第54話 ──無縁と呼ぶには浅からぬ
「うへぇ、臭い……」
地下水道とは名ばかりの下水道に足を踏み入れて、アーサーは鼻をつまんだ。
『身体強化』を用いなければまず見えない、真っ暗闇の視界の端にドブネズミが駆けてゆく。耳朶を僅かに震わせるのはせせらぎ──なんて綺麗な言葉を使ってみても現実、アーサーの足元を流れるのはドブ川であった。
アーサーはムスタファから受け取った地図と頭の中の光点とを照らし合わせ、迷路のような下水道を進む。
「えーと、こっちか……」
公爵の言う通り、拡張に拡張を重ねた地下水路は迷宮の様相を成しており、地図では通っている道が塞がっていたり、人が通るにはとてもじゃないが狭すぎる道であったりと、アーサーは難儀していた。
──いっそ全部ぶち抜いてやろうか。
アーサーの脳裏にはそんな物騒な思考が何度も浮かび、その度頭を振って正気を取り戻すのに苦労した。
そんな事をしては水路が崩れるのが目に見えており、地上の領都にどのような悪影響をもたらすか分かったものではない。
彼が物騒に憑りつかれるのには理由がある。
何せ頭上から時折ズズンと、大きな音と振動が響いてくるのだ。領都にて治まらぬ激しい戦いを、否応にも想起させる。
地図を持つ手に力が入る。紙のソレと違い羊皮紙の地図に皺は付かないが、アーサーの苛立ちのほどが感じ取られた。
「ふー、焦るな俺……」
怒りや焦燥は視野を狭くする。その少しの狭さが、戦いでは命とりになることも少なくない。
アーサーは深呼吸をして、後悔した。肺一杯に取り込んだ空気の澱み具合に。
(……やっぱぶち抜くか?)
翳した手に魔力が集まり──溜め息と共に霧散する。
「……こりゃ思ったよりしんどいわ」
アーサーは滅入る気持ちを叱咤して一歩踏み出すと、ぬかるみに沈んだ靴の中に生暖かい汚水が流れ込む。
気色悪さに顔を歪め、時折の振動とパラパラと天井から降り注ぐ石片に目を細め、迷路の如き下水道を時に曲がり時に引き返し、進み、進み──。
──ようやく光点と出会った。
光点、それと射線が通っているのを理解すると頭よりも早く身体が動いていた。アーサーの指は自然と、クロスボウの引き金を引いていた。
「む⁉」
突如空気を裂き飛来するクロスボウを光点は──フードの男は咄嗟に交わした。
この暗闇でよくもまぁ。関心しながらもアーサーは二射目をクロスボウにセットしながら言い放つ。
「会いたかったよクソッタレめ」
下水道にアーサーの憎悪が反響しフードの下、妖しく輝く蛇目を細め男──ボーゼスは酷薄な笑みを以て少年を迎えた。
◇◇◇
「これでぇ、ラスト!」
七条の光線がクピドを貫く。
「GUuuu……」
クピドから邪悪な気配、
一仕事終えたカレード・スカーレットは額の汗を拭う。
そんな彼女を、周囲の人間は手を合わせて崇めていた。
「おぉ、天使様……」
「ありがたや。ありがたや」
この騒動でスカーレットは随分と目立ち、また活躍した。
領都ヴァニラの上空を縦横無尽に翔び回り、煌めく光を纏いて現れ、瞬く間に暴徒を鎮圧してゆく。スカーレットの無償にして無双の活躍に彼女はすっかり英雄視されていた。
まぁ、なんてったって彼女は美しいし。美貌ほど分かり易い魅力もそうあるまい。
「天使様……! 息子を助けて頂き、なんとお礼をしたものか……!」
クピドが倒れ伏すと、まっ先に駆け寄る人物がいた。
目尻の皺が目立ち始めた、老齢に差し掛かった女性だ。
彼女は息子の穏やかな表情を見てホッとし、スカーレットを見ては滂沱してはしきりに頭を下げてきた。
「あ、あのお婆ちゃん、頭を上げてください。その、当然のことをしたまでですから」
それはアカネの持つ善性に依る、嘘偽りのない本心であった。
本心であるが、故に非常時にあって不安定な人々の心を打ってやまなかった。
「なんという清らかさと優しさ……! このバカ息子にも貴女様の優しさを説けば、心を入れ替えるかもしれません……」
……まぁ、彼が次目が覚めた時、すっかり悪心なんて無くなっていること間違いないから、老婆も驚くことだろう。
あまりの感謝されっぷりに、スカーレットは気恥ずかしさを誤魔化す様に慌てて飛び立つ。
「そ、それじゃぁ私! 次のところに行かなくちゃ!」
「イヤ、今のが最後のクピド──」
「いいからミッくん! 行くよ‼」
「オ、オウ」
その言葉を残してスカーレットは空へと翔け上がる。
七色の光の粒子を背に飛び立つ姿は、やはり天使として民衆の心に深く残った。
そして領都上空へ舞い上がったスカーレットは、手うちわで真っ赤になった顔を扇いでいた。熱いどころか寒風荒ぶ空間だというのに、そもカレードの戦闘服は環境の変化に強い耐性を持っている。
しかしスカーレットの顔は名前顔負けの赤さであった。
「ふぇー……。人助けはいいけど、あんまり感謝されちゃうのも困りものだね⁉」
そう言ってはにかむスカーレットを、ミヒャエルは無言で見詰める。
感謝されて悪いことは無いだろうに、ミヒャエルはスカーレットの気持ちが分からなかった。
何せミヒャエルは、人々の持つ良き心を糧に生きているのだから。
しかしまぁ、スカーレットが口ほどに嫌がっていないのは顔を見れば分かる。
変に藪をつつくつもりはないミヒャエルであった。
「それじゃぁ! 後は魔物だけだね!」
「イヤ、それなんだがスカーレット」
彼女の活躍もあり、現在領都内で確認出来るクピドは全て浄化し終えた。
湧き出る魔物と違いクピドの方は有限であったのが幸いした。
魔物を相手するのはまだ怖いが、そんなことは言っていられない。
基本、カレード・スカーレットはクピド以外には無敵なのだ。
ふんすと気合を入れ直すスカーレットにミヒャエルは待ったを掛ける。
「どうしたのミッくん? まだクピドが?」
「いや──。クピドは今ので最後だゼ。……だガ、なんダ? すげぇ嫌な気配がするゼ……」
「……ミッくん。それ、どこか分かる」
「アァ、ビンビンに感じるゼ。こっちダ」
ミヒャエルに先導されて辿り着いたそこは──。
「ボッタクル商会……?」
よくウチに絡んで来ていた、同業者の商会本部であった。
過去形なのは、不思議と最近はあまりちょっかいを掛けられていなかったからだ。その
はたと、スカーレットはアーサーとの馬車の遣り取りを思い出す。
彼は最初から[ボッタクル商会]を気に掛けていた。
(ここに黒幕がいるのかも……?)
スカーレットは領都の惨状を思い出し、不倶戴天の敵を睨むかのように商会を睨んだ。
「……気を付けろヨ」
「……うん」
ミヒャエルの喚起に倣い、スカーレットはそっと扉に手を掛ける。意外にも鍵が掛かっておらず、扉は容易く開いた。
一時は飛ぶ鳥を落とす、とまで言われた[ボッタクル商会]の店内は、実に豪奢であった。であるが、珍しい魔物の剥製やこれでもかと金銀がちりばめられた装飾は、スカーレットの趣味には合わず眉を顰める他ない。
人の気配は、無い。既に彼らも避難しているのだろうか?
そんな彼女の考えを見透かしたよう、ミヒャエルが否定の言葉を発した。
「スカーレット、この先ダ。この先からヤベェ気配を感じる」
そう言って彼が短い手足で指し示したのは床である。
赤い、これまた高級そうな刺繍の施された絨毯を捲くると、今度は木製の床が目に入ってきた。よく見れば薄っすら切れ目の痕があるではないか。
──隠し通路だ。
スカーレットはどうにか床板を取り外そうと試みるも、切れ目はぴっちりとしており、指一本入る隙間も無い。取っ手も見当たらず、スカーレットがまごついているとミヒャエルが苛立ったように叫ぶ。
「ナニしてんダ! ぶっ壊しちまえばいいだロこんなモン!」
「えぇ? い、いいのかなぁ……」
「緊急事態ダ! 魔物がやったコトにでもすればいいだロ!」
基本善人であるスカーレットは物を壊すという事に抵抗があった。
しかし、ミヒャエルの言うことも尤もであるので、スカーレットは遠慮がち床板を蹴る。彼女からすれば小突く、ぐらいのつもりだったのだが床板は盛大な音を立てて崩れた。
「ふえぇ」と情けない声をあげるスカーレット。
改めて自分の身体能力がとんでもない事になっているのだと、まざまざ実感させられる。
「オイ、ボっとすんナ。早く行くゾ」
「ま、待ってよ、もう……」
現れたのは地下へと続く階段だった。
その暗がりに戸惑うスカーレットを余所に、ミヒャエルは躊躇いもなく飛び込んでしまう。
仕方なく後を追うスカーレットであったが階段を降りると不思議なことに、彼女の眼は暗闇の中で尚、昼の如き視界を確保していた。
そんな彼女の驚きなど露知らず、ミヒャエルはどんどんと先へ進んでしまう。
どんな時でも単独行動はしなかった彼の、焦ったようなその背中にスカーレットの胸中に自然と不安が芽生える。
カツンと。一段降りる毎に無機質な靴音が、やけに響く。
…………結構な深さまで降りてきた。空気は冷え、沈黙がやけに重く圧し掛かる。
会話の糸口を失ったスカーレットは黙ってミヒャエルの小さな背中を追い、ようやくして階段を降り切った。
「えと、……扉?」
そんなこと見なくても分かると呆れ顔のミヒャエル。
上階とは全く趣の異なる黒檀の、相手を拒絶する威圧感を放つ重厚な一枚扉があった。
魔法的な保護──登録された人物以外開けられない魔法錠がされていた。
「スカーレット」
「え、でも」
「いいからやってみロ」
「うぅ、やってみるよお」
涙声でドアノブに手を掛ける。案の定扉はシンと、何の反応も示さなかった。
だが──。
「何してんダ! 何も考えず回せばいいんだヨ‼」
「えぇー……?」
ミヒャエルの言う通り、ドアノブを捻ると──ミシリ──破滅の音がして黒檀の扉のノブが、魔法が、呆気なく壊れる。
「えぇ……」
自分で自分にドン引いているスカーレットを置いてミヒャエルは部屋に飛び込む。
慌ててスカーレットが後を追うと、そこには金銀財宝が山のように積まれていた。目も眩むとは正にこのことだろう。
「うわ、すご──ってミッくん⁉ もー……」
やはりミヒャエルは金銀財宝に目もくれず、さっさと行ってしまう。
彼の伊達ではないウサギ耳に、スカーレットの声が届いていない様子。
──形容し難い不安が、いよいよ明確な形を持ってスカーレットの胃の腑に圧し掛かった。
慌ててミヒャエルを追い掛け、部屋の奥、奥の奥──。
「……居たゼ」
立ち止まったミヒャエルと共に、物陰から奥の様子を伺う。
そこには──。
「ソコにいるのは誰だ⁉」
「ひっ……!」
ヒキガエルの如き醜男の、正気の欠片もない双眸が真っ直ぐにスカーレットを捉えた。
◇◇◇
「はぁん? んだ、もう終わりか?」
ギルド目掛けて殺到する魔物の群れを屠り、屠り、屠り続け──。
ようやくして、圧力が弱まったのをルドマンは感じた。
多くの冒険者が「やっとか……」と辟易していた中で、ルドマンの周囲の戦士だけは物足りなさを全身から発していた。
魔物の群れの集団を突っ切っていた、馬鹿どもである。
こいつらは自分と違う人種なんじゃないか? カッスルがルドマンらに呆れた視線を向けて──違和感を覚えた。
一度覚えた違和感は拭えず、カッスルはその正体を探る。
生死と隣合わせの冒険者は、時に不合理とも呼べる判断を迫られる。カッスルは特に、この第六感めいた違和感を重要視していた。
(なんだ? 俺は何を気にして──?)
そうしてカッスルは違和感の正体へと至る。
違和感の正体、それは
「喜べルドマン。まだ終わりじゃないみたいだ」
「あぁ?」
魔物と冒険者、最早趨勢は決まり残党処理の段階に入っていた。
気怠そうに
なんだと思いつつも、ここ一番でのカッスルの判断に間違いは無い。
信頼からルドマンが
「カッスル! あれ──‼」
「……あぁ、分かってるよ」
大分粗が目立ち始めた魔物の集団のその向こう、大きな人影が見える。
事実として影は巨大であった。
背丈の低いゴブリンに囲まれているためか、その巨大さはより強調されて見える。
徐々に近付いてくる巨大な影の、輪郭が正確に像を結んだ瞬間の、『
──カッスルとリーラは緊張を以て。
──ルドマンとネリは歓喜を以て。
──モンスター、オーガを迎えた。
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