幕間 カレーなる使者

「アカネ、もう夜も遅い。そろそろ寝たらどうだい?」

「ごめん、お父さん。もうちょっとで仕込みが終わるから、これが済んだら眠るね」

 カンバラ家の邸宅が一階が店舗、二階が居住区という構造をしていた。台所や寝室は二階にあるものの、トイレだけは客も使えるようにと一階にあった。

 もよおした肝心な時にお客さんが使っているという事のあるトイレが、アカネはちょっとだけ嫌だった。

 そのカンバラ家の台所で、アカネは明日のカレーの仕込みをしていた。

 イッシキは娘の背中を見て頼もしさを覚える一方、まだ十二歳になったばかりの彼女に負担を掛けてしまう現実に心苦しさを覚える。

 イッシキでさえそうなのだ。その負担を強いてしまっている病床の妻──アヤの心労はイッシキの比ではなかった。

「……そうかい? 手伝ってくれるのは助かるけれど、アカネもまだ子供なんだ。辛くなったらいつでも言いなさい」

「ううん! ワタシだって手伝えるんだって──ワタシの料理の腕が役に立つんだって、すっごく嬉しいの! だから平気だよ!」

 アカネが浮かべた満面の笑みに、イッシキは言葉を失ってしまう。

 娘から子供らしさを奪っているのは事実かもしれない。だが、自分たちが勝手に彼女らの境遇を嘆いているだけで、当の本人は気にしてもいないのかもしれない。

(……いつの間にこんなに大きくなって)

 不意に小さかった頃のアカネを幻視して、イッシキは目頭を押さえて天井を仰いだ。

 そんな父の不可思議な行動をアカネは不思議そうに見詰めていると、次に父が見せた表情はとても穏やかなものだった。

「アカネ。お父さんは明日大事な商談があるから、すまないが先に休ませてもらうよ。火の扱いだけは気をつけておくれ」

「うん。おやすみ、お父さん」

「おやすみアカネ」

 そうして声の失せた台所で、アカネが振るう包丁の音だけが響く。

 具材を切り揃え、香辛料たっぷりのルーを時折混ぜ。

 前日に出来ることを全て終えたアカネは額に浮かんだ汗を拭った。

 少し、汗を吸った服は不快だが夜も遅く、一度水浴みをしたい気分であったが風邪を引いたら事である。健康とは何事にも代えがたいものなのだと、アカネは母を見て十分理解していた。

 火を消したのを確認し、道具を片付け終えたアカネはそのまま床に就こうした。

 そんな彼女の視界の端。窓の向こう。

「あれ? お星さま?」

 気のせいだろうか? 夜空に一条の星が流れたような──。

 何せ一瞬のことだ。今一つ確信が持てない。

 そのままなんとなく窓に近づいて夜空を眺めていると、また一つ、星が落ちた。

(見間違いじゃない!)

 流れ星とは、珍しいものを見た。明日はもしかしたら良いことがあるかもしれない。

(……アーサーくんとお話し出来たりして)

 そう、五つ下の想い人との可愛らしい妄想を思い浮かべてはアカネの頬に朱が差した。

 常であれば、そのような妄想をするだけで終わるだろうが。

 何故だろうか? アカネの豊満な──十二歳がしては犯罪的な肉付きである──胸の内にやけに引っ掛かるものがある。

(なんでだろう……。気になるなぁ)

 先程落ちた流れ星が、脳裏に焼き付いて離れない。

 自分の気のせいで無ければ二つ、星が落ちたのだ。

 大気を震わせる振動も、耳をつんざく轟音も無い。普通に考えれば大地へ落ちる前に燃え尽きたか、落ちたとしても遠くだろうに。

 カーディガンを羽織り、家族を起こさぬようそっと家を出た。

 奇しくも今日は満月だ。カンテラを点けずとも、石畳に影が落ちるほどに明るい。

 視界は良好だと言っても、子供がいやさ用の無い人間が出歩く時間ではない。

 出歩くのは夜番の見回り兵と精々が冒険者と。そして日の下には出られないような、傷持ちの人間だろう。

 だのにアカネは、導かれるような迷いのない足取りで、誰一人とも遭遇せず。

 ──自然アカネは教会へとやって来ていた。

 当然協会の扉には鍵が掛かっており、しかしアカネはそのまま裏手へと回る。

 そこは身寄りのない人々の共同墓地があり、墓碑には誰とも分からぬ名前がズラリと刻まれている。

 神聖さよりも恐怖が勝ってしまう、そんな場所をアカネは足取りも確かに進む。


 ──ほどなくしてアカネは彼と出会った。


 すり鉢に削れた、小さなクレーターの中央。猫ほどの大きさの、真っ白な獣が横たわっていた。全身傷だらけで、美しい白い毛並み赤く斑に染まっている。

 アカネは直感的にソレが、先ほどの流星なのだと理解した。

「大丈夫!?」

 慌てて駆け寄ると獣は身じろぎし、僅かに開いた双眸がアカネを射抜く。

 アカネは一瞬怯んだものの今一度駆け寄ると、身に着けていたカーディガンを脱いで白い獣を包み上げた。

 その優しい抱き心地に、獣の意識はそこで途切れた。


◇◇◇


「いやー、助かったゼ! ありがとうナ!」

「はぁ」

 家へ帰り自室へ戻り、応急処置を施したところで獣は目を覚ました。

「オレサマの名はミヒャエル! よろしくナ、えーっと……」

「えと、アカネです。アカネ・カンバラ」

「オウ! よろしくアカネ!」

 ……理解が追い付かない。

 意識を取り戻した獣──猫だか狸だか兎だか分からない生き物はミヒャエルと名乗り、器用に前足を上げた。妙に人間臭い仕草である。

 目覚めたミヒャエルは最初よく分からない鳴き声を上げていたのだが、突然片言ながら言葉を話し始めたのだから驚きだ。

「そ、その。ミヒャエルは魔物なの?」

「ハァン?」

 人語を解する動物を、アカネは知らない。

 世界は広く、単に彼女が寡聞なだけかもしれないが。恐る恐る、ミヒャエルに尋ねると彼(彼女?)は不服そうに顔を歪める。口元から剥き出しの犬歯が覗いた。

「アカネ。オレサマを助けたことに免じて魔物とかいう下等生物と間違えたのは不問にしてやるが、一度は許してやるが二度目はねーゼ?」

「う、うん。ごめんね……?」

 やたら偉そうなミヒャエルの態度に、アカネは困惑を隠せない。

 少女の謝罪に気を良くしたか、ミヒャエルは鷹揚に頷いた。

「それじゃあ、ミヒャエルは何者なの?」

 よくぞ聞いてくれたと謂わんばかりに、ミヒャエルは軽やかに宙返りをすると二本足で着地し、これでもと謂わんばかりに胸を反らし朗々と宣言した。

「オレサマはミヒャエル! ここから五〇〇〇万光年先にある大ビゴット星系のカレード星からやってきた星獣ダ! 裏切り者のルキフェルがこの星に逃げ込んだって目撃情報を追って来たのサ!」

「その、ルキフェルって……?」

 どこか別の星からやって来たというミヒャエルにアカネは驚きを隠せない。

 実に信じ難い話ではあるが、アカネはすんなりミヒャエルの話を信じた。

 不可思議な彼の存在は異星人だという方がしっくりくるし、天上の星々には神々が住まうとは子供の頃から言い聞かせられていた。

 だが何より大きいのは、アカネの生来持つ素直さだろう。

 アカネは「裏切り者」と、不穏な気配を放つ単語について聞き返す。

「オウ! 悪い奴なんだゼ! オレサマたち星獣は多種族にチカラを貸す代わりに愛や希望なんかの正の感情を貰って生きてるんだガ、ルキフェルのヤロウは悪食でナ! 嫉妬や憎しみ、絶望が好物なんダ! ルキフェルにからチカラを貰って負の感情を増幅された人間は、最後は自分の欲望に喰われてバケモノそのものに成り果てちまウ……。ヤツを放置すると世界がヤベェんダ!」

「えぇ⁉ 大変じゃない‼」

「だから言ってるだロ! ヤベェんだっテ‼ アイテテテ……!」

 興奮し過ぎて傷口が開いたか、ミヒャエルは顔を顰める。

 アカネは不安そうにミヒャエルへ尋ねた。

「で、でも大丈夫だよね? ミヒャエルはそのルキフェルをやっつけに来てくれたんでしょ?」

「オウ、それなんだがヨ……」

 ミヒャエルはアカネの視線から逃れるように顔を反らす。

「……どうやらこの星に降りる際、ヤツの手下とバチクソ殺り合ったせいで本来のチカラが出せねぇみたいダ。情けエ……」

 その言葉に、少女から血の気が引いてゆく。

「そ、それなら! 領主様に相談しよう⁉ あの人なら話せばきっと力になってくれるよ!」

「ソレなんだがヨ、オレサマたち星獣のチカラに対抗出来るのは、同じ星獣のチカラしかエんダ。この星のヤツらがどんなチカラを持っていても、星獣のチカラの前じゃ無意味なんだゼ……」

「そ、そんな……」

 絶望的な話を突き付けられて、アカネは目の前が真っ暗になった。

「アカネ! 絶望するにはまだ早いゼ!」

 少女の変化を敏感に察したミヒャエルが、慌てて明るい声をあげる。

「言ったダロウ!? オレサマたち星獣は多種族にチカラを貸すって! アカネ、頼む! オレサマのチカラが回復するまで、オレサマの代わりに戦ってくれ!」

「──ふえ?」

「アカネには素質がアル! オレサマたちカレード星のチカラと親和性が激高と見タ!」

「──ふええ?」

「オレサマの貸すチカラで、アカネ! ヤツの、ルキフェルのチカラに飲まれて性獣──クピドと化してしまった人間を浄化してやってくレ!」

「ふえええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」

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