「衣夜せんせー散らかしっぱなしだねぇ」
悶々とする伊織の気持ちはつゆ知らず、界里が後ろからひょっこりと顔を覗かせる。
「…伊織せんせーどうしたの?なんかやな事あった?」
「いや………何か違和感あるっつーかな…、花簪先生は、“ああ見えて”計画的なところがあるから…去るにしたって、ちゃんと身辺整理するだろうな、と思ったんだ」
「今だけなんだか変ってこと?」
「ううん…突然変になった、って感じだろうかな…。いや、突然何かに巻き込まれた、とか…な」
何か。何かって何だ。全く分からない。そもそも何の妖怪なんだアイツ。何回か酒を飲み交わしたにしては、自分はあまりにも衣夜のことを知らない。
「ちょっと、理科室も覗いてみるか…」
理科室は、衣夜が理科科の担当教師としてよく使っている場所だ。私物を置けるスペースなどなさそうだが…とにかく足で調べてみないことにはわからない。
「…由田、一緒に来るか?」
咄嗟にその場にいた界里に声をかけてしまったのは、一人でいるのが何となく不安だったからかもしれない。
「うん、ぼくも行く〜!」
界里はオムライスをさっさと食べて、歩き始めた伊織の後ろを無邪気に追いかけていった。
理科室。バックヤードを覗いてみる。
「…?理科室の控室には、ほとんど初めて入ったが……いやに機材が多くないか…?」
理科室にどんな機材が揃っているのが正解なのか詳しくは知らないが、高価なはずの光学顕微鏡がずらずらと並んでいるのは…流石におかしいんじゃないだろうか。
薬品も疑問を抱く程多く、棚の中には小瓶がびっしりと並んでいる。瓶の中身は、それぞれに貼られたラベルの印字を見ればわかるようになっているが…中には、手書きのラベルも混じっていた。
「なんかすごいいっぱいあるね〜。お店みたい!」
黒い目を輝かせている界里だが…まさか諸々の経費をちょろまかしてこれらの薬品や機材を買ったのでは、などと言う邪推が伊織の頭をよぎる。が、仮にそうだとしてもそれが部室に寄り付かなくなる原因とは考えにくい。この程度のことを誤魔化すのに、特に何も抵抗なんてないだろうからなあのタコ助…などと内心で悪態をついてみる。
「……これじゃ大したことは判らないな」
こうなれば、やはり。
「…なあ、由田、ちょっと頼まれてほしいんだが…明日、花簪先生にそれとなく…最近どうしてるか、聞いてみてくれないか」
もう本人に聞くしか、わかりそうにない。“あんなこと”があった以上、自分から声をかけるのはとても気が引けるが…相手がこんな天真爛漫な由田だったら、アイツも無下にできないだろう。
「いいよ〜。理科の授業の後とかに聞いてみるね!」
界里は、深く考えずに二つ返事をした。しかし…界里に任せたとはいえ、自分も何か動いていないと落ち着かない気分だ。
「俺は、そうだな…これから図書館で色々調べてみることにする。由田も来るか?」
界里は笑顔で頷いて、伊織と共に街の図書館へ向かった。
暮井市立中央図書館は、建物こそ年季の入った雰囲気だが、本の種類はしっかり揃っている。閉館時刻間際と言うこともあって、人気はまばらだ。
「…さて」
と、一息ついて、伊織は資料になりそうな本を探すことにした。衣夜について──妖怪について調べるとなると、やはり民俗学あたりの本がいいのだろうか。伊織はそれに近い棚のあたりを物色し始める。オカルト研究部の顧問という立場上、これまでにいろいろな妖怪に遭遇したことがあるが…あの特徴的なタコ頭は他にお目にかかったことがない。全国区の妖怪ではなく、このあたりにしか伝承がない種類なのかもしれない。伊織はそう当たりをつけて、一冊の本を選び取った。
表紙には、「暮井市の民俗学」とある。手早くページをめくっていく。
かしょう【花蛸】
蛸に似た人型の妖怪。鬼、天狗の類であるとされる。土地独特のものか、暮井市周辺以外の記録は現在まで見つかっていない。暮井市にある宵山での目撃証言がいくつか残っているが、全て江戸中期以前のものであり、近代の文献はない。
人間、妖怪のどんな悩みでも叶える代わりに、生贄や知恵を与えなければならないとされる。化蛸と書かれる場合があるが、誤りである。
「かしょう……これか…?」
代償として生贄?なんだか恐ろしい文言が書いてあった様な気がするが。
「人型のタコの妖怪ってなんか衣夜せんせーっぽいよねぇ」
後ろからのぞき込んできた界里が、のんびりとした声で話す。
「いやしかし…花簪先生が生きてるってのに、江戸時代で記述が途切れてるってのは──」
『なんだ、ずいぶん懐かしい名前があるじゃあないか。顔は割と最近見た気もするがな』
「!?」
後ろから突然聞こえてきた知らない声に、伊織は思わず本を取り落としそうになる。いや、声の主はもちろん、今自分の後ろにいる由田界里に違いないのだが、声色がまるで別人だ。
「由田、どうし──…」
バッと振り返って、眼前の界里の姿に目を見開く。
ニタリと細められた目元の、赤い隈。
炎のように揺れる、橙色の尾が五本。
「……まさか、噂の“妖狐様”か…?」
部員から話を聞いたことがある。界里は妖狐に憑りつかれているのだと。そして、時折その妖狐と人格が入れ替わり、そのときのことを界里本人は覚えていないらしい、とも。妖狐の名は確か──キトアコ。
『おや。俺を見るのは初めてだったか?だが知ってはいるようだな。そうさ、俺がその“妖狐様”だとも』
「………懐かしい…って言ってたな、心当たりがあるのか…?」
『まあ、昔色々あってな。知りたいか?』
妖しく笑って、伊織の目を見る。
「………知りたい…!」
それが、何か彼への手がかりになるのなら。真剣な眼差しで、覚悟を決めたように答えた。
『ふうん…?物怖じしないな。面白くなりそうだ。いいだろう、教えてやる』
そう言ってキトアコは語り始めた。
『昔は俺の信者の一族がよく栄えていたんだがな、慶安のあたり…だったか。そいつに依代の代替わりを邪魔されて、一族ごと縁が切れちまったのさ。…だから呪ってやったんだ、“お前も独りの苦しみを味わえ” とな』
「ひとりの、くるしみ……」
そういえば、ずいぶん前の酒の席で、そんな話を衣夜から聞いたような気がする。長寿にされると同時に他の一族全員を滅ぼされ、自分だけが残された、とかなんとか。時折自分に見せていた──ような気がしていた、苦しそうに、縋るように揺れる黄緑色の瞳を思い出す。
しかし、慶安、と言うと…江戸時代のどこかだろうか。学生時代に習った日本史のことなどすっかり忘れてしまったが、まぁ衣夜とキトアコが相当の長寿だということはわかる。つまり、それほどまでに長い刻を、衣夜は孤独に──
『教えたぞ、あとは好きにするがいいさ』
界里(に憑依したキトアコ)は、もう用はないと言わんばかりにひらひらと手を振る。瞬間、隈と尾が一瞬で消え、居眠りしたときのようにカクンと膝の力が抜けて──界里が目を覚ました。
「むにゃ…あれ?寝ちゃってた…?」
目を擦りながらぼんやりと尋ねる。伊織が驚いて硬直しているのを、怒っているとでも捉えたらしい。
「わーっ!せんせーごめん!お手伝い出来なかったよ…ぼくが寝ちゃってた間に何かわかった?」
「え、あ、あぁ…大丈夫だ」
部員たちから聞いた話の通り、やはり憑依中のことは覚えていないようだ。適当にはぐらかす。
「…この本によると、花蛸──花簪先生の一族は宵山にいたらしいが……宵山っつったら、ここからそう遠くない。もうだいぶ日も暮れてるが…俺は行ってみようと思う」
「伊織せんせーだけで大丈夫?ぼくも一緒に行くよ!」
もう遅いからお前は家に帰れ、と、言えたら良かったのだが。万が一花蛸や他のゼロと接触するような事態になったとき…不甲斐ないが、自分だけでは戦うことができない。生徒を巻き込むのに罪悪感はあるが、今は頼るしかなさそうだ。
「………ああ、よろしくな」
二人は図書館を出ていった。
日もだいぶ傾いて、空が赤黒くなっている。そんな中に浮かぶ真っ黒な山のシルエットは酷く不気味で、まるで山全体が来る者を拒んでいるようにも見える。
足場のあまり良くない山道を進んでいくと、見覚えある人影が伊織の目に留まった。
「…!?あれは…!!」
つい先ほどまで、慎重に行かなくては、万が一のことがあったら界里を守らなくては、などと考えていたはずなのに──その影を見た途端、そんなことは吹っ飛んでしまった。伊織は咄嗟に後を追い始める。
「あっ待ってぇ〜!」
少し離れた後ろから、間延びした声が聞こえてきて、我に返った。
振り返ると、遅い足でのろのろと追いかけてくる界里の姿。
「あ、そうかお前…」
運動神経がイマイチだったな、という言葉は飲み込む。さっと駆け戻り、界里をおぶって進みだした。
木の根をまたぎ、枯葉を踏み、ガタガタの石段と朽ちた石畳を通ると、あちこちが苔で覆われた鳥居が目の前に現れた。異質な雰囲気がする。そこそこ質量のある界里をおぶってここまで来た伊織は、その汗がゾッと冷えていくのを感じた。しかし、間違いなく影はここに入っていったのだ。伊織は界里を背中に乗せたまま、意を決して鳥居をくぐる。
鳥居の奥、屋根の傾きかけた拝殿の前で、その影は立ち止った。
「何してるんだ?二人とも。こんな時間に」
くるりと振り返って、影は──衣夜はそう言った。表情も声色も、普段通りのヘラヘラした様子だ。それが、この赤黒く不気味な空といやにちぐはぐな感じがして、伊織は先程とは違う変な汗が出る心地がした。
「衣夜せんせーだ!こんばんはー!せんせーとこのお山と関係あるってほんと?」
「…!!おま、」
躊躇なく切り込んだ界里を反射的に制するが、もう遅い。伊織は、少し怯えたような顔で“いつも通り”の衣夜を見る。
「ああ〜調べたんだ。そうだね。俺はこの先に用事があるんだ。こんな山の廃神社にいるのは危ないから、二人は帰りなよ」
衣夜はそう言って、拝殿のさらに奥、本殿の方を見た。
「……危ないから帰れって…?それは、貴方も同じでしょう。この先にどんな用事があるって言うんです?」
伊織が緊張した声色で尋ねる。
「用事ってなあに?ぼくも何か手伝えるかな?」
界里は、伊織の背中の上で、相変わらずの調子だ。
「なに、少し…ちょっとしたことだから手伝いは要らないさ──じゃあね」
そう言って、衣夜は傾いた拝殿に入っていく。伊織が慌てて追いかけようとす
「おはよ~!」
「おはよー伊織先生〜!」
「──え?」
伊織は、思わず声を上げた。
学ランとセーラー服が、次々に自分の横を通り過ぎていく。
ちょっと年季の入った、なじみのある廊下。
「………ここは…!?」
と、思わず口をついて出たが、答えはわかりきっている。進礼高校だ。
咄嗟に近くの教室を覗く。黒板の日付と壁の時計を見れば、いつの間にか次の日の朝になっていることがわかる。おかしい。いやおかしくはないのか。確かに朝起きて、身支度もして、家を出て…という記憶はある。いやしかし昨日は、というかついさっきまで宵山で、廃神社で──あれ?
混乱している中で、ハッと思い出した、あの人影。
「そうだ、衣夜先生はどこへ──」
「あれぇ?衣夜せんせーは?」
伊織の声に重なるように別の声がして、振り向けば、界里が不思議そうにあたりを見回していた。そうだ、俺は由田と昨日、いやついさっきまで──駄目だ、どうなってる?
そんなパニックになっている伊織に追い打ちをかけるように、すれ違っていった生徒二人組が首を傾げた。
「イヨ先生??」
「誰?」
「好奇心は蛸を殺す」おわり
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