第7話 忍び寄る影

(何が美しいよ! バカにして! バカにしてっ‼)


 テレジアは激情に駆られるがまま、一人駆け出してしまった。

 公爵令嬢という立場にあるまじき軽率さである。

 普段のテレジアであれば、それくらいの分別はきちんと付いていた。しかし今の彼女は、そんな事すら吹き飛んでしまうほどに感情のバランスを欠いていた。

 初めてだった。我を忘れるほどの感情に支配されるのは。

 初めてだった。同年代の子供の才能にこれだけ嫉妬したのは。

 言葉の真贋を確認することもせず、真意を尋ねることもせず。ただ己の感情の往き先を優先してしまった。

「っ」

 気を緩めると、涙が出そうだ。

 ……自分が嫌になる。才能の無い自分が。弱い自分が。

 テレジアは鼻をすすり目元を拭い、ようやく自分が見知らぬ場所に迷い込んだ事に気付いた。

 そも今日に来たばかりの村だ。勝手なぞ端から知らぬし、自失した状態で走ってきたせいでどこをどう通ってきたのかも分からない。

 自分が今、見知らぬ場所に居ると理解した瞬間、テレジアの背中を恐怖がじんわりと這い上がってきた。

 一方で私は今、誰も自分を知らぬ場所に来たのだと考えると、不思議と心が軽くなるのも感じたのだ。

(お父様は彼を手放しで褒めてたけど……)

 若干の冷静さを取り戻すと、やはり気になるのは少年のことだ。

 父に目を掛けられている少年、アーサー。自分より貴族に相応しいとまで言わしめた少年、アーサー。

 不愉快が再び鎌首をもたげてきた。その証拠にテレジアの口はへの字を描いている。そんな不機嫌さを誤魔化すように、テレジアは大きく手を振り村を見回ることにした。

 昼間の案内の際はアーサーへの嫉妬で、碌すっぽ話を聞いていなかったからだ。

 狭くなっていた視野が元にもどると、ギム村には確かに、普通の田舎では見ない物が沢山あることに気付いた

(あれは、くるくる回っているし風車かしら? でも、変な形……)

 まず目に入ったのが民家の外で、からからと小さな音を立てて回っている物体だった。

 テレジアの考えは正しいのだが、形状が彼女の知る風車とまるで異なるため自信が持てずにいた。

 それはサボニウス型風車といい、半円筒状の羽を二枚、重ならないように設置した形状をしている。バケツを真っ二つにして、ズラしたものだと考えれば想像しやすい。

 通所のプロペラ型の風車よりも効率面では劣るものの、三六〇度どこからの風でも回るため風位を考える必要がない。また、羽に当たった風が内部で反射してもう一方の羽も回すという特徴を持っているため、弱い風でもよく回る代物であった。

 次にテレジアの興味を引いたのは井戸だ。

(どうしてこんなに沢山の滑車を付けているのかしら? 資源の無駄じゃないの?)

 井戸は普通の釣瓶つるべ井戸でテレジアの知るものと、そう変わりない。ただ一点、滑車が複数──六つもあるのが記憶のものとは違った。

 この世界には魔法と呼ばれる、アーサーからすれば珍妙不可思議としか思えない力が存在する。

 水を運び上げるのが大変? なら身体強化の魔法を使うか桶に軽量化の施せばいいじゃないか。この世界の人間は誰もがそのように考える。

 大抵の事は魔法で解決出来てしまうという現状せいで、力学、化け学、物理学の発展を著しく阻害していた。

 滑車の原理も、きちんと定義付けされていたりはしない。

 そういう者達から見ればギム村の井戸は奇妙に見えるのだ。

(これもあの子が考えたんですの……?)

 ……性格に云えばアーサーは前世の知識を活用しているだけなのだけで。云うなれば知の再発見、ということになるのだろうか? 中には人の功績を横取りするような、後ろめたい感情を抱く者もいるだろう。アーサー少年は一切そのような事を感じさせず先人の知恵を活用する辺りある種清々しいまである。閑話休題。

 そういえば、と。テレジアは思う。

(こんな風にお供も連れずに歩き回るなんて、初めてですのね)

 その事実に気付いたテレジアは何だかワクワクしてきた。ちょっとした冒険気分だった。

 月と星の明かりを頼りにして、テレジアは村を見て回る。他人に見つかると連れ戻されると考えた彼女は、出来る限り他人の目に付かぬよう家と家の間を縫ったりするなどの工夫をして移動をした。

 

「お姉さんどうしたの?」


 そんな彼女に掛ける声があった。

 突然のことにびっくりして飛び上がってしまう。

 恐る恐る振り返れば自分より背の低い、若葉色の髪が特徴的な少女が立っていた。

 飛び上がるなど、淑女あるまじき失態を見せたテレジアは誤魔化すように軽く咳払いをして少女に向き直る。

「ねぇ、お姉さん。今日来てた貴族の人でしょ?」

 ──心臓を鷲掴みにされたかと思った。

「子供が、こんな夜更けに出歩いちゃダメよ」なんて、お姉さんぶろうとした言葉は引っ込んでしまった。

 見つかってしまった。連れ帰らされてしまうかもしれない。当然の考えがぎった。しかし私の心は「まだ帰りたくない」と叫んでいた……。

 まだ、だなんて? じゃぁ何時になればいいのか? 半刻後? 一刻後? それとも、日が明けたら?

 私が答えられずにいると、少女はニマと笑みを浮かべた。

「そか」

「え!? ちょ、ちょっと何を!?」

「だいじょーぶです! 私もあとで一緒に怒られてあげますから!」

 少女は私の手を取ると駆け出した。彼女は大丈夫大丈夫と言うだけで手を話すつもりは無いらしい。

 片や私はというと、ただ転けないように必死で。手を振りほどこうという考えすら浮かばなかった。

「ふふ。だからぁ、お姉さんも一緒に怒られてくださいねっ」

「……もう。仕方ないですね」

 この歳で少女は自分の可愛さを熟知しているのだろう。

 瞳を潤ませ上目遣いで、庇護欲を刺激する表情を浮かべている。

 自分よりも年下の子供に甘えられる──頼られているという事実が嬉しくて。

 ──そう、仕方ないのだ。これは彼女のためだ。小さい子を一人にする訳にはいかない。だから──仕方ないのだ。


 月と星の下、地面に伸びた二つの影。

 他の人に見つからぬよう、隠れんぼだ。

 影は寄り添い、小さな笑い声を上げた。

 その時、雲が月を隠した。叢雲である。

 少女の顔が陰り笑顔が、嗚呼、隠れてしまった。。

 だから、だから。


 少女の口が歪な三日月を描いたのが、テレジアの目に映らなかったのも──仕方ないのだ。

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