第5話
「馬車が止まっていますね」
ジョンストン商会の馬車でレイモンドさんと共に屋敷へ戻ってくると、窓の外を見てコニーが言った。
「馬車? お客様?」
我が家に来る人なんて、いたかしら。
「ヒューズ先生かしら……」
「門の前に人がいますね……あ」
「コニー?」
「……アンドリュー・オーガスト様ですね……ジョセフと何か話しているようです」
「アンドリュー?!」
「どなたですか?」
思わず大きな声をあげてしまった私に、レイモンドさんが首を傾げた。
「ええと……私の元婚約者です」
「婚約者」
レイモンドさんは黒い瞳を大きく見開いた。
「あ、お嬢!」
門へ近づくとジョセフがほっとした顔を見せた。
彼はこの屋敷の管理人の息子で、今は病気で来ることができない管理人の代わりに時々手伝いに来てくれている。
今日は留守番と庭の手入れをしてもらっていたのだ。
「この人が中に入れろってうるさいんだけど」
「ステラ!」
「アンドリュー・オーガスト様」
アンドリューがこちらへ駆け寄ろうとすると、私の前にコニーがスッと立った。
「もう以前とは違うのですから。ご訪問なさるなら事前にご連絡をいただかないと困ります」
「……婚約は解消したが、幼い時からの仲なんだ、そう堅苦しいことは……」
「もう子供ではございませんでしょう」
「コニー。そんなに怒らないで」
アンドリューが突然尋ねてくるのは昔からのことだ。私はなだめるつもりでコニーの肩を軽くたたくと、彼女の後ろから顔を覗かせた。
「久しぶりねアンドリュー。どうしてここが分かったの?」
「ステラ! 君が心配で……弁護士から今はここに住んでいると聞いたから」
「気にかけてくれてありがとう。でも元気でやっているから大丈夫よ」
「そうか……ところで、その後ろの……」
「こちらは宝石商の方よ」
「レイモンド・ジョンストンと申します」
ジョンストンさんは帽子を軽くもちあげると会釈した。
「ジョンストン……ああ」
「屋敷にある絵を見てもらおうと思って、来てもらったのよ」
「宝石商に絵を?」
「鑑定に出す価値があるか、まず私の方で見させていただこうと思いまして」
眉をひそめたアンドリューに、笑顔でレイモンドさんは言った。
「アカデミーで学んでいるので基本的な鑑定はできます」
「ふうん。――それで、もしかしてステラ。彼と同じ馬車に乗っていたのか」
私たちの背後に止まっている馬車に視線を送ってアンドリューは言った。
「ええ」
「商人とはいえ男と同じ馬車なんて……」
「うちには馬車はないもの。辻馬車も結構お金がかかるのよ」
「私も同乗しておりますのでご心配には及びません」
――何だかコニーのアンドリューへの態度が冷たいのだけれど。
「オーガスト様。ご覧の通りお客様のご対応がございますのでお引取り下さい」
「あ、おい……」
「ジョンストン様、どうぞ中へ。お嬢様も」
アンドリューの前を素通りして、コニーは私たちを促しながら屋敷へと入った。
「コニー。あの態度は可哀想じゃないかしら」
「よろしいのです。ここで受け入れてしまうと面倒なことになりますから」
「面倒?」
「オーガスト様はこれから別の方と婚約なさるでしょう。それなのに、元婚約者の元を訪ねているなどと噂されたら大変でしょう」
「……そうね、相手の方にもご迷惑がかかるわね」
「ですから、たとえ街中でお会いになったとしても親しくなさらないように」
「分かったわ」
頷くと私は後ろのレイモンドさんを振り返った。
「すみません、慌ただしくて」
「いえ。あの……大変不躾なことをお聞きしますが」
レイモンドさんは少し言いにくそうに口を開いた。
「お嬢様は、今の……元婚約者の方には、その、未練はないのでしょうか」
「未練?」
何の?
「お嬢様の方には全くございませんね」
首を傾げていると代わりにコニーが答えた。
「ああ、そうですか……」
どこかほっとしたように、レイモンドさんはその口元に小さく笑みを浮かべた。
「こちらの絵です」
書庫に案内すると、大きな机の上に絵を広げた。
「これは、お嬢様に似ておりますね」
「ええ、母の若い頃の肖像画にそっくりで。だから伯母の肖像画だと思うのですが」
椅子に腰掛け、こちらを見て微笑んでいる女性は二十代半ばくらいだろう。もう一枚の肖像画は同じくらいの年齢の男性で、同じ椅子に腰掛けているからおそらく夫の伯爵だと思う。
「失礼いたします」
胸元のハンカチーフを口に当て、顔を近づけて肖像画を丹念に見ていたレイモンドさんの視線が止まった。食い入るように見つめるその視線の先には、膝の上に重ねられた白い手があった。そしてその指元に光る、大きな青い石の指輪。
(青い石?)
「これ……」
「――呪いの指輪かもしれません」
レイモンドさんは言った。
「え……これが?」
「このネックレス」
レイモンドさんは絵の胸元を指差した。そこには大粒の青い石が輝いている。
「これはおそらく『人魚の涙』と名付けられたサファイアです」
「人魚の涙?」
「二年ほど前、オークションに出て実物を見る機会がありました。とてもよく似ています」
「……じゃあ、この指輪もサファイアかもしれないですよね」
「売却された伯爵家のコレクションリストを調べてみたのですが、青い石の指輪は含まれていませんでした」
「そうなのですか」
「この絵では台座の細工までは分からないか」
小さくため息をつくと、レイモンドさんは顔を上げた。
「伯爵が呪いの指輪を所有していた可能性は高いということですね」
そう言うと、今度は男性の肖像画を手に取った。
「筆致も同じ、顔料の様子から同時期に描かれたものでしょう。……こちらの風景画もですね」
「……同じ人ですか?」
「はい。静物画は……顔料は同じですが、こちらは素人が描いたものでしょう」
他の三枚の絵も見比べて、レイモンドさんは考えるように顎に手を当てた。
「この風景画は、この屋敷から見える景色ですよね」
「ええ」
一枚は高いところから王都を見下ろしたもので、この屋敷の二階のテラスから見える景色と同じだ。そしてもう一枚はバラが咲き乱れた庭園の風景で――今この屋敷の庭に花はないけれど、背景の建物は同じだった。
「おそらく、伯爵夫妻から肖像画を依頼された画家が滞在中に描いたのでしょう。そしてこちらの静物画は、夫妻のどちらかが画家に教わりながら描いたものと思われます」
「……なるほど……」
すごいわ、そんな予想ができるなんて。
「それで、この絵の作者ですが」
レイモンドさんは絵の隅にあるサインを指差した。
「おそらく『セヴリーヌ・アルシェ』でしょう」
「セヴリーヌ・アルシェ……」
聞いたことがあるような。
「とても人気のある画家で、現在も積極的に作品を発表しています。この絵が描かれたのは若い頃で、伯爵が支援していたのでしょう」
「そうなんですね」
「初期の作品は珍しいので高い値がつけられると思いますが……これらはこの屋敷に飾った方がいいと思います」
「私も同感です」
控えていたコニーが口を開いた。
「お嬢様は本以外は何でも売りたがってしまうので……」
「だってお金が必要なのでしょう」
「この間のカフリンクスのお金もまだ十分残っているんです。お金がなくなってから次のものを売りましょう」
「でも……」
まとまったお金があれば……修道院に入れるのに。
「私も賛成ですね。資産は色々な形で持っていた方がリスクも少ないです」
そう言うと、レイモンドさんは書庫を見渡した。
「ここにある本はどれも装丁が凝っていますね」
「そうなんです! 最近の軽い表紙の方が読むには楽でいいんですけれど、一冊ずつこだわって装丁された本も素敵なんですよね」
「お嬢様は本がお好きなんですね」
「はい、宝石やドレスよりも本の方がいいようです」
コニーがため息をついた。
「ちょっと、宝石商の方の前でそんなこと言わないでよ」
小声でコニーをつつく。
「確かに本の世界も奥深くて魅力的です。時には宝石よりも美しい本もありますからね」
レイモンドさんは笑顔でそう言ってくれた。
「ちなみに、この絵以外に残された美術品はありますか?」
「あとは……あ、アクセサリーがいくつかあります」
まだ鑑定していないネックレスと、他にも出てきたものがあったのだ。
それらをまとめて鑑定してもらったが、残っていたものは『高級品だけれど、市場にも多く出回っているので買取価格はあまり良くない』ものばかりだった。
『ではお嬢様が使いましょう』とコニーが力説し、レイモンドさんも同意したのでとりあえず所有しておくことになった。
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